はじまり:煉獄
科学発展のためには人が死ぬのはある程度仕方ないことだ。
そんなことは口が裂けても言ってはいけないことだろうけど。
一億総貧困社会の労働者は既に、「社会円滑化のためには個は殺すべき」という意識を持っている。
だから、みんな平等だという安心感がある。
被害者意識を共有している。
もし、平等が壊されようもんなら、今まで歯を食いしばって個を殺してきた意味がなくなってしまう。
それはとってもズルいことだと思う。
そんなズルいことは許せないと感じた時、民意に暴力性が生まれるのは仕方なく自然なことに思える。
社会全体の利益を願って個を殺した結果が、社会不適合者の自由を守ってるなんて考えたくない、そんなことに医療費や税金を使って欲しくない。
先に個を殺されてるのは社会人の方で、社会不適合者は、今更、個を尊重しろと言ってくる。そんな言動には我慢ならない。そんなやつらは要らない。
そんなやつは人間じゃない。人間じゃないので、社会常識は要らないよね、あなたは仲間じゃない、仲間じゃないから優しくしない、あなが先に私を不快にしたんだ、ふざけるな、何がコスプレだ、何がラップだ、そこは私たちが作った街だ!私たちが個を殺して作った街だ!私が使う電車だ!私が吸う空気だ!
お前なんて知らない!お前の家庭環境なんて知らない!お前のバックグラウンドなんて知らない!
Twitter提供の発言共有サービスである「スペース」にて、そんな「話し合い」が毎日開催されている。今は2022年1月。社会は混乱していた。私は無自覚にも戸惑っていようだった。まだ自覚は薄かった。
一方、社会の片隅に目を向けて
「個を殺された」という点で考えると、本当に社会人が先なのかというと、そうではないかもしれない。
社会不適合者は、いつから社会不適合者なのだろうか、小学生、中学生、高校生、大学生、新社会人
とグラデーションはあるが、小学生から個を殺されている人もいるんだろう。
しかしそれは、分からない。 エビデンスがない。証明されてない。判断できない。判断材料がない。
じゃあいないのかというと、いる。 エビデンスには書かれていない、政府も把握していない、けれどいる。
社会人からしたら、小学生から個を殺されている人がいることはあまり関心事でなはいかもしれない。
知っていたとしても、それは理想とする社会制度に、「現実が追いついていないだけ」であって、それはしょうがないことと認識する。
たくさんある「仕方ないこと」の一つだと思っている。
だってそれは理想の社会を作るために待ってもらってるだけだから。
「大丈夫、安心して!私たちはあなたの幸福を願って、街を電車を作っている。空気も綺麗にしている。だから待ってて!きっと助けるからね!」
だから、待っててね!
個を殺してでも理想を作ってみせるから!
その子は待った、個を殺されながらも自分が活躍できる未来を信じて、いじめや貧困に耐えながら待った。
数10年、あるいは40年経ったところで、待遇は改善されなかった。
そこで気づいたのかもしれない。 自分で動くしかないんだと、待っていても待遇は改善されないのだと、
「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」とエウレカセブンというアニメを見ながら決意する。
アニメの中には強い個がある。
幼少期から個を殺された、社会の一員だったはずの者が、失われた個を取り戻すべく、アニメの中の個を取り込む。
「これはコスプレではない、私自身だ」という言葉は、飾りではなく本心なのだと伝わる。
社会制度が届かない場所で個が殺され、そこからは、ジョーカーや煉獄杏寿郎の姿を借りた者が生まれているのかもしれない。
歴史的にみても、社会人が生きる現実は、理想に追いつけたことはないらしい。
民主主義も社会主義も右翼も左翼も、誰も彼もが理想に追いつけたことはないらしい。
科学が人を殺すわけではなく、科学発展のために死んだ人がいても仕方がないだけだ。
まずはその現実を受け止めたい。
受け止めた上で、自分を殺そうとしてくる科学なんてものには負けてはいけない。
「マスクを燃やせ!ファイザーを超えろ!」と
「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」と
「俺は俺の責務を全うする!」と
発言しなくては、
声をあげなくては、
ツイートしなくてはいけない。
お互い戦っているのだ。
戦いは暴力だ。
拳でも言葉でも同じ暴力だ。
これは義務教育で習ったような気がする。
だから、自分の暴力性を自覚し、狡猾さを自覚したその先にやっと建設的な議論が生まれるのかもしれない。
人類の長い、長い、長い話し合いが、AIによるシンギュラリティまでに間に合うのだろうか。いやきっとそれも間に合わないだろう。
歴史的に間に合ったことはないのだから。
だから結論は、明日の自分を幸せに、自分の隣の人を幸せに、友人を幸せにするということしか言えないし、これが現実的に前向きなのだと思える。
友人や家族が科学を信じているか、マスクを燃やしているかというのは、ただの状況の組み合わせだから。科学を信じていても、マスクを燃やしていてもそれが友人なら助けよう。
それが誰かと戦うことになってしまっても。
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