学生探検記録:中国洞天福地編part1
中国には洞天福地と呼ばれる道教の聖地が118ヶ所存在している。
洞天福地は神仙世界へと通じる洞窟のことであり、伝説上ではその大きさは千里や万里と言われることも多い。洞天福地は7世紀から中国の文献に登場しており、およそ1000年間にわたり、仙人伝説の舞台として、また仙人を目指す道教修行者の修業の場として、そして大衆の信仰の対象として存在していた。しかし、明王朝が倒され、女真族により清王朝が建てられると、漢民族の宗教である道教信仰者は減っていった。さらに、1960年代から1970年代に毛沢東が文化大革命を進め、宗教が否定された。それにより歴史ある道観は破壊され、洞天福地は人々か忘れ去られていった。
洞天福地における研究はこれまでほとんどされてこなかった。約10年前に日本の道教学者が研究し始めたことで、中国やフランスの道教研究者からもその重要性が認識されてきている。しかし、この10年で調査された洞天福地は全体の1割ほどであり、調査された洞天福地もその周辺の廟や修行者の調査が中心に行われており、洞窟内部の状況について記されたものはない。
仙人伝説の舞台となった洞窟はどのような構造をしており、その内部には何があるのか。それを明らかすることが出来れば、伝説の下となった事実が何か解明されるのではないか。そのような考えから、私は洞天福地の現地調査を行うことにした。
今回の調査は2019年9月6日~9月20日までの15日間、場所は浙江省の臨安・天台・仙居の三つの街にある三つの洞天福地を調査した。これらの洞窟は三ケ所とも一度研究者による調査がされており、事前の情報が得やすく土屋氏とのコネクションから調査がスムーズに行くものと思われた。また、洞窟内部の状況については調査がされていないため、我々が調査する意義もある。隊員は法政大学探検部の辻・山崎・関の三人である。また通訳として日本語を学ぶ中国の大学生である宋を雇い、9月3日から現地で調査を行っていた道教学者の土屋昌明氏、森瑞枝氏には7日から9日まで調査にご協力いただいた。
最初に訪れた洞天福地は浙江省の省都である杭州から30㎞ほど西、臨安県洞霄宮村にある大滌洞である。これには土屋氏、森氏、中国科学技術大学の道教学者一名が同行する予定であったが、さらに行政の役人が4人、役人の友人が2人、風水師が1人同行し、役人の友人の車で洞窟へ向かった。いかにも中国の田舎という感じの集落を抜けた所で車を止め、そこからは未舗装の道を歩いていく。10分ほど歩き畑を抜けると、小屋が見えてくる。その小屋の前には「洞霄宮」と書かれており、小屋には2mほどの神像が見える。その小屋を通り過ぎ、50mほどのところに、5mほどの岩壁があるのだが、その岩壁にぽっかりと縦長の穴が空いている。洞口の天井部の岩が削られて看板の様になっており、そこに「大滌洞」と書かれている。これが大滌洞らしい。洞窟の前に来ると、グアノ(蝙蝠の糞)の独特な臭いがする。洞口は地面から4mほど下がっている。洞口の手前には石のブロックで作られた階段があり、2mほど降りる。そこは人が10人ほど立てるスペースがあり、線香台と参拝者がひざまずく時のための台がある。その台には太極図が描かれていた。そのスペースから2mほど降りたところが洞口であるが、階段同様石のブロックで壁が作られていて、降りるには飛び降りるしかないが、下は湿っていて、転びそうであるし、登り返せないだろう。洞口の写真をある程度撮り、入洞できそうな他の洞口を探すと、右手に回り込んだところに岩を削って階段状にしているところを発見した。ヘッドランプとカメラを取りに戻り、そこから辻と山崎で入洞した。
大滌洞内の様子は13世紀に書かれた『洞霄図志』第三巻「大滌洞」に記されている。
洞天の門には「石鼓」があり、叩くと音が響いた。また、洞窟の天井と地面は平らであり、道の奥には柱がさかさまになったような「隔凡」と称される石があったという。その石より奥には穴があり、その中にある井戸からは水の音が聞こえ、歴代朝廷が投龍簡の儀式を行う場所であった。
さらに、洞窟内部の様子については、石は光沢があって玉のようであり、岩肌は黒い色をしていて、道は曲がりくねっており、人がやっと通れるほどだったとされている。そして、上記の「隔凡」と称される意志のところで行き止まりになっており、投龍簡をするときは童子に潜り込ませていたという。
(『洞天福地研究 第四号』引用)
洞口近くに石鼓と思われるようなものはない。地面と天井は平らである。泥は靴にまとわりつきすぐに重くなった。天井高は10mほどで、天井には蝙蝠が止まっている。また、湿度が高く、天井から水滴が落ちてくる。岩肌は黒いが光沢はなく、地面に近いところは泥がついている。穴の幅も人が二人通れるくらいの幅はある。奥へ進むと角材が地面に突き刺してあり、そこに割れた電球がかかっていた。電球から延びた電線は洞窟の天井近くから洞窟の外へと延びていた。その奥には直径1m、深さ1mほどのくぼみが一か所存在し、その奥は5mほどで行き止まりになった。洞窟の全長としては20mほどであるように思う。最奥に柱をさかさまにしたような石はなく、斜め下へと続く直径30㎝ほどの穴があった。その中を光で照らしてみると奥は狭まっていて、人が入ることはできないように思えた。穴から吹く風もなかった。その穴に頭を突っ込むと泥だらけになるため、洞窟の外から我々を呼ぶ声が聞こえたので引き返した。役人たちが暇を持て余して帰りたがっているので引き上げようとのことだった。我々が洞窟に入っている間、教授陣は洞窟のすぐそばのところにある道観に住む道士(修行者)と話をしていた。あとから教授に聞いた話によると、道観内に備えられた設備は高級品ばかりで彼らは宗派に属さず悠々自適に人里を離れて暮らしているらしいとのことだった。それから街へと戻ると、役人とその友人が高級中華料理店で御馳走してくれた。土屋氏によると現地調査に行くと、毎回このような接待をしてくれるらしいが、調査においてはあまり自由にさせてくれないとのことだった。
文責:辻 拓朗(法政大学探検部)