松本サリン事件によせて思うこと

松本サリン事件三十年目ということで色々報道されています。 

河野義行さんが疑われたり、冤罪などのテーマも含んでいるので色々教訓のある事件だったと思います。 


ただ、わたしが感じるのは凶悪事件が起きて犯人がよく分からない段階で「アイツが怪しいんじゃないか?」という偏見を持つことはそんなに悪いことなの?ということです。 


確かに河野義行さんは被害を受けました。


 でも、それを教訓にし過ぎるあまり、何か事件が起きたときに「偏見を持つな!」みたいな考え方が権威化してしまうと「オウム真理教が怪しいんじゃないか?」みたいな考え方もできなくなるのでそっちの方が危険なんじゃないの?と。 


たとえば関東大震災の時に「朝鮮人が井戸に毒を入れている」というデマが普及して朝鮮人大虐殺事件が起きましたが、これも朝鮮人を暴行虐殺したことはいけないことですが「朝鮮人が井戸に毒を入れて暴れている、朝鮮人は危険なんじゃないか?」という偏見を持つこと自体は危機管理意識として当然の対応なんじゃないかと思うわけです。


 今現在、埼玉県川口市では一部のクルド人が騒擾事件を起こして地元の川口市民と揉めていますが、これで実際に川口市民が自警団を組織してクルド人コミュニティを襲撃してクルド人を虐殺したら問題ですけど、 川口市民が「在日クルド人は危険だ」という偏見を持って自警団を組織するくらいまでの対応は危機管理意識として当然の対応なんじゃないか?と思います。


 要するに偏見をベースに過激行動して暴力などで被害を与えることは問題だけど、 偏見を持つこと自体は健全だし、認めるべきでは?ということです。

「差別は全てダメ!」とか「差別を無くそう」という考え方は危険です。

 この世の中から全ての差別を無くそうとした社会主義国家や共産主義国家では毛沢東やスターリンなどによって1億人以上の罪なき一般人が犠牲になりました。

 今でも北朝鮮では犠牲者が続出しています。 

「差別は全てダメ!」とか「差別を無くそう」という考え方は危険です。


 また、たとえば「外国人」と言う理由で、一定の警戒感を持ったり、何らか配慮を要すのは、偏見とは思えません。


 言語,歴史,文化,風俗,慣習,法令や、宗教観など思想的なものなどが、日本人とは違うのだから。

 日本人が何らか被害を受けることだけではなく、日本人が外国人と「対等な」友好関係を構築したり、外国人に対し加害的な行為をしないためにも、「特別な意識」は持つべきでしょう。

くりかえしますが、偏見に基づいた警戒心や恐怖心を持つこと自体は身を守るために大切なことです。

誰かの恐怖や偏見の感情を完全に取り除こうとすることはその人を死や不幸に近づける行為といっても過言ではありません。

高所恐怖症が強すぎると高層階に行けず生活に支障をきたすかもしれませんが、高所が全く恐くないという人はどこかで落っこちて死ぬかもしれませんよね。

 何事もほどほどにということですね。

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