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ビハインドカーテン(27)
第三章(3)
「正樹ーっ」
俺は、フラつく足で駆け寄ろうとしたが、「だめっ」とあかねに腕を掴まれた。
「今はやばいよ、逃げなきゃ」
「だって、正樹が」
「あんたには、先生、殺せないでしょっ!?」
未だかつて見たことないようなあかねの切羽詰まった顔に、俺はヒュッと短く息を吸って、再度倒れる正樹をみる。
そうかも? わかんない。
殺せるのかどうか、自信がない。
板塚が、力の全く入らなくなった正樹の身体の下から這い出るのを見て、俺は「逃げよう」と言った。
「来いっ、神枝っ」
俺が叫ぶと、明希は混乱したように倒れる正樹と俺を交互に見て、それから俺に続くことを決めたようだった。
板塚が立ち上がろうとしている。暗闇に溶け込む黒いパーカーが、濡れているように見えるのは、正樹の腹から出た血液だ。板塚の左手には大きな包丁が握られていて、確かに正樹が板塚に刺されたのだと、否応もなく知らされた。
部屋を飛び出す瞬間もう一度振り返ると、板塚がこちらに向かおうと一歩踏み出しているところが、遠ざかる光の名残りの中に浮かんだが、俺は瞬間、板塚が引っ張られるように立ち止まったのに気がついた。
え?
今のなんだ?
廊下に俺の身体は出ていたけれど、振り向いて、それが何かを確認した。
それは、何でもなかった。
俺には何も見えない。でも、板塚は確かに何かに足止めをされて、振り返りなんか喋ってる。
一人で、喋ってる。
見えない、誰かと。
「ちょっと、早くっ」
あかねが廊下で叫ぶ。
もっと確かめたいという気持ちを押し殺し、俺は壁を左手で伝いながら真っ暗な廊下を走った。まだかなりふらつく。思ったよりも四肢に力が伝わらないし、息も上がる。
俺たちを水底から追いかけてきていたあの感情たちは、今はどこにいるかわからない。これまで道で浮遊する感情を見かけたことはあっても、それが明確に追いかけてきたことがなかったから、さっきはかなり焦った。
あれは、死んだことを理解できない、納得できない、かつての人々だと思った。人の形をかろうじて成しているような、頭や腕、足を見ることができたし。
肉体は滅んでも、感情だけは残り続ける、俺はそう信じてきたけれど。
でも、板塚は誰と喋ってたんだ?
俺には、何の感情も見えなかったのに。
なんだよ、あれ。
俺の中で、いろんなものが揺らいでくる。
明希が俺に『お前が見てるのは、お前が『見たいもの』に過ぎない』と言ったことが、現実味を帯びてくる。
俺が見てるだけなのかもしれない、ゆらぐ感情は、俺の脳が見せる幻。
「ここ、なんか明るいよ?」
あかねが扉を勢いよく開くと、一瞬眩しさに目の中が痛む。
窓に板張りがされていない。
嫌に強い月明かりが、部屋の中を照らしていた。
「空いてるっ、窓っ」
あかねが窓に突進するが、すぐに「うわあああ」と感嘆の声を上げた。
俺は扉を閉めた後、あかねに「静かにしろよ」と小声で怒鳴って、明希と二人であかねの横に立った。
そこには、まるで大きな水滴を落としたような、池ができていた。なだらかな斜面に重なる木々の影の上に、一際大きく白い満月が上がっていて、それが真っ黒な池にぽかんと浮かんでいる。そのきわに、祠があった。
捨てられて、壊れて、忘れられていた祠が。
「……俺はどこに」
右にいた明希が、掠れた声で呟いた。
明希の中に広がる真っ黒な穴は、確かに黒く底無しのように見えたけれど、この建物の中で見ると俺が何かを勘違いしていたような気にもなってくる。
違う、空っぽなんかじゃないんだ、これ。
これは。
「お前さ」
そう言いかけて、俺はやめた。予想が当たるなら、安易に触れていい部分じゃない。
明希の呟きは、あかねには届いていない。興奮して今にも踊りそうに飛び跳ねてる。
「ほら、やっぱり。今ここは、あの世とこの世の境目」
すごい笑顔になっているのを見て、俺は少し寒くなった。今俺たちは命の危険にさらされていて、脱出できるかどうかもわからないのに。
「さっき、私、見えない力に乗っかられたの。人が一人乗っかってんじゃないかってぐらい重くて身動きできなくて。あれはきっと、ここに囚われている夏目恵の存在。だって先生、『恵』って呼びかけてたじゃん」
確かにそう呼んでた気がする。それじゃあ夏目恵の魂が、ここに閉じ込められているってことなのか?
「それにさっき、戸仲先輩が『圭人がいる』って叫んでた。先輩には聞こえてたんだよ、死者の声が。今までそんなことなかったのに、池が出没してから、ここは境目になった」
あかねが確信を持って頷いた。
俺には何も見えないし、聞こえていない。以前確かに、あの池そばで圭人の声を聞いたけれど、違和感がある気がした。俺が気を失っている間に夢に見たあの圭人が、本物の圭人のように思える。
「確かにやばいやつが池から来たのはわかったけど、圭人も夏目恵の姿も、俺は見てないんだ」
「えー、どうしてだろう」
あかねが首を傾げ、なんとか納得できるような理由を探している。
あかねの暢気な顔に、イライラが募る。今この瞬間にも、正樹は死んでしまうかもしれないのに。
「とにかく」
黒い鏡のような水面を見ながら、俺は言った。
「ここを脱出して、助けを呼ぼう。正樹を病院に連れて行かないと」
俺はポケットからスマホを取り出したが、圭人の夢と一緒で電波が届いていない。山奥というほど山奥でもないし、クラスにいる時は普通に電波が入っている。ってことは、本当にここは電波も届かぬ異世界ってことなのだろうか?
明希はじっと池を見つめていたが、俺の言葉で周りを見渡す。そして何かを見つけて、パソコンデスクにある椅子を引きずって、本棚の前でその上に乗り、手を伸ばし、何かを引き抜いた。
その手には、見たこともない機器が握られていた。小さな箱にいくつものアンテナがついていて、電源ケーブルが繋がっている。
「電波妨害器だ」
「え、ほんと?」
あかねが驚いて口を押さえた。すっかり異世界気分になっていたのに、嫌に現実味のあるものが出てきてしまった。
「電源切って」
俺がいうよりも前に明希は機器を裏返していたが、首を振る。
「充電式で、バッテリーが取り出せない。シャットダウンは、おそらくソフトウエア経由じゃないとできない」
「どういうことだよ?」
「だから、電源オフれないってこと」
俺は心底がっかりしたが、あかねが「捨てちゃえば」と窓の外を指さした。
そうか。
明希が思い切り強く窓の外に機器を放り投げる。ポチャンと小さな音を立てて、真っ黒な機器が真っ黒な水に沈んだ。
「どう?」
俺はスマホを見て、やっぱり肩を落としたが、あかねが「入ってる」と声を上げた。みるとあかねは窓の外に大きく手を伸ばしていた。
「やった、じゃあ、かけろ」
「どこに? お母さん?」
「違うっ、警察だよ」
俺はイライラして怒鳴りそうになるのを、グッと抑える。
早くしないと、板塚がきてしまう。そして得体の知れない何かも。
「かかるかなあ。そもそも今って、現実なのかなって、疑問だし」
あかねがぶつぶつ言いながら、緊急電話をかけている。
「つながる?」
「うーん、ブツブツ途切れがち」
「スピーカーをオンにして、腕をもっと外に伸ばせ」
「わあってるって」
あかねが腰を折って、ギリギリまで遠くに手を伸ばす。
「足抑えといて」
そう言われて、踵が軽く上がっている細い両足首をぐいっと持った。
『はい、110番です』
「繋がった!」
「助けてくださーい」
あかねが叫んだ。
「では、状況を教えて……」
聞き取りづらくなる。きっとこの建物の至る所にあの機器が置かれていて、電波が入りづらくなっているのだろう。
でも電話がつながるってことは、ここはやっぱり現実だ。
「刺されてっ」
俺は怒鳴るみたいに叫んだ。冷静に伝えたくても、うまく言葉が出てこない。あの血の量。今すぐ助けないと、正樹が死んでしまう。心だけが急ぐ。
「待って」
明希が緊張したように言った。
俺もあかねも固まる。カチャッと小さな音がして、ドアノブがゆっくりと回った。
「来た」
俺はあかねの足首を持ったまま身構えた。
細く開く扉の隙間から、予想外の腕が見えた。それは太く、薄汚れた作業着を着た、用務員の腕だった。
「先輩、耐えてっ」
俺は叫んであかねの足首を離したけれど、あかねはすぐ「あ、やば」と声を出した。
「ちょっと! スマホ落としちゃった!」
その言葉が耳に入ったけれど、俺はそれどころじゃなかった。近くに何か戦えるものはないかと、咄嗟にゴミ箱らしき箱をつかんで、大した威力がないことにがっかりしながらも、それを振り上げ、用務員を睨みつけた。
まるまった背中、薄くなった頭頂部に続く広い額、そして全身からやはり謝罪の感情を溢れさせている。
用務員はそっと後ろ手に扉を閉めると、俺たち一人一人を順番に見つめ、そして首を垂れた。
「申し訳ない」
初めて口から謝罪を聞いた。
「さっきの子は、あの子は……夏目君にそっくりだった子と一緒にいた子だろ?」
その言葉を聞いて、カッと腹の底から怒りが湧く。
「てめぇ、ふざけんな」
俺は、ゴミ箱を投げつける寸前で、ぐっと堪えた。
「こんなことになるなんて……」
用務員はゆっくりとかがみ込み、声を震わせてた。
「あの日以来、あの子が連れて行かれるんじゃないかと、心配で心配で」
「どういうこと? おじさん」
あかねが尋ねた。
用務員はしばらく黙ったのち、やっと口を開いた。
「あの子が、行方不明の男の子を死なせた。私はそれを見て、隠すのを手伝った。ずっと……、ずっと、あの子を捨てたあの日からずっと、陰ながら見守ってきた」
「板塚先生って、おじさんの息子なの?」
あかねが驚いたように、声を高くすると、用務員は静かに頷いた。
「今は母親の旧姓に戻っているが、当時は『堀川』と名乗っていた。ちょっと人見知りで、友達も多い方ではなかったけれど、優しいいい子だったんだ。どんなことが起きて、あの子が夏目くんを階段から突き落としたのかはわからない。結局わたしには、何も話してはくれなかったから。でも『助けてほしい』と言われて、俺は迷わなかったんだ。やっとあの子のために何かできると思ったから」
「でもしばらくして、あの子の様子がおかしくなった。閉鎖された寮に頻繁に通って、一人で喋り続けてる。何もない『空間』に向かって、『恵』って呼びかけてるんだ。かつてのあの子の部屋に入って、封の開いていないおにぎりやお菓子ペットボトルを片付けたり、言われるがまま誰かに脅迫めいたことを電話したこともあった」
用務員は、ふうとひとつため息をついた。
「あの子の瞳の色が、どんどんん変わっていくのがわかった。私とは違う世界を見ているんだ。いわゆる死後の世界を。本当に夏目くんが見えているのかはわからなかったが、あの子はたびたび『夏目と一緒に死ぬ』ことを口にし始めた。死とは何か、考え続けているようだった。わたしは恐ろしくなってなんとかしようといろいろ調べ始め、その時、この場所のせいじゃないかと気がついたんだ。夏目くんはこの場所にとって、予期せぬ『贄』になってしまったんだと」
「確かに」
あかねが頷いた。
用務員は、あかねの同意に軽く頷いて言う。
「だから、あの子が次の『贄』にならぬよう、ずっとずっとあの祠を大事にしてきた。欲しいと言われれば動物をやる。これで我慢してくださいとお願いしてきた」
「その子のお兄ちゃんが入学してきた時、わたしは心底怯えた。あまりにも夏目くんに似ていたから、あの子が動揺するだろうと思ったんだ。混乱して、日常生活を送れなくなるかもしれないとまで思った。でも予想に反して、息子は立花くんを見て、すごく幸せそうに笑ったんだ。『やっと恵が外に出られる』と」
俺はこの用務員の告白を聞きながら、いつの間にか振り上げていたゴミ箱を下ろしていた。こいつが板塚に協力しなければ、圭人が死ぬことなんかなかったのに、なぜかこの小さく老いた男が『かわいそう』だと感じている。
「また新たにあの子が罪を犯すのを見ていられなかった。だから生徒さんがあの子の部屋から逃げられるように、窓の板を外しておいた。それなのに、それなのに」
用務員は深く深く頭を下げる。
「ちゃんと逃げてくれると思ったんだ。息子の姿は、生徒さんには見られてなかったから、うまくいけば寮だけ取り壊されて、この悪夢のような日々も終わるかと。でも車にはねられて死んでしまった」
用務員は膝をつき、額を床に擦り付ける。
「本当に申し訳ない。すべてわたしの責任だ。あの生徒さんを死なせてしまったのは、わたしのせい。しかも弟である君が入学してきて……君の方が生前の夏目くんによく似ていて、華奢な感じが特に。またあの子が同じように君を攫うだろうことは、わかっていた。だから麻酔を弱くして、一人でも脱出できるように、と」
「なんで、警察に行って板塚を突き出さなかったんだよ」
じわりとした痛みが、脊髄をゆっくりと上がってくる。悲しみと痛みは同じ場所で感じる。
「わからない、決心がつかない、ずっとずっとつかない。なんとかなるかも知れないって、ずっと迷って迷って、でもさっき」
泣いているように、用務員の丸い肩が震える。
「さっき、なんの躊躇もなく、生徒さんを刺していて。血がどくどく流れていても、あの子はまったく気にしていなかった。いい子だったのに。優しくてよく笑う、私のかわいい、かわいい子だったのにっ」
用務員は涙でぐしょぐしょの顔を上げた。言われてみれば確かに、板塚に瞳が似ている。
「もう限界だ。あの子をこの場所から引き離さないと」
明希が初めて口を開いた。
「板塚先生を逮捕させると?」
「はい。もう覚悟が決まりました。もっと早くにできていれば、君のお兄ちゃんを助けられたかと思うと」
用務員の声が詰まる。
「じゃあ、ここから逃げるにはどうしたらいい?」
小さく縮こまっている父親に、俺はそう尋ねた。
「スマホが繋がらないから、助けが呼べないんだ。おじさんは今日はどっから入ってきたの? エントランスは外から鍵がかかってたよね」
あかねが、困ってる人を労るような声音で尋ねた。
「厨房に裏口があります。私はいつもそこから。さっき鍵は外しておきました」
「でも今、外、こんなだけど」
そう言って、あかねは窓の外を指さした。
用務員が顔を上げると、初めて外に池ができていることに気づいたのか、大きく息を飲んだ。
「ああ、まずい。声が」
「声?」
俺が聞き返すと、用務員は自分の耳を触って、訴えるように俺を見上げる。
「聞こえませんか? あの池から『欲しい、欲しい』って、聞こえてくるでしょ?」
「……なんも」
あかねは悔しそうに首を振る。
「あの子が連れて行かれる」
用務員の目は見開かれ、恐怖で震え始めた。
「助けてやらなくちゃ。あの子をすぐにでもここから連れ出さないと」
そう言って、用務員が勢いよく立ち上がり、扉の外へ走り出そうとする。
「ちょっとっ、一緒に警察行ってくれるんじゃないのかよ」
俺は咄嗟に叫んだが、用務員にはもう声は届いていないようだった。扉を飛び出すと、一目散に廊下をかけていく。
「どうする?」
「とりあえず、一階の厨房に行こう。そこから出られるかもしれない」
「でも、外は池だよ?」
あかねが外を指さす。
「深いかどうかは、入ってみなくちゃわかんないだろ?」
「……まあ、そうだけど」
そう言いながらも、あかねは不服そうだ。
「一分一秒を急ぐんだ。正樹が死んじゃうだろ?! とにかく建物の外に出て、スマホで救急車を呼ぶんだ」
異世界説を信じるあかねには、池がただの水溜りの可能性があるなんて、思いもつかないのだろう。
俺は二人とその部屋をそっと出た。月明かりで明るかった部屋から、一気に真っ黒な廊下へ出る。ここは建物の最後部、すぐ脇に一階へ降りる階段があった。こちらの階段の方が、エントランスから伸びる階段よりも狭い。
「ねえ、板塚先生、どっかにいるんだよね」
俺の後ろを歩くあかねが小声で呟く。
「たぶん、まだ俺を狙ってると思う」
「そうだよね」
あかねはキョロキョロあたりを見回した。
階段から見える一階には、暗い中でも水が溜まっているのがわかった。
「地下から溢れた水。もうこれ以上水位は上がらないかな?」
「そんなことわかんねーよ」
そう言いながら、後ろからくる明希を見てみたが、何も言うつもりはないらしい。でもさっきからずっと考え込んで、意識が揺れている。
水に足がつかないように、階段の一段上に乗って、手すりにつかまりながら、食堂らしき場所を覗く。目が慣れてきたとはいえ、暗闇の中ではほとんど何も見えない。でも遠くで、薄い一筋の光が中央部を照らしているのが確認できた。上を見上げると、どうやら天窓があるらしいが、誰かがやはり板で塞いでいる。その隙間から、細い光がこの真っ暗な食堂に降りているのだ。
「私さっきスマホ落として、もうあかりがないんだけどさ」
あかねが続ける。
「あかりつけなくても大丈夫そ?」
「つけたら、板塚にみつかるだろ?」
「まあね」
確かに真っ暗すぎてよくわからないけれど、匂いがした。血と土が混じる匂いだ。
足元に目を凝らすと、まるで鍋から立ち上る湯気のように、赤いものが立ち上っていた。
「さっき追いかけてきた感情は、今のところ見えないけれど、なるべく水に触らないほうがいいと思う。『欲しい』っていう感情が、この水から上がってきてる」
「……俺には、何も見えない」
突然明希が喋った。
「ただの水だよ」
俺は振り返り、しばらく明希と、その胸の奥に広がる真っ暗な穴を見つめ、そして「そうかもな」と言った。
あかねは、なんのことかわからないというように少し首を捻り、それから諦めの小さなため息をついた。
「ここに入るまで自信満々、傲慢極まりなかったのに、すっかりトーンダウンじゃん」
あかねが話しかけてきたが、俺はその言葉に返事をしなかった。その代わり、「あの椅子まで飛び移れる?」と、一メートルほど先のパイプ椅子を指さした。
「うおっ、ちょっと遠いけど、いけるかも」
俺と場所を変わると、あかねは二、三度軽く屈伸してから、えいっと椅子に飛び移った。そしてそこから食堂のテーブルへ移る。
「椅子、こっちに押して」
「わかった」
あかねが椅子をぐいっと滑らせると、俺でも届くくらいの距離に来た。
「いくぞ」
俺は明希にそう言って、あかねの後に続いた。
食堂の天井は高く、天窓が開いていたら、さぞ心地よい月光が入ってきたであろうと考えた。
俺たちは椅子と机を次々と飛び移りながら、反対側の厨房へと向かった。
板塚は今、どこにいるんだろう。今この瞬間にも、襲ってくるかもしれない。その時にはどうしたらいい?
早く、厨房まで。
早く外へ。
あかねがあと少しで給仕のカウンターへたどり着くという時、突然立ち止まった。ゆっくりと右側を見て、驚いたように後退りしたと思ったら、机から水の中へと落ちた。
ぱしゃんと水がはねて、土の匂いが舞う。
俺が助けようと手を伸ばした時、あかねがひゅうぅと息を吸い込んだ。
「居た」
その瞬間、あかねが左の奥へ勢いよく引きずり込まれた。あかねの通った場所に、さざなみが列を作り、瞬く間に消えていく。
引いていた汗が、ブワッと俺の全身から溢れ出してきた。どっどっどっと心臓が暴れ、やけに喉が乾いているのを実感した。
「今のは?」
さすがに動揺している明希の声に、俺は我に返った。
あかねは左手奥の扉の中に吸い込れた。
助けなきゃ。
俺は咄嗟に水の中に降りたが、すぐに背筋にヒヤリと冷たいものが流れる。
「血」
明希が言った。
焦りながらスマホを取り出し光を向けると、扉の下の隙間から真っ黒な水の表面を覆うように、違う色がゆっくり流れだし、広がり、波となって俺の足元にかすかにぶつかる。
あの下から、血が流れ出てる。
脳裏に、先ほど正樹の腹に突き立てられた包丁が過ぎる。鼓動の強弱に合わせて吹き出る血液は、恐ろしいほどの量だった。
「先輩っ」
俺が走り寄ろうとする、すんでのところで襟首を明希に引っ張られた。
「板塚があの向こうにいる。逃げるのが先だ」
「でも」
「でもも、くそもない。逃げよう」
俺が逡巡しているその隙間、ゆっくりと扉が開き、水がさざめく。暗闇の中でもその奥に倒れる誰かがいるのが見て取れた。
「走れっ」
明希が叫んた。
俺は水の中を厨房に向けてダッシュした。明希は机をすごいスピードで飛び移る。二人で同時にカウンターを乗り越えて、厨房を見回したが、外への扉がどこか暗くてわからない。
ドンッ。
すごい音が後ろからして、振り返ると黒い影が俺を見下ろしていた。板塚がカウンターに飛び上がった音だ。
バランスを崩して尻餅をついた。見上げると、板塚の姿であっても真っ黒な塊にしか見えなかった。
殺される。
その瞬間、丸い影が板塚に勢いよくぶつかった。厨房の作業台や調理器具が跳ね上がり、爆発したような音を立てる。
カウンターと作業台の間で、二つの影が揉み合ってる。
「お願いだ、もうおしまいにしよう。お父さんがついてるからっ」
用務員が必死に板塚を押さえ込もうとしていた。
「ふざけんなあああああ」
板塚が怒鳴った。
そんな声、聞いたことなかった。
「俺の親父はいないんだ。てめえなんか、見たこともないんだああああ」
「ごめん、本当にごめん、ごめん、ごめん」
用務員は叫びながら、板塚の腕を抑えようとするが、体格に差がありすぎる。明らかに板塚の方が腕も長く、力も強かった。
板塚の手にあった包丁が、まっすぐに突き降ろされた。
音はしなかった。
ただ、用務員の口から、空気が漏れただけ。
狭い場所で、包丁が刺さったまま、ごろんと用務員は仰向けになった。俺にはどこを刺されたのか、よくわからなかったけれど、すごい匂いがする。むせかえる血の匂い。
「恵、黙れ! あと少しだからっ」
板塚が、何も無い空間に怒鳴った。
「お前を外に出すには必要なんだ」
「……」
「いや、違う。これは父親じゃない。見たことない」
「……」
「違う、何言ってんだ。知らねーやつだ」
「……」
「あと少しだ、あと少しなんだっ」
怖い。
怖い。
怖い。
本当に夏目恵はそこにいるのか?
俺には、何にも見えない。
「逃げるぞ」
小声で俺の腕を後ろから明希が引っ張った。
「あ、うん、うん」
俺はなんとか体を起こしたが、足に力が入らない。体験したことのないような恐ろしいことが起きてる。俺が見てきたものは、俺の今見ているものは、一体なんなんだよ。
すぐに板塚が気がついて、用務員の身体から包丁を抜く。身構えて、大きく一歩、俺の方へ出たところで、また誰かに引っ張られて、つんのめるように立ち止まった。
「離せっ、綺麗事言うなっ」
誰かと揉み合って、「あっ」という短い声で、板塚の手から、包丁が落ち、俺の足元に滑った。
とっさに手を伸ばし掴み、刃を板塚に向けた。手がぬるぬるする。これが何かは今は考えたくない。とにかく、これさえあれば。
『殺して』
耳元に声がした。
圭人の声。
『今なら殺せる。助けてほしいんだ』
俺は両手で柄をぎゅっと掴んで、動きのとまた黒い影を睨みつけた。
手が震える。下半身がすごく冷えてるのに、頭の中心が燃えるように熱い。
殺せ、殺せ、殺せ。
こいつは、圭人を、正樹を、あかねを殺した。
池に差し出してもいいやつだ。
「だめだっ」
明希が叫んだ。
「お前が、引っ張られてるっ」
はっと我に返って、自分の手の中を見た。血にまみれた大きな刃が、自分に向かっている。
俺、自分を刺そうと?
ぱっと手を離すと、ガツンと音を立てて包丁が落ちた。板塚が素早くそれを拾い上げ、口元を大きく歪めて、笑い出した。
「あはははは、何が起こってんだ。どうなってんだ?」
そして俺の後ろにいた明希に視線と刃を向けた。
「いやだめだ。今更何言ってんだ」
また板塚は誰かに話かけている。
おそらく夏目恵に。
腕を掴まれているのか、しきりに振り解こうとする仕草をする。
明希と目を合わせ、それから俺たちは、その隙に一気に逃げ出した。カウンターを飛び越え、再び食堂の中へ。水を跳ね上げ、机を乗り越えながら、エントランスへと突っ走った。
さっきの声は、誰の声だ?
わかんない、何が起こってんだ?
大きな両開きの扉を叩くように押し開いて、俺たちはエントランスへ駆け込んだ。
「これ、そっちに!」
明希が怒鳴りながらソファを押すので、俺も一緒に押した。水を吸い込んで、すごく重い。扉の前に二つ置いた瞬間、
ドカァンッ!
体当たりをするような音で、扉が震える。
叫びたいけど、喉が萎縮して、一言も出てこない。ぐっと口元に力を入れて、目を見開いた。
「隠れるぞ、こっちっ」
明希が先ほどと反対側の寮生の部屋へと向かう。
「一階?」
「とりあえず二階!」
まだドカンドカンと大きな音を立てて、扉が揺れている。
俺たちは全力ダッシュで、階段を駆け上り、片っ端から扉を引いて、鍵の空いている部屋を探したが、全部鍵がかかってる。
「なんだよ、もうっ」
俺は死ぬかも知れないという焦燥感で、叫びだしそうになった。
暗闇の中とうとう突き当たりの廊下まで走り、先程の部屋まで辿り着いた。はあはあと息が上がり、喉が乾いて乾いて仕方がない。カビと、血と、土と混ざって、もうどんな空気を肺に入れてるのか、恐怖しかない。
「あの窓から、池に飛び降りるか?」
俺は言ってみたが、答えはわかっていた。
「池の深さがわからない。二階から飛び降りても、骨折がいいところ。こっちの部屋見てみよう」
明希は、その部屋の右手についていた、扉のノブを引っ張った。
期待に反して、そこは真っ暗だった。窓には他の部屋と同様、板が貼り付けられている。
明希はそっと扉を閉め、スマホで明かりをつけた。
洗濯機と乾燥機が、二列に整然と並んでいる。そもそも背の高い乾燥機のせいで、窓はほとんど見えないが、隙間から月明かりがほのかに差し込んでいて、全体がうっすら見渡せる。
「鍵がかかる」
俺が気休めに鍵をかけたとき、ガタンと何かが倒れる音がした。ビクッとして振り向くと、明希が両膝をついて、苦しそうな顔をしていた。
「大丈夫か? やられたのか?」
俺は明希に走りよって、出血がないか探したが傷はない。でも俺には見えた。どんどん明希の黒い穴が胸の奥から広がっていく。青ざめ、冷や汗をかき、唇が震えている。
「……薬は?」
俺が尋ねると、明希は「大丈夫」と首を振る。
「突然走ったから、ちょっとおかしくなってるだけ」
薄暗いなか、明希の胸が大きく上下に動いている。白い洗濯機にもたれながら、大汗をかいているのをみると、とても大丈夫のようには見えなかった。
しばらく明希の、荒い呼吸だけが薄闇に響く。明希が俺の視線を避けるように、目を閉じた。
明希の穴は、感情を飲み込むブラックホールのように見えたけれど、本当は違ったんだ。『何もない』という感情は、『欲しい』と表裏一体。
「……お前、死ぬのか?」
俺が言うと、明希がゆっくりと目を開ける。唇が震えながら、笑みを作る。
「人間は誰でも死ぬ」
「わかってる、でもお前は、自分と『死』が近いことを知ってる」
俺が言うと、明希が静かにこちらを向いた。
「……見えんの?」
「俺が見えんのは、感情だけ。何を考えてるかはわからないし、人の寿命なんか絶対にわからない。でもお前が空っぽに見えたのは、半分死んでるからじゃない」
俺は言った。
「『生きたい』って言う気持ちを、隠してるんだ」
明希はしばらく黙ったあと、ポツリとつぶやいた。
「あと、どんくらいかな」
今度は俺が黙った。
予想していたことではあったけれど、想像以上にどしんとみぞおちに来る。
「築波中学に合格したとき、しんどかった努力の日々は全部報われたと思った。行きたい学校だったし、親も当然喜んだ。でもしばらくすると、それが全部無駄だったって気がついた。俺の命は、もう残りわずかだと言われたんだよ。おかしいよな、努力とかさ、最初っから必要ない命だったのに」
明希が笑う。笑いながら、瞬き一つしない。
「親は泣かないんだよ。俺の手を握って『きっと大丈夫』って言うんだけど、震えてるんだぜ。知ってるんだ、大丈夫じゃないってこと」
「でもさ、なんか、希望はあったんだ。変な話だけど、死んだらこの苦しい身体を捨てて、自由になれるんだって。たくさん勉強もしたし、次の世界で報われるかもしれないって。親にも言ったよ『先で待ってる』って」
「でもさあ、いざ心臓が止まったら、わかったんだよ。何もないって」
明希の黒い瞳が、震える。
「ただ電気を落とすだけ。プツッと切れて、終わるんだ。考えてみれば、脳は電気信号で動いてる。その電気が切れるんだから、なんもないんだ。今持ってるものを全部手放して、俺は消える」
大きく瞬きを一つして、頬に涙が一筋流れた。
「だからさ、笑っちゃうよ。死んだ兄貴の感情だ、異世界だ、なんだって、んなわけない、なんもないんだよ、死んだあとには」
「でも、ここに来た」
俺は言った。「確かめたかったんだろ?」
「……そうかな? そうかも」
明希が言う。
「みんなが騒いでるのを否定したかった。死んだあとには何も残らないことを証明したかったようにも思うんだけど、でも、そうか」
明希の唇が震えている。
「もしかしたら、俺自身を失わなくてすむ場所があるんじゃないかって」
嗚咽を堪えるように、喉が上下に動く。
「大切な人、大切なもの、大切な思い出を失わなくてすむ場所が、あれば、あったならって」
明希が絞り声を絞り出す。
「すがったんだ」
俺はなんと言葉をかけていいかわからなかった。ただ、ずっと大きな穴にしか見えなかったものが、さまざまな色でゆらゆらと歪んで見える。
「怖いよな」
俺が言うと、明希はこちらを向いて、目があった。
「だって、俺もわかんないから。死んだ後のことなんて、なんもわかんない。俺が見えてるものは幻覚で、ただ最初から俺がオカシイ奴ってだけのことかも。本当のことなんて、誰にもわかんない」
「……」
「そうだろ? 誰も分かんないんだよ」
「分かるわけ、ない」
明希はそこで、軽く笑った。
「なんの解決にもならないし、慰めにもなんないじゃん」
「慰めるとか、どうやってしたらいいのかもわかんねーし。必要?」
そう言うと、明希は肩をすくめた。
「慰められてもな、確かに」
「じゃあ、とりあえず、目の前の問題から。ここを出て、正樹と長妻先輩を助けよう」
「わかった」
「死んだ後のことは、死ぬ直前に考えればいいから」
「それって、あんまり意味ないよな」
「まあね。死ぬってそんなもんだよ」
俺たちはそれから、ここを出るにはどうしたらいいかを話し合った。