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<袴田事件、有罪立証へ>『検察の理念』は忘却されたのか? ー有罪立証撤回をー

「検察の理念」はご存知だろうか。

今年3月上旬、袴田事件の再審開始か否かが注目されていた最中、学友からこんなパンフレットを見せられた。
その学友は、関東圏のとある検察庁の説明会に出席していて、そこで配布された資料とのこと。

パンフレットには、概要、刑事事件の手続きや職員のコメントなどの一般的な就活用の資料のようで、最後のページに全てを締めくくるかのように「検察の理念」が記されている。

これを読んで、学友も筆者も検察の現実とのあまりの乖離に失笑してしまった。

検察庁HPに掲載されているパンフレット(写真のパンフレットは、内容は
同様だが、改訂前のもの)


―――「理念」とは
まず「理念」を辞書で調べてみた。

「理念」
ある物事についての、こうあるべきだという根本の考え。
「憲法の__を尊重する」

(デジタル大辞泉)


このように「理念」とは、組織で職務を実行するにあたって、”根本”となる考え方であり、これに拘束されるのは当然である。


―――そこで具体的に「検察の理念」を見ていく。

「検察の理念」
 この規程は、検察の職員が、いかなる状況においても、目指すべき方向を見失うことなく、 使命感を持って職務に当たるとともに、検察の活動全般が適正に行われ、国民の信頼という基盤に支えられ続けることができるよう、検察の精神及び基本姿勢を示すものである。

1 国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を自覚し、法令を遵守し、 厳正公平不偏不党を旨として、公正誠実に職務を行う

2 基本的人権を尊重し、刑事手続の適正を確保するとともに、刑事手続における裁判官及び弁護人の担う役割を十分理解しつつ、自らの職責を果たす。

3 無実の者を罰し、あるいは、真犯人を逃して処罰を免れさせることにならないよう、知力を尽くして、事案の真相解明に取り組む

(特に重要箇所を抜粋)


―――「検察の活動全般が適正に行われ、国民の信頼という基盤に支えられ続けること・・・」

果たして、袴田事件の再審公判で有罪の立証をしても、「国民の信頼という基盤に支えられ続けること」ができるのだろうか。

今年の3月13日に、東京高裁は再審開始を決定した。
抗告期限が迫る中、一時検察がこの決定を不服として「特別抗告」する方針を固めたと報じられ、多くの支援者や国民、マスメディアまでもが抗告反対を表明していた。
実際に、弁護団の弁護士が立ち上げたネット署名は、4日目で3万人を超え、最終的には39,106名の署名が集まった。

今や「袴田事件」は「冤罪事件」と多くの国民に認識され、社会科の学校教育に取り上げられている現状を踏まえれば、今回の有罪立証は国民の納得するものではないといえる。
これで、「国民の信頼という基盤に支えられ続けること」はできるのだろうか。


―――「・・・法令を遵守し、 厳正公平、不偏不党を旨として、公正誠実に職務を行う。」

▷『法令を遵守』
1968年9月に静岡地裁は「死刑判決」を言い渡したが、一方で判決文には、こんなことが書かれていた。

 本件捜査のあり方は、「実体真実の発見」という見地からはむろん、「適正手続の保障」という見地からも、厳しく批判され、反省されなければならない。本件のごとき事態が二度とくり返されないことを希念する余り敢えてここに付言する。

(静岡地裁 1968年9月11日判決 一部抜粋)

実は公判において、警察や検察での取調べで得た自白調書45通が証拠として提出されたが、なんとその内の44通は壮絶な自白強要など違法な手段によって収集したものであるとして、証拠能力が否定されたのだ。
そして、裁判官の憤りを表したのが、上記の抜粋部分だ。

いまや「再審」に目が向けらているが、その根幹となる捜査段階においても著しい「違法性」は存在しており、到底『法令を遵守』しているとはいえない。

▷『不偏不党』
まず「不偏不党」の意味は、
「いずれの党派・主義にもかたよらず、公平・中立の立場をとること。」である。

だが、これまで様々な事件で発覚した検察による「証拠改ざん」や「捏造」は、もはや数えきれない。
主だった要因として、検察の「完璧主義」にあり、これに偏って公平・中立性を失い虚構を創り上げてしまっている。
組織ぐるみで袴田氏が犯人だという偏見を持ち、自白強要などの手段によって「公平・中立の立場」を見失った結果が「袴田事件」であって、到底『不偏不党』とはいえない。

確かに、「刑事の勘」といわれているように、人間が捜査をしているのだから、当然に人間の判断が全てを握っている。
だが、現実は現実のまま証拠化すべきであって、それを組織的な工作によって虚像に近づかせようなど、『不偏不党』を没却している。

―――「基本的人権を尊重し、刑事手続の適正を確保する・・・」
これも言うまでもないが、上記のような「自白強要」や「強い犯人視」などは、もはや「基本的人権を尊重」した刑事手続とはいえない。

人権の尊重されていない捜査は、そのものが「刑事手続の適正」な確保されていないのであるから、「袴田事件」の発生当時の捜査も「人権侵害」なものであったことはいうまでもない。


―――「無実の者を罰・・・させることにならないよう、知力を尽くして、事案の真相解明に取り組む。」
「無実の者」とは、一切犯行を行っていない者というものではなく、我が国の司法上では「合理的な疑いを差しはさむ余地がある者」である。
今年3月の東京高裁による再審開始決定の決定文にこんなことが書かれている。

・・・A(袴田巌氏)の犯人性を推認させる力がもともと限定的又は弱いものでしかなく、みそ漬け実験報告書等の新証拠によりその証拠価値が失われるものである。そして、これらを総合しても、5点の衣類が1年以上みそ漬けされていたことに合理的な疑いが生じており、5点の衣類については、事件から相当期間経過した後に、A以外の第三者が1号タンク内に隠匿してみそ漬けにした可能性が否定できず(この第三者には捜査機関も含まれ、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高いと思われる。)、Aの犯人性の認定に重大な影響を及ぼす以上、到底Aを本件の犯人と認定することはできず、それ以外の旧証拠でAの犯人性を認定できるものは見当たらない

(東京高裁 2023年3月13日付決定文)



これは、今まで「袴田事件」を審理してきた裁判官の中で、国民の多くが「ねつ造」という疑いの眼差しで見ていた「みそ漬けの衣類」を、その「疑い」のまま表現しているものと評価できる。

我が国の司法では、上記のように「無実の者」=「合理的な疑いを差しはさむ余地がある者」であり、この「疑い」を超えられていないと決定文は明確に判示している。

少なからず、仮に「ねつ造」が無かったとした場合にも、報道・誤解されるような徹底した捜索ができなかった、当時の捜査の杜撰さが、今になってツケが回ってきた結果といえる。

果たして、長年に渡り、司法のみならず国民までもが「疑い」続けている捜査機関の「ねつ造」を「有罪立証」という形ではなく、「反省」という形で社会へと表明できないのだろうか。



「袴田事件」は、今の「公判検察官」の責任ではない。
検察を含む捜査機関の責任であって、これを真摯に受け止め、捜査の在り方を考える良い機会ではないだろうか。

「完璧主義」がもはや横暴に変わってしまっている現状で、
袴田事件の有罪立証を決めた検察は、「理念を忘却している。」そういわざるを得ない。

<「正義」を実現するための根幹となる「理念」が忘却されている以上、「有罪立証」に正義はない。>

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