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ビハインドカーテン(ラスト)

エピローグ

嫌に清潔すぎて逆に病みそうな消毒薬の匂いが、真っ白な枕からする。明希が天井を見上げると、不規則な模様のボードが貼られ、またここに帰ってきたんだという気になって、一人部屋とはいえ気が滅入った。

今日はかなり暑く、窓から見る木々の色はずいぶん濃くなった気がする。モワッとした夏の独特な匂いが、風に乗ってこの真っ白な病室のカーテンを揺らした。

やはりあれからしばらく入院することになった。親曰く、一時は感染症でまずかったらしいけど、俺の意識が失われなかったのは、不幸中の幸いだった。

重い扉が開かれる音がして、薄いカーテンの向こうに人影が見えた。
小さく華奢な体型。

「立花?」
俺が声をかけると、影が動いてカーテンをめくる。

「……いい?」
顔を覗かせた敬人は、相変わらず繊細で扱いづらそうではあったけど、不幸を全部背負ってますというような、刺々しさは薄らいでいた。

「暑いな」
「な」
敬人は丸いスツールを引きずって、俺の隣に腰掛けた。

重く湿気た風が、敬人の前髪を靡かせる。

「いつ退院?」
「うまくいけば来週。学校行ってんの?」
「まあ、休む理由もないし」
「学校、大変だったんじゃない?」
俺がそう聞くと、敬人は「まあね」と頷いた。

「どう?」
「……まあ、いろいろ」
「戸仲先輩は?」
「この間やっと歩けるようになった」
「長妻先輩は?」
「めちゃくちゃ興奮してる。長編レポートを書くらしいよ」

俺は思わず笑った。あの人は何が起きてもブレないな。

結局、地震は局地的なもので、市街地に揺れはなかったそうだ。助けが来た時には水もあらかた引いていた。水の引いた後の柔らかな泥の中には、たくさんの古い人骨、そして板塚と用務員の遺体があった。夏目恵の骨も、人骨の中に紛れているだろうということで、今鑑定中だと聞いている。

ネットではオカルト的な話題で取り上げられることもあったが、突然水が上がったのは地震による液状化現象ではないか、と言われている。

実際、あれはなんだったんだろう。池が出現したようにも見えたけれど、でもきっと、液状化現象なんだろう。

「一体、なんだったんだろうな」
敬人が言った。

「さあね」
俺はそう答えた。

「板塚が一つの頭蓋骨を抱きしめてたって。それが夏目恵なんじゃないかって、言われてる」
「見たの?」
「いや、刑事のおっさんが噂してたのを、ちょこっと聞いただけ」
「そっか。じゃあ、ただの噂だな」
「うん」
敬人は素直に頷いた。

敬人と会うのは、あれ以来初めてだ。
俺はずっと何回も、この一連の出来事を考えている。

「兄貴、帰ってきた?」
俺が尋ねると、敬人は首を振った。

「そっか」

風がカーテンを柔らかくはためかせる。

「結局さ」
敬人が話し始めた。

「俺には、夏目恵は見えなかった。長妻先輩は、引きずられて刺された時、一瞬俺にそっくりな顔が見えたって言ってた。正樹が聞いた声は、確かに圭人だったとも言ってる。真実が何かなんて、わかんないんだよ」

「そうだな」

「俺は見えないけどさ、兄貴はきっと解放されて、家に帰ってきたって信じたい」

そこにノックと、慌ただしく扉が引かれる音がした。

「はい、お薬~」
元気な看護師の声が聞こえて、勢いよくカーテンがひかれた。恰幅がよく笑顔が眩しい三十代半ばの看護師が、ステンレスのトレーを持って入ってきた。

「あら、お友達、こんにちわ。ちょっとお邪魔しますねー」
テキパキと俺の腕を取り、血圧を図る。

「夕食後のお薬、ここ置いておきますからね」
そう言ってから、ニコッと大きく笑った。

「ほんと、また運ばれた時には冷や汗だったわよ。移植後は無茶しないでって、散々先生に言われてるのにね」
「移植?」
敬人が尋ねた。

「あっ、ごめん、言っちゃった」
「いいですよ、別に」

そう言うと、看護師はほっとした様子で「そうそう、移植してるの。だからお薬のせいで、人よりも抵抗力が弱いし、急激な運動もダメなのに、全部無視するから」と言った。

「……いつ?」
敬人が尋ねた。

「いつだっけ? えっとお」
「去年の、春だよ」
俺が言うと、「そうそう」と看護師が頷く。

「とにかくね、無理はダメ。せっかく助かった命を大切にしなくちゃ」
看護師はそう言うと、また慌ただしくカーテンを開け、「じゃあね」とフランクに手を振った。

カーテンが閉じられると、ぎこちない静寂が残された。

「移植って、どこを?」
敬人が尋ねた。心なしか、動揺しているような気がする。

「心臓。俺のはもう何度も止まって、移植しかなかったんだ」
「心臓」
敬人は呟き、俺の胸を見た。

その眼差しに心がざわついて、俺は敬人に「なんだよ?」と少し語気を強めた。

「兄貴が事故に会った時、この病院に運ばれた」
そう言われて、一瞬で理解した。

そうか。

「……圭人はいやに真面目で、珍しくドナーカードとか持ってたんだ。そんなさ、使うとか思ってないじゃん。死ぬとか、思ってないからさ。でも圭人なら、なんかそんなこともするかなって」

敬人は拳をぎゅうっと握って、俺の心臓から目を話さない。どんどん目の縁が赤くなり、泣くのを我慢しているのがわかった。

「先生に、この病院で移植を待つ、中学生がいるって。彼は今にも心臓が止まりそうだから、できれば圭人のこの先の人生を、彼にあげてほしいって言われて」
「うん」
「親は泣いたけど、すごくすごく泣いたけど、でも命が続くならって」

そこで敬人は俺を見た。

涙がどんどん溢れ、頬から顎、首へと伝う。

「そっか、そっかあ」
敬人は声を上げて泣き始めた。

『この世の中は、説明のつかない不思議な偶然の上に成り立っている』
原田が言ってた。

確かにそうだ、偶然の連なり、重なり。
でも本当にこれは、偶然なんだろうか。

窓から、温められた風が塊となって入ってきた。
ふわりとカーテンが持ち上がると、その隙間に見えた姿に、俺は一瞬息を飲む。

「圭人」
敬人が呟いた。

『ありがとう』
敬人によく似たその姿は微笑む。

でもそれは、本当に一瞬だけだった。次に薄いカーテンが揺れると、もうそこはただの病室で、誰もいない。

心臓が規則正しいリズムを刻む。

俺が死んだ後、どこにいくのかなんて、わからない。
知ったような気になっても、わかったような気になっても、それは思い込みか、幻想か。
真実は絶対にわからないんだろう。

でも、わからなくてもいいって、ことなんだろうな。

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