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瀬戸内海横断記

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はじめに 

 探検部の中でもマイノリティーな活動である、「海上でのカヤック活動」についての紹介、啓発を目的に、本記録を連載させていただきます。

  これは、「広島から、カヤックで瀬戸内海を横断して四国に行きたい」という日本大学探検部員の僕と、そんな個人的な野望に付き合わされ友人 A と共に体験した、二人乗りカヤックによる活動記録です。

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Day1

 東京駅で1枚の青春18切符に 2 つのスタンプを押してもらった僕らは、朝の7時26分発 上野東京ライン 熱海行き に乗り込んだ。ここから、瀬戸内海の入口に向けて約15時間の長い移動が始まる。様々な交通手段が発達した現代においての、列車で乗り継いでの「15時間」とは、だいたい飛行機でニューヨークからシンガーポールの約1万5千 km を移動する時間に相当するらしい。そんな「15時間」で700km を移動するのである。何て、時代錯誤な事を僕らはしているのだろうと、友人 A と共に苦笑した。そういうわけで、1日目は列車に監禁され、退屈な時間だった(もちろん、自発的な行為であるが)。

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 その日の夜22時45分に目的地の駅でやっと降りれた僕らは、この日最後の列車が去って行くのを見届け、無人のホームを出た。そして、グーグルマップの航空写真に映るコンビニ近くの浜辺に向けて、暗闇に覆われた静かな漁師町を歩く。その後、どうにか目的地に着いたのはいいが、浜辺は、海水で満たされていた。つまり、浜辺は満ち潮のため沈んでいたのである。予想外の事態に呆気に取られ、かなり失望したものの、どうにか元浜辺の端に沈んでいない場所を発見する。時間帯が満潮から干潮に変わる時間であったため、これ以上沈まないであろうと考えた僕らは、カヤックの出しやすさも考慮し、この残された僅かな浜辺の一角で、一夜を過ごすことに決めた。こうして、長過ぎた1日は、ようやく終わりを迎えたのである。

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Day2 始まりの海 

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 「朝起きたら海の底にいる」、そんな気がしていた。実際に朝起きてみると周辺は相変わらず砂であったので、安心して二度寝した。目の前には、瀬戸内海が広がり、昨日は月光に照らされていた島影が、今では、はっきりと島だと認識ができる。海上は、少し霧だっているものの、極めて波は穏やかであり、小さなタグボートが忙しそうに何度も往来を繰り返している。そんな気持ちの良い朝、友人 A とさっき茹でたスパゲッティーを食べながら、今日の予定を話していた。まず、大久野島という観光地の島に寄り道をし、その後、大三島、多々羅付近で野営をすることに決まった。初日なので、あまり大した行程ではない。

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 そうして、僕らは、カヤックをさっさと組み立てて、行動食と飲料水をコンビニで購入し、持ってきた全ての荷物を120リットルの業務用ビニール袋にそれぞれ入れて、カヤックに積んだ。そして、10:00頃に出航する。ここから、しばらく本州とはお別れだ。僕らは、故郷の島である本州の最後の姿を目に焼き付けて、「サラバ本州!」とカヤックから叫びながら、離れていく海岸に手を振った。こうして、僕らの「瀬戸内海横断」を懸けた航海が、幕を開ける。

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 瀬戸内海は、内海という言葉が付くだけあって、風波やうねりの影響は受けにくい。いたって、穏やかである。しかし、瀬戸の名物「渦潮」という言葉がある通り、潮流は激しい。特に狭い島と島の間を抜けるには、この潮流の動きに注意することが、今回の横断の鍵となってくる。 大久野島に行くまでの本州と他の島々との間は広く、また潮流の流れもほとんどなかったため、静かな湖面を漕いでいる感覚に似ており、ここが、海であることを少し忘れた。しかし、船の往来は激しく、周囲の貨物船からタグボート、それぞれの船舶の針路を双眼鏡で確認しながら、僕らのカヤックの針路を委ねた。もし、カヤックの針路上に別の船が、やってくる場合は、移動中の船の現在位置に船首を向けて、漕ぐことで、衝突するのを防いだ。出航してから約1時間後に、大久野島の海水浴場にたどり着く。本来なら定期船でしか来られない場所であるので、少し得をした気分だ。多分、船賃300円×2くらいは浮いた。そして、海水浴場の管理人にカヤックを置く許可をもらい、この島を歩いた。

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 大久野島は、うさぎの島として有名だ。島中に兎がいて、餌を求めて、ただ歩いている観光客に向かって多勢で跳んでくる。そんな呑気な島だ。しかし、この島は、戦前に旧日本陸軍の毒ガス工場があった場所でも知られている。なので、この島のあらゆる場所に、そんな事実があったことを伝えてくれる戦争遺跡がたくさん残っていた。しかし、休暇村をはじめ、観光地となったこの島にとっての遺跡達は、どこか異質な存在にうつってしまう。これが時代の流れというものなのだろうか。

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 そんな大久野島を観光したあと、再び出航する。しかし、この時の時刻、午後2時であり、行きとは明らかに違う潮流がそこにはあった。大久野島の南の対岸には、大三島があり、島と島の間は、1.3km ほどしかない。そんな「間」に直面する海水浴場からみて、右側の方面に向かって、潮流が激しく流れていることが確認できた。多々羅方面は、左側である。

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 結局、出航して直ぐに、この潮流に巻き込まれてしまった。瀬戸内海の潮流は、最大で鳴門海峡で 19.4km あるらしく、干満差は、最大4m あると言われている。このように瀬戸内海における潮流は、ダブルパドルで漕ぐ事でしか動力を得られない僕達にとって、非常に脅威であり、一度巻き込まれたら、流れに逆らうことは難しい。そんな潮流にのると、川の激流に流されているようで、それは、カヤックよりラフティングな気分だ。大幅に流されたものの、あまり流れがない大三島の海岸付近に、どうにかたどり着くことができた。そうして、針路を多々羅方面に向け、この後は、難なく夕方6時頃に、大三島多々羅に辿り着いた。

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 この日は、満ち潮という海からの侵略者から離れた場所で泊まることにした。寝袋から空を見上げれば、綺麗な星々が瞬き、波の音が微かに聞こえてくる。この夜、僕は、「地球で寝ている」、そんな当たり前の事に気持ちを満たされながら、眠ることができた。

航海1日目 移動距離:16.3km

文責 庄子 隼人 (日本大学探検部)

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