ビハインドカーテン(29)
第三章(5)
正樹のことが心配だった。さっき、かなり深く板塚に刺されていた気がする。血も、溢れるみたいに流れてた。
もし、死んでたら。
いや、確認するまでは、死んでない。
明希とは洗濯室の前で別れて、もう一度娯楽室へと一人戻った。池は相変わらず月を写し、恐ろしいほどに美しかった。
数多の命をいただき、その代わりに豊かな水を与える。今この瞬間に池が眼前にあるということには、おそらくおぞましい意味があるのだ。夏目恵の体を再び取り込んで、俺たちをも欲しがってる。
敬人はスマホのラインを開き、親へメッセージを書く。窓際でもやはり電波は立たない。俺は送信ボタンを押すと、思い切り遠くへスマホを放り投げた。
大きく長く円を描き、ぽちゃんと池に落ちる。
いったか?
わかんないけど、やらないよりはマシ。
もし圭人の声が聞こえても、今度は迷わず、明希の計画通り行動しよう。あの声は圭人ではないと、自分の感覚が言っている。トーン、柔らかさ、リズム、全部が圭人だったけど、俺の圭人は、夢の中でみた「あの圭人」だ。
俺はジャケットを脱ぎ捨て、シャツの袖をめくった。ネクタイを緩め、一つ、勢いよく息を吐く。
よし、行こう。
俺は一歩一歩しっかりした足取りで、正樹の倒れている部屋へ向かった。湿気でしっとりした前髪をかきあげて、負けないように歩いた。どこから板塚が見ているかわからないが、絶対に俺が部屋に入るまでは出てこないと、明希が言った。
脈拍が早くなり、アドレナリンが全身を駆け巡る。
感覚は研ぎ澄まされ、消えていた池の人々が、内窓から見える食堂でウロウロしているのが見えた。全部を見ようと、覚悟を決めたから、これまでは見えなかったものも見えてくる。
助けるためには、能力を全て使うのだ。
僅かな感情の残り香が、そこかしこに溜まっている。でももう、霧消する一歩手前だ。この寮は閉鎖されてから、ゆっくりと死に向かって動いている。
先ほど飛び出した扉が、もう目の前にある。拳をぎゅっと握って、開ききった扉の中をのぞいた。
カビの匂いがわからなくなるほどの血の生臭さで、一瞬吐きそうになる。先ほどと同じ場所に倒れる正樹は、ピクリとも動いていない。
俺は部屋と廊下を確認してから、正樹のそばによった。血溜まりの中に膝をつくと、ごくんと音を立てて唾を飲み、鼻のあたりに手のひらをかざした。
呼吸、まだしてる。
生きてる。
緊張が途切れそうになったが、はっとして思い至った。いつも正樹から見えている、溢れるような感情が見えない。
死にかけてるのは、確かなんだ。
扉を振りかえり、何か使えるものはないかと、机へ向かう。
「やっぱりきたか」
すぐ後ろで声がして、どくんと心臓がはねた。こんなに近くまで来られることは、想定していなかった。
咄嗟に横に跳ね、湿った板張りに片手を勢いよくつく。
だめだ、座りこむな! すぐに立つんだっ!
俺は足の裏に力を入れて飛び上がると、扉の外へかけ出そうと一歩を踏み出したが、すぐに左腕を掴まれて後ろ向きに投げ飛ばされた。
ガンッ。
鈍い音がして、背中の真ん中をベッドフレームで激しく打ちつけた。思わず唇からうめきが漏れたが、意識は失っていない。立ち上がれ。
俺は右手をついたが、そこはびっしょりと正樹の血で濡れていて、うまく身体を起こせない。咄嗟にそこから這い出そうと四つん這いになったが、時すでに遅しだと気がついた。
すぐ左手から、ぐっしょりと血で濡れたパーカーを着た、板塚が俺を見下ろしていた。
「あ」
声を出す間もなく、襟首を捕まれ引き上げられた。ぐうぅっと喉がつまり、目の前が真っ赤に染まる。
でも板塚は俺の体を傷つけるつもりはない。俺をベッドに座らせると、目の前でしゃがんだ。
メガネをかけたその奥から、慈愛に満ちた瞳が俺を見上げる。ウェーブのかかった髪が血で濡れてさらにくるりと丸くなっており、まるで泣いたように血が頬に筋を作っていた。
「ありがとう、きてくれて」
板塚の顔は、教室での板塚とまったく一緒だった。血濡れた外見とは程遠く、優しく笑うその顔は、理想の先生と言ってもよかった。
「怪我はないか? さっきは乱暴にしてすまなかったな」
あまりにも悪気のないセリフに、俺は一瞬助けにきてくれたのかと、錯覚する。
「制服がドロドロだ、これに着替えて」
そう指さしたベッドの上に、いつの間にか青いスウェットが置いてあった。一瞬で古いものとわかる。
夏目恵のものなんだ。
「……どんな儀式だよ、せんせ」
声を振り絞り、俺はそう言った。
「儀式」
板塚がポツリとつぶやく。メガネの奥の黒目は、俺をみているのに、視線が合わない。
「そんなつもりじゃないけれど、たださ、運命的だと思うんだよな」
何言ってんだ、こいつ。
俺は、汗がだくだく流れ、出て手が震え、喉が異様に乾いてた。これまで生きてきた中で、おそらく一番今が、生と死の境目にいる。
「恵を助けられるのは、俺だけだから」
「人を殺して?」
喉を酷使してそう言うと、板塚は本当にわからないと言うように目を丸くした。
「殺さないよ」
「兄貴を殺した」
「殺してない、あの身体は君を呼ぶための、布石なだけ」
カッと腹の奥が燃え上がり、俺は拳を振り上げ、板塚の左こめかみを思い切り殴った。
案の定大した手応えはなかったが、しゃがんでいた板塚はバランスを崩して、尻餅をつく。
俺はダッシュで扉へ走ろうとしたが、足首を掴まれて再び膝をついた。正樹の青白い顔の横に両手をついて、なんとか板塚をけろうと足を振り回す。
息が上がる。喘息のように酸素が入っていかない。
もう一発殴れたら。
振り向き、体を斜めにしながらもう一度拳を振り上げようとしたその瞬間、足首に絡み付いていた板塚の指が離れた。
見ると、正樹の左手が、板塚の手を引き剥がそうと動いていた。
『い、け』
俺は走った。
俺は廊下を後方に走り、後ろから二番目の室内窓を勢いよく空けた。窓枠に手をかけて、縁に飛び上がる。振り返ると、板塚が扉から一歩出てこちらと目があった。板塚がこちらへ走り出したのをみて、ブワッと毛穴が開く。
俺は窓から、大きくジャンプした。
ドカンッ。
大きな音を立てて、並べられたテーブルの一つに降り立った。食堂の中にいた彷徨う感情が、一瞬揺らいで、こちらを見た。
息が続かない。
心臓が痛い。
目を挙げると、板塚が足を窓枠にかけ、まさに飛び降りようとしていた。
「いけーっっっ!」
声の限りに叫ぶと、頭上から風を鳴らしながら、パイプ椅子が飛んで、まさに宙にいた板塚に激突して、後ろ側へ吹っ飛ばした。
ドンッ、ガンッ、バシャンと同時にいろんな音がしたのと同時に、明希が先端を剥き出しにした電源ケーブルを投げ込む。
バチンッ!
パッと水に光が走り、すぐに暗闇が戻る。
「やった」
俺と明希の声が重なった。
カビ臭く静かな空気に、俺たちの荒い息遣いだけが響く。暗い水面に浸かりながら、板塚はピクリとも動かない。
「……死んでんの?」
「大した電流じゃないから、死ぬわけない」
そして水音を立てて、真っ黒な水面に降り立ったから、俺は「あっ」と思わず声を上げた。
「何?」
明希が振り返り、俺を見上げる。
「もう感電しないんだな」
「ショートしてるし。長妻せんぱーい、コンセント抜いてー」
明希が大声で呼びかけると、「へーい」と扉の向こうから声が聞こえてきて、ホッとした。
「生きてた、よかった」
「しぶといよ、あの先輩」
明希が軽く笑ってから、投げ込んだケーブルを手繰り寄せる。
静かだ。
浅い水が壁を打つ、静かな振動だけしか聞こえたない。
でも恐ろしいことに、静かに、ゆっくりと、池の人々がこちらへ向かってくるのが見えていた。
欲しい、欲しい。
肉体が欲しい。
お前が欲しい。
俺たちは黒く丸くなっている板塚を見下ろした。俺の心臓は少し収まっていたが、感情が俺たちに触れた時のことを想像すると、一刻を争う。
「腕を後ろ手に縛る」
明希はそう言うと、しゃがみ込んだ。
「早く、奴らがくる」
「……いんの?」
「いる」
「わかった」
横向きに倒れる板塚の後ろ手に回って、「持ってて」とコードを俺に渡した時、ブワッと嫌な感じが背中を走る。
あ、やば。
板塚が勢いよく腕を振り払い、明希のお腹を強く一発殴った。
ヴッと声が出て、明希が後ろに倒れ込む。
ちくしょう。
電気が弱かった!
俺は咄嗟に手に持っていたコードを、板塚の首に巻き付けて引き上げる。
「あ、あああ」
板塚の喉から、捩れる声が聞こえた。
腕が攣りそうだ。手のひらが熱くて痛い。
でも、引き上げて、引き上げて。
こいつは死んでいいやつだ。
『殺して』
声がした。圭人のあの、柔らかな優しい声。
はっとして、手が緩んだ。視界が開けて、もうすぐそこに、池の人々が欲望に濡れた目を向けてきているのが見えた。
ドンッと、力強く突き飛ばされて、後頭部を水の中に打ちつけた。おぞましく臭い水が顔にかかって、息をつめる。腹の上に乗られて、体の中にあった空気が一瞬にして抜けた。
見上げる板塚は、先ほどとは打って変わって、見たことのない人だった。メガネの奥は禍々しい光を放って、広角が大きく上がっている。
「黙ってて、少しだから。もう少しだからっ!」
怒鳴ったその相手は、俺にはまったく見えない。自分の首に巻きついていたコードを片手で掴み、俺の首へとかけようとする。
「ざけんな、野郎っ!」
明希の足が飛んできて、板塚の首横を蹴りつけた。肉を壁に打ちつけたような、水分を含んだ重いものが落下した時の音がして、板塚が俺の上から転げ落ちる。
一気に酸素が肺に入ってきて、俺は思わずむせた。
「抑えろっ」
明希が怒鳴るのと同時に、俺は板塚の足に飛びかかった。二人がかりで、逃げようと水をかく板塚を抑えつける。
すごい力だ。鉄の匂いのする水が跳ね、何度も蹴り飛ばされる。明希は必死に腕を後ろに回そうとするが、どうしても縛るまでにいかない。
殴るか?
どうする?
荒い呼吸、痺れる脳幹、貪欲なざわめきが、ほんの数歩向こうにまで来ている。
「めぐみいいいいいいいっっっ」
突然、板塚が叫んだので、俺は思わず押さえ込む力が緩んでしまった。
『ごめんね』
声がしたかと思うと、目の前が真っ赤に燃える。全身が音を立てひび割れたみたいな激痛が走り、水が口に入って溺れそうになった。夏目に弾き飛ばされたんだ。
「立花!」
遠くで声がして、俺はやっと顔を上げた。水が気管に入り込み、激しく咳き込む。やっと視界きいてくると、反対側に明希が見えて、ほっとしたと同時にゾッとした。
明希のすぐ後ろに、池の感情が押し寄せてる。
「にげ……」
喉から声を振り絞ろうとした時、板塚の姿が目に入った。