「罰を与えるということ」女王の教室に学ぶ指導法①
女王の教室では、担任が繰り返し「罰を与えます」と言っている。
何か不適切な行動をしたり、成績が下位のものには繰り返し伝える。
言っているというか、もはや脅してる、と思う。
罰の内容は、給食や掃除などのいわゆる当番活動だ。
現行の学習指導要領では、特別活動の一つとしており、以下のような記述がある。
なぜ当番活動があるか。
まあ、当番活動がなかったら、当然教室掃除は担任、給食も担任、というこになるので面倒…というのもあるが。
一番は、やはり社会の一員として必要な「協働」を学ぶ場であるということだろう。
将来働くんだからそのための訓練といってもよいと思う。
だから、不適切な行動をしたことによる「罰」として「当番活動」があるというのはおかしいと考える。
成績の下位2名は代表委員となり、毎日清掃だ。クラスみんなでするものではない。成績上位の児童は当番の体験ができない。
「成績を上げる」「勉強をさせる」という点では、非常に効果的だと思う。
この指導を年度初めにした結果、子どもたちは担任の話を聞くし、担任が教室に来た瞬間、即座に座る。学習に集中できる。掃除が嫌だから。
つまり、学習規律や態度、集中力が一気によくなるということ。
しかし、学力が低いから掃除をするというのは、罰として直接つながっているものではない。
単なる苦しみを味わうものであり、結局学校を出たら元通り。
「罰が嫌だから勉強する」「掃除したくないから学校のルールを守る」
これは教育としては全く意味のないことだ。
実際、担任が見ていないところでは遊び放題だから。
掃除は苦しいものか。まあ、「仕事は嫌い」っていう人は多いですけど。
嫌であっても、みんなで仕事に取り組むことが学級経営としては大事なんじゃないかなあ。
代表委員2人に押し付けるのではなく、みんなできれいにしようとか、仕事をやろうという雰囲気の方がいいよね。
「社会」ではどうだろうか。
やはり、全体のうちの10%程度の人しか仕事をしていない、そんなわけはない。
みんな働くのだ。
だから、学級経営では、全員が何かしらの役割を持って、仕事に取り組むことがとても大切だと思う。
ただ、担任も言っているように、
「ルールを違反した者は罰を与えられる社会」であるということはやはり知っておかなければならない。これは正論。
「女王の教室」では、神田和美の言葉によって全員が掃除をすることになる。
担任は「私立の学校に行く人にとっては迷惑よ」と繰り返し発言。
しかし、全員が「掃除をしたい」と思い、担任の意図とは違う結果になった。
いくら勉強が大切であっても、みんなで仕事をするということが大切(必要?)と感じたからのではないかな。「二人だけ掃除をするのはよくない」と考えたのだろうか。
これもまた担任の策略だろうか。自分たちで協働の大切さに気付いてほしい、とか(いや~どうなんでしょう)。
最近では、「なぜ子どもたちは掃除をするの?外部に任せたら?」という言葉をTwitterなどで見かけることが多くなった。
正直、もう手いっぱいの学級経営で、いっそなしにしてしまうのもありかと思う。
だが、そんなお金もないし、とりあえずは活動の一つとして続けるのがよい。しかし、ぞうきんを使うなど、ちょっと現代に合っていないのでは?と思ってしまう内容。やり方を変えて、負担を減らしていくのはいかが。
だいぶ話がごちゃごちゃしてしまったが、
・罰は基本的に関係ないことでは与えない。
・ときには体罰となってしまったり、精神的苦痛を味わうような内容になってしまうため、罰はやめたほうがいい(と思う)。
・罰を与えるとしたら、不適切な行動に直接つながるようなものでなければならない。
・親や教師という権力を使って罰を与えるのは子どもにとって悪影響。