顎関節症の社不日記-43日目
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いつだかnoteでも紹介した、真昼の暗黒というゲームをやり終わった。
面白いゲームだった。詳細やネタバレなんかはいつか気が向いたら書くかもしれない。
この作者の作品をプレイしたのは2回目。ベオグラードメトロの子供たちという作品と、上で紹介したものの2つだ。どちらも捻じれた欲望だとか、いびつな愛だとかがストーリーの大きな部分を占めていた。
愛、あるいは恋。ノベルゲームや小説に限らず、『お話』ではこの概念がよく取り上げられている。喜怒哀楽をその概念の中で人々が吐きだし、あるいはそれに翻弄され、時に死すら当然の如くその概念の為に選択する。
現実でも肥大化して人の心に憑りつくそれを見た事がある。まだ小学生だった時ですら、恋のせいで泣いた女の子がいたのを覚えている。
自分は恋をしたことがないのを、いつだって悔やんでいる。小説、映画、ゲーム、音楽、絵画……様々な媒体の中に紛れたそれらは、当然の常識のごとく説明もなしに『愛だから』『恋だから』で済ませてこようとするのだ。
想像の中で、きっとこうなんだろうというのを十何年も前から考えてある程度形にはなっているけども。
知らないんだよ、俺は。
多分皆そうだとは思うが、「君は普通とは違うね」なんて言われるとちょっとだけ嬉しい時も多いんじゃないかと思う。個性を認められているだとか、自己を認識されているだとか、その辺の理由で。
自分は昔からよく「少し変わったヤツ」だと人に言われることがある。多分平均値よりはちょっと上の数。けれどまあそれはわざとそう見せてる部分も多いからであって、決して本当は普通から逸れているわけではないと思っていたし、思いたかった。なんだかんだ言って恋だとかもいつか経験するだろうし、普通に働いて、普通に死ぬだろうとぼんやり考えていた。
恋を知らないというのは、心の底で普通を求めていた自分にとってどこか『恥』に近い感情がある。知っていて当然のことを知らない、ということなのだから、まあ恥といって過言でもないだろう。
芸術の鑑賞には時折知性が求められる。聖書の内容だとか、有名な作品のオマージュだとか。恋を知らない自分は無知な猿であり、作品内で大きくそういう概念を提示されると「お前にこれを見る資格はないだろうに」と心の底、どこかにいる自分がぼやく。
結局、振り返れば自分は『少し変わったヤツ』という評価が正しいのだろう。恋も知らず、結局今は普通に働くのを拒んでフリーターをしているのだから。せめて普通には死にたいものだ。
『真昼の暗黒』をプレイし終えた後、YouTubeで偶然こんな曲を見つけた。知らないアーティストの知らない曲だ。
『蘇ってしまうよ 貴方の為なら幾らでも』
『間違いも愛せるよ 馬鹿なもんでさ』
この言葉たちを、いつか心の底から理解できればいいのだが。