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「なぜ日本絵画には水平線が無いのか」を考える(その2)

その1(↓)からの続きです。

「日本画っぽい絵」と「日本画っぽくない絵」、この2つを分けているのは、どうも画中の水平線の位置、つまり視点の設定にあるんじゃないか、というところまで書きました。

では、あらためて水平線に注目して、まずは西洋絵画の古典を見てみましょう。
はい、まだまだ導入編です。ここを押さえておかないと日本絵画や中国絵画に話が飛んだ時に、言いたいことが上手く伝わらない気がするので、回り道に思うかも知れませんがおつき合いください。まぁ、私も専門ではないのでサラッといきます(笑)。

西洋絵画の水平線

西洋絵画で水平線に対する明確な意識が現れるのは、ご存じの方もいるかもしれませんが15世紀のルネサンス期からです。

ちなみにルネサンス以前の絵画は、こんな感じ。

《アブラハムの饗応》6世紀、サン・ヴィターレ聖堂

ビザンツ様式のモザイク画(↑)を見ると、まだ水平線という意識は無いですね。画面の下は手前、画面の上は奥という平面的かつ単純な空間構成です。

ドゥッチョ《カナの婚宴》1308-11年、シエナ大聖堂付属美術館
ジョット《東方三博士の礼拝》1305年頃、スクロヴェーニ礼拝堂

ルネサンスの先駆的存在とされる、ゴシック末期の画家ドゥッチョやジョットの絵(↑)には、遠近感の表現に工夫が生まれ、「水平線があるとするなら、このあたりかな?」とあたりをつけることもある程度は可能ですが、それでもまだ明確に水平線を定めて画面を構成しようとする意識は希薄です。

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これがルネサンスになると、私たちのよく知る西洋絵画になってきます。

透視遠近法が発明されるので、その消失点が水平線の基準となります。
ジョットの絵とは違い、画中に水平線が実際に描かれていなくても、「画面のこの高さ(大抵は中央付近)に水平線が設定されているな」ということが一目で分かるようになりました。

フランチェスカ《キリストの鞭打ち》1468年頃、マルケ国立美術館
ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》1498年、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院

バロック期の風景画(↓)になると、風景画というジャンルも確立されて(それまでは風景とは宗教画、神話画の中の背景でしたから)、ここにきて完全なる水平線が登場します。

フェルメール《デルフト眺望》1660年頃、 マウリッツハイス美術館

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このように水平線の登場は、絵画で自然な奥行きを表現するために、透視遠近法という視覚革命が起きたことと密接なつながりがあるというわけです。

絵画というものは、点、線、面、色彩をもって二次元の平面に一視覚世界を作り出そうとする芸術に他ならないが、それはいつも三次元的な立体の世界におけるわれわれの視覚的経験の報告という使命を負わされている。

佐藤康邦『絵画空間の哲学 思想史の中の遠近法』筑摩書房、2024年

これはその通りですよね(最近、勉強のために読んだ本です。私には難しかったけど面白かったです)。

つまり、「私」がこの目で見ている世界を絵の中に再現する、そのために遠近法が生まれ、同時に水平線が生まれたということです。
もちろん風景画とは違い、宗教画・神話画・歴史画は現実の話ではありません。でも、《最後の晩餐》しかり、「私」の目の前でその光景が起こっているように描くのだから基本は同じです。

さて、何を主張したいかと言うと、ここで主体となっているのは「私(絵を描く画家)」であるという事実です。先ほどの引用文に「われわれの視覚的経験」とありましたが、ルネサンス以降はそうした最大公約数的なものではなく、より個人的な「私が見た世界を描く」のです。主語が「私」になっているという事です。これがめちゃくちゃ重要だと思っています。

まずはここを押さえてください(なんかえらそうだな……)。

その3へつづく>>

やっぱり長くなりそうです(笑)。noteユーザー(私を含む)はテキストに強い人が多いので、もっと長文の記事にしても大丈夫かもしれませんが、まぁ焦らずいきましょう。その方がたくさんコメントももらえて、私も勉強になりますし。