ADHD&不登校の娘に対する懺悔
私は学校に当たり前のように通っていた子供でした。
自分で言うのもなんですが、勉強もそこそこできたし、
体育はあまり得意じゃなかったけど、
困らない程度に頑張っていました。
長距離走が比較的得意だったので
マラソン大会だけは上位に食い込んでおこうとか、
それなりにあざとく考えて、
内申点もそこそこもらえるようなことを
考えていました。
要するに、要領よくやってたわけです。
そんな私は、娘がいじめ、不登校、ADHDの診断
という経験をしていく中で、
たくさんのミスを犯しました。
今は娘自身が納得して選んだ
インターナショナルスクールに入り
(現在休校中なのでオンラインですが)
授業も楽しく受けていますし、
新しい友達とも仲良くやっています。
だからこそ見えてくる、私の当時の至らなさ。
考えていると頭を抱え込んでしまうことだらけです。
今日は当時の私の失敗を書きまくる、
懺悔投稿です。
娘のこと
娘は私とは全然違うタイプで、
お世辞にも器用なタイプとは言えません。
ADHDだからということもあるでしょう。
いじめを受けて自己肯定力がダダ下がり
になってしまったこともあるでしょう。
あぁ、凸凹にぶつかってる・・・
と心配することばかりでした。
その代わり、得意なことや、やりたいことには
抜群の発想力や行動力を見せて、
度肝を抜いてくれるようなこともありました。
まぁ、決してバランスのいいタイプではありません。
このバランスの悪さが、彼女の魅力であり、
そして学校で「浮いてしまう」ところでも
あったのだと思います。
もともとすごく明るくて、素直で
元気いっぱいで、ポジティブな子でした。
学校も大好き、友達も大好きで、
その頃の我が家の辞書に「不登校」の文字は
全く存在しないものと信じきっていました。
いじめに遭って、学校に行きにくくなった頃も
まさか、という思いはありました。
正直、私は事態を軽く考えていたと思います。
あの子の性格ならケロッと乗り越える
だろうと思っていました。
学校にも不信感
ところが、いじめは収まらず、
学校の対応も納得いかないものが多く、
中にはこちらの考えられない対応をする教師も
いました。
例えば、娘がクラスの女子たちに無視され、
クラスに居づらくなった時。
娘は教室を飛び出して、逃げました。
彼女なりのタイムアウトだったはずです。
学校の安全対策でもありましたが、
職員室に待機している先生方が総出で
娘を探しました。
娘はウサギ小屋のそばで泣いていました。
それを見つけた男性教師が
「お前がそうやって逃げたら、
俺たちは探しに出なきゃいけないんだ。
さっきまで俺は職員室で採点をしていたんだ。
俺の時間を返せ」と娘に言いました。
こういう言葉かけが娘の自己肯定力を
ますます下げ、
学校への不信感は募りました。
仕事に忙殺されていた私のわがまま
もちろん、娘の気持ちに寄り添おうと
当時の私も必死に努力はしていました。
カウンセリングを一緒に受けに行ったり、
娘の気持ちを聞き取って、学校に伝えたり、
気分転換をさせようとお出かけしたり。
私なりにできることはやっているつもりでした。
それでも、毎日フルタイムで働いていて、
娘が学校に行かないと困るという気持ちが
私の中にあったのだと思います。
できることなら学校に行って欲しいと願っていました。
無理矢理引っ張るようなことは
しませんでしたが、例えば
当時の担任の先生(とても熱心な先生でした)が
「家までお迎えに行きましょうか」と
言ってくださるのに乗っかって
「先生が来てくださったら、学校に行きやすいかも」
とお願いしてしまったりもしました。
実際は娘の気持ちに寄り添い切ることなく、
私は自分の都合を優先させていたのです。
娘は、学校に行くと熱が上がることがあり、
その度に仕事中に学校から電話がかかってきました。
仕事を抜けられない私に代わって、
私の母にお迎えに行ってもらったこと数知れず。
家に帰るとケロッと元気になっている娘に
「そんなに元気だったらもう少し学校に
いられたんじゃないの?そしたらおばあちゃんに
迎えに行ってもらわなくても、
ママが迎えにいけたのに」とチクチク言ったり。
娘は、すごく孤独で、不安で、
どうしていいか分からなかったのだと思います。
それが体の不調にも表れていたのでしょう。
根は真面目な子なので、
学校に行けない自分を責めたことでしょう。
そして私が少しでも長く学校に行って欲しいと
思っていたことも、
彼女なりに察知していたはずです。
ママには自分の気持ちを分かって欲しいと
娘は強く願っていました。
こんな母親なのに、娘は私のことが大好きで
(自分で言うな、ですが 笑)、
私にはいっぱい気持ちを伝えてくれました。
それにとことん付き合う日もありましたが、
正直翌日は寝不足でクタクタで、
このままだと、ママも倒れそうと
愚痴ってしまったこともありました
(まぁ、実際あの頃は常に目の下にクマができており、
私の母は私の体をすごく案じてくれていました)。
それも娘が「私はダメなんだ」と思う原因の1つに
なったと思います。
大好きなママを苦しめていると、娘はさらに
苦しむことになっていたはずです。
夫と娘の関係の悪化
夫と娘の関係は最悪でした。
娘はアメリカ人である夫のDNAを憎みました。
「私がハーフだからいじめられるんだ」と
英語も一切喋らなくなったし、
夫のことも毛嫌いしました
(今は学校でアメリカンの友達も増えて、
むしろ日本人である自分よりアメリカ人である
自分の方がのびのびいられると言い、
夫ともすごく仲良くなりましたが)。
夫も、娘とのコミュニケーションがうまく行かず
私に丸投げになってしまうこともあり、
仕方がないとはいえ、なんで私ばかりが
こんなにしんどい思いをするんだと
夫に対して腹を立てたこともありました。
あぁ、書いていて自分が恥ずかしくなります。
でももう少し書かせてください。
荒れる娘
娘は落ち込んでいる気持ちを表現するためか、
家の中で暴れるようになりました。
暴れて興奮する娘に手を焼いて、
私が家を飛び出したこともありました。
近所をぐるっと散歩するとか、
30分ほどドライブするとか、
その程度のことなのですが、
不安で不安で仕方がない娘は
自分の気持ちを全て吐き出せる存在である
母親がいなくなるということに
ものすごく恐怖を覚えていました。
ママ行かないで!!と玄関で泣き叫んで
私を引き止めても、私は娘を振りほどいて
「ちょっとだけ時間ちょうだい!」と
家を出ました。
私は、このままだと娘に暴力を振るってしまうのでは
ないかという恐怖もあったのです。
だから自分を落ち着かせて、冷静になる必要がありました。
でも、それは私の都合です。
当時の娘にはそんな想いは伝わりませんよね。
娘が荒れて、家で大暴れして、ご近所さんに
警察を呼ばれてしまった時も、
私はこれが職場にバレたらどうしようと
思いました。
いや、別に罪を犯した訳ではないのですから、
どうってことはないはずなんですよ。
警察の方も状況を説明したら理解してすぐに
帰ってくれました。
だけど、私も追い詰められているような気持ちになり、
誰よりも落ち込んで苦しんでいる娘のことを
慰めながらも、私も辛い、辛い、と
心の中で何度も思っていました。
この警察呼ばれちゃった事件の時に
娘は私に「もう私なんてこの世にいなければいいのだ」
と訴えました。
実際に、2階のベランダから飛び降りようとしました。
スイッチが切り替わった瞬間
ここで私は本格的に「これは本当にまずい」と
気づかされました。
娘はここまで追い詰められているのだと。
あんなにも生きていることを謳歌していた娘が、
ここまでボロボロになってしまうなんて。
ここで私のスイッチが完全に切り替わりました。
いじめから不登校が始まり、
ここまで3ヶ月ほどかかりました。
学校なんて今はどうでもいい、
勉強なんて後で取り戻せる、
何より娘が生きていられるように、
とだけ考え始めたのです。
遅いよ!私!と今更ながらに思うのですが、
仕事を休めない環境だったので、
立ち止まって娘の気持ちをゆっくり考えて
対策を取ることを一切しておらず、
走りながら考えるような3ヶ月を過ごしていました。
あの時、私が「わかった。職場に頼み込んで
1週間お休みもらえるようにしてみる」と言えば、
もっと早く娘を学校に行かせない方法を
見つけられたのではないかと、今は思います。
娘の命が危ないと実感するまで、
私は娘のことも、学校のことも、夫のことも、仕事も、
何とかやってみせると思っていました。
その実、娘のことを第一に考えていなかった
こともたくさんあったのではないかと
とても反省しました。
まずは自己肯定力が下がりまくっている
娘の気持ちを何とかすること、
そして、
学校に行かなくても大丈夫と伝えること、
あなたは悪くないと何度も言うこと、
落ち込んでいる娘の気持ちが晴れるような
過ごし方を考えること・・・。
課題が次々に浮かんできました。
反省して落ち込んでいる場合じゃない。
私は娘を救わねばならない。
この子の命を失わせてなるものか、
ようやく私のスイッチが正常に作動し始めました。
また、近いうちに、ようやく正常化したスイッチで
どんなことをしていったかを綴っていこうと思います。