プレ展覧会時代とポスト展覧会時代
(続きです)
もともとアーティストと注文主は、基本的に1対1の関係でした。
「あなたのためにこの絵を描きます」というシンプルな構図です。需要と供給のマッチングという意味では、数多ある他のビジネスと全く同じです。
しかし展覧会という制度が出来上がって以降は、当然ながらアーティストは不特定多数の人に向けて作品を発表するようになります。これと関連して、様々な変化が起きました。
まず作品はたくさんの中から審査、評価される対象となり、それにともなって批評家という第三の存在も生まれました。
そして創作が、必ずしも収入と直結しなくなったことも大きな変化でしょう。展覧会に出品するための創作は、発注を受けて誰かのために描くわけではないからです(需要と供給モデルの崩壊)。むしろ出展料がかかるようになりました。
また、職人とアーティストは完全に分離しました。公募展に作品を出品すれば、その時点で誰でもアーティストと名乗ることができます。工房で集団制作をするのではなく、個人の名前を前面に出してオリジナリティを重視する意識が芽生えていきました。
作品にタイトルを付ける、という今では至極当たり前のことも、展覧会でたくさんの作品が横並びで陳列される中でそれぞれを区別する必要があるために始まったことです。
そして何より注目すべきは、アーティストの創作の動機として、自己表現という内的要因が大きくなった点です。
特定の人のためではなく、顔の見えない一般大衆に向けて作品を発表するようになったことで、受取手不在の状態での創作となり、誰かのためではなく自分との対話を通して、アーティストの内面性の発露がメインテーマとなっていきました。
ひっくるめて言うと、展覧会の誕生は(今の私たちがイメージする)アーティストの誕生でもあったのです。
展覧会を行う器として美術館が建設されるようになると、そこで展示されるもの=芸術作品という認識が一般化していきました。現在まで続く美術をとりまく制度の誕生です。
この制度そのものを作品に昇華したのが、20世紀を代表するフランスの芸術家マルセル・デュシャンでしょう。デュシャンは、ただの便器にサインだけを書き、《泉(Fountain)》というタイトルを付け、1917年にニューヨーク・アンデパンダン展に出品しました。アンデパンダン展は無審査を標榜する展覧会のことですが、この時ばかりは審査員たちが猛反対してデュシャンの作品は落選しました。
つまりデュシャンは、レディメイド(既製品)だろうが、サインがあって、タイトルがあって、美術館に飾られたら、それがアートなんじゃないのかいと問いかけたわけですね(厳密に言うと、ニューヨーク・アンデパンダン展の会場は、グランド・セントラル・パレスという展示ホールでしたが)。
優れた作品だから美術館に飾られるのか、はたまた美術館に飾られたら美術とみなされるのか。これは今の私たちにも十分刺さる問いかけではないでしょうか。
展覧会誕生にともなって生じた様々な変化を見てきました。では、そろそろ日本に話を移しましょう。
続く