創価大学は広宣流布された世界のはず
創価大学は創価学会員だらけ。
それも二世だらけ。でした。
今は三世や四世も多いんだろうね。
私のイメージだと9割以上は学会員
ということはだよ。
創価学会が目指す三分の一のひとが信心しているという「広宣流布された世界」がそこにはあるわけだ。
私なんて寮に一年いたから大学でも帰宅後も学会員だらけの世界で暮らしていたわけだ。
そこはユートピアだったのか?
う〜〜〜ん。。。
黙ってしまう
安心、安全なカゴの中
っていう感じだったな〜
私たちは正しいことをしています
って感じ。
オウム真理教の事件があった時の報道を見ていると、やっぱり似たような感じを受けたんだよね。
ちょっと高揚したテンションの若者が「正義」を掲げて暮らしている場所
って感じだった。
地方から出てきたばかりの18歳の初めての東京生活としては安心な世界ではあったよね。
心配性の両親も創価大学だからこそ、それも「寮生活」だからこそ、安心して娘を東京へ出せたんだと思う。
そうかそうか。
自分たちが「正義」だと信じて疑わない「絶対的な世界」があるとしたら、自分の愛する子どもをその世界にいさせたいと思うよね。
そしてその世界の中で、幸せに向かって人生を謳歌してほしいと思うよね。
結局のところ、やっぱり自分の価値観が「絶対」だと思っているからこその「価値観の押し付け」になるんだよな〜。
広宣流布だって戸田城聖第二代会長は
「1対1の対話」が不可欠と言っていたらしいのに、二世に関しては有無を言わさず、、、になってしまうのがやっぱり歪みを生むんだ。
とはいえ、創価大学の学生寮の寮生同士の関わりは心地よかったし、大切な友人もたくさんできた。
学会の中の「優等生」の集まりだったから、誰かに「生徒指導」的なことをされなくても、みんな大きく道をはずれるようなこともしなかった。
でもあの感じの暮らし、、、ずっとは無理だな。
実際、寮を出たあと私はリバウンドっぽくなったんだよね。
自由に生きたくなった。
今思うと寮を出た途端「学会活動」から足が遠のきはじめた。
理由をつけて会合にいかない。
先輩がたずねてきても表面的な話しかしない。
バイトや趣味にのめりこむ。
でも学会の庭に足を踏み入れるときは「優等生」のお面をかぶる
まだ子供だった私なりに、「学会の庭」に窮屈さを感じて本能で逃げていたんだな〜。
あのユートピア?が私の中での人生の後悔第1位でもあるわ。
創価大学ではなく違う大学に行きたかった。
でもやり直したいか?って聞かれたら
まぁあれも私の人生の一部。と今では思っているからやり直しはしなくていいかも。
でも最終学歴を創価大学で終えたくはなかったな〜
ってまだ間に合うかも?
って思ったりする。。。がそんな気力も薄まってきたアラフィフです。