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学生探検記録:中国洞天福地編part2

 9月8日、前日に30分ほど入洞した大滌洞へ今度は測量をするために朝一でタクシーに乗り込んだ。今回の活動において移動はほとんどがタクシーだった。現在の中国において、我々外国人は政府が認可したホテルしか泊まることはできない。そのため、何日か続けて同じ場所を調査する際は、その日の調査を夕方に終えた後に毎日市街地に戻ってホテルに泊まり、翌日また調査地まで行く。また、郊外にある調査地まで行く公共交通機関が滅多にないため、毎日タクシーで行き来していた。

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大滌洞の洞口前で入洞準備をしていると、道観に住む道士が寝間着姿で近づいてきた。スマートフォンをこちらに向けて撮影しているようだった。近づいてきた道士は我々に「洞窟にはもう入るな。」と言ってきた。「昨日は大丈夫だったじゃないか。」というと「いいから入るな。入ったら通報するぞ。これでビデオを撮っているし、そこに防犯カメラもついている。」そう言って道士が指さした方向を見ると、岩壁に生えた草に隠れて防犯カメラが設置されていた。「この様子は公安に直接送られている。」そう言う道士はなんだか嘘くさい。昨日役所の人間がいる前で入って大丈夫だったのに、なぜ今日はだめなのだろうか。しかし、ここで通報されて面倒な事になったら土屋氏にも迷惑をかけるので、おとなしくその場を離れた。

 道観から少し離れたところで作戦会議をし、村人への聞き取り調査を行うことがちょうど決まった時、前方から年配の女性三人が歩いてきた。この周辺の洞窟のことについて彼女らに質問すると、三人同時に大音量で話し始めた。中国語は響きがどこか攻撃的な感じがして、説教されているような気分になる。彼女らの方言はきつく、安徽省出身の通訳・宋でもその中の一人の言っている事しか聞き取れない。我々はもちろん聞き取れない。宋が聞き取れたことを我々に訳そうとして口を開きかけるが、おばちゃんの話が止まらない。ようやく話が切れたところで訳すというのを何回か繰り返した。「この近くには大滌洞の他に観音洞と仙人洞がある。観音洞は人が一人入れるぐらいの小さい穴だ。仙人洞には座ったままの死体がある。しかし、二つの洞窟へと道はもうなく、どこにあるかも今はわからない。言い伝えで洞窟については知っているが私達は行ったことはない。しかしそれらの洞窟について書かれた本がある。」その本は三人組の中で最も年配で最も方言がきつい方の弟が書いたものだという。「著者である弟さんに会えないだろうか?」と尋ねると、「彼はもう亡くなった。」という。方言が弱く話を聞き取れる方が「その本はうちにあるから見せてあげる。」と言って自宅に案内してくれた。彼女は金さんという方だった。

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 彼女が見せてくれたものは、洞霄宮周辺の概要について書かれた冊子で、浙江省新聞出版が発行したものだった。そこには仙人洞や観音洞、その他の周辺の洞窟の位置を表す地図とそれらの洞窟について詩人が読んだ詩が掲載されていた。仙人洞と観音洞について詳しく話を聞くと彼女は話し始めた。「仙人洞の中にはもう一つ洞窟があり、その奥には宝が眠っているという伝説がある。この地は昔から道教の聖地であり時の皇帝が訪れたこともある。ここは歴史的に重要なところだったけど、すっかり廃れてしまった。30~40年前に当時の村長が主体となってこの村を観光地化しようとしたことがあり、行政に要請した。この村は貧しいから少しでも生活を豊かにしようとしてね。その時も今もこの地は観光地化することに賛成する人と反対する人は半々くらい。反対する人は、観光地化されて今の生活を壊されたくないから反対する。もしもここが観光地になったら、私はガイドをやりたいと思っているけどね。それで30~40年前に行政に観光地にしてほしいとお願いしたら、洞窟の中にある宝を見つけたら観光地化しようと言われた。それから村の男たちみんなで洞窟の中を探したが、五日ほど探しても洞窟の中の洞窟を見つけられず、宝も見つからなかった。いつまでも洞窟を探していたら生活ができないから、五日経った時点で探索は打ち切り、観光地化はあきらめたの。」「その洞窟に今行くことはできませんか?」我々は尋ねた。「そこへはだいぶ前から人が行かなくなったから、もう道がない。それに4~5年ほど前にその洞窟を探しに来た中国人が公安に逮捕された事もある。もう行けないよ。」

 今回は調査できないにしても、今後調査ができるならやりたい。その為にもこの段階で村長に調査への協力を得られないだろうかと思い、村長の所在を訪ねると、あいにくこの日は不在だった。一通り話が終わると時間は昼過ぎ。「昼ご飯を食べていかない?」と金さんに誘われる。「ぜひご一緒したいです。」と言うと、彼女は張り切って台所へと歩いて行った。そこで通訳の宋に言われた。「辻さん、今のは断るべきです。中国の文化で来客には必ず食事を誘うが、断るのが普通です。」「そうなんですか。知らなかった。でも今から断るのも悪いし。」「今回は大丈夫ですが、これから気を付けてください。」「気を付けます・・・」そうこうしているうちに料理が運ばれてきた。トマトと卵の炒め物、青菜とニンニクの炒め物、豆と冬瓜のようなもののスープと、いかにも中国の家庭料理というような献立だ。あっさりしていて薄味だがおいしい。食べながら金さんと他愛ない話をする。今振り返って思うのは、この活動で心に残っているのは洞窟調査よりも、この時のように地元の人とご飯を食べたり茶を飲みながら話していたりした時のことだ。

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時刻は2時半頃、予約していたタクシーが到着する。翌日次の調査地に土屋先生と行くことになっていたので、この日のうちに市街地から高速バスで移動しなくてはならなかったのだ。別れ際、金さんは副隊長の山崎を指しながら、「彼はハンサムだね。」と言った。そういえば、その後も別の調査地で聞き取りをした時も山崎への高齢の女性からの支持は厚かった。宋が言うには、今の中国でのイケメンは色白で背が高くて顔が整っている人らしい。山崎はまあ当てはまらなくもない。私はと言えば、聞き取りの際宋が我々の身の上を簡単に紹介してくれると大抵驚かれ、「こいつも日本人か⁉中国人じゃないのか?」などと言われることもあった。色黒で坊主でひげを生やし、小汚いジャージでいることが一昔前の中国人っぽいみたいだ。逆に宋はすごく日本人っぽい。色白で目が少し垂れた顔は優しそうで、髪は清潔そうに整っている。恰好からしても、いかにも日本の大学生に居そうだ。それに気が効く。日本語を話していても違和感がなく、日本人と話しているようにスムーズに会話できる。聞き取り相手の村人に「君中国語うまいねえ。」なんて言われている時もあった。日本人だと思われたのだ。

 第一の調査地である洞霄宮村での調査はこれで終わり。この日のうちに次の調査地天台へと向かった。ちなみに天台という町は道教にとって重要な場所であるが、仏教にとっても同様だ。9世紀に最澄が天台を訪れて持ち帰った教えが天台宗なのだ。そんな日本とゆかりのある天台が第二の調査地だ。

文責:辻 拓朗(法政大学探検部)

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