学会二世で良かったと思うことはあるのか?

批判する気はない
といいながら
ここまでの投稿は、批判的になってしまうことも多かったように思います。

あらためて。。。

学会を批判したいわけではない

今の私は
「何が正しくて何が正しくないか」の「ジャッジ」をしたくないのです。

私は
「二世として生まれ選択の自由がなかった」
ことを一番残念に思っているのかも。

では、ひどいトラウマを抱えるほどのことをされてきたのか?

全くそんなことはないです。

学会二世として生まれてからの人生、良かったこと?ってなんだろう。

基本、創価学会は「羊の群れ」のようだと思っていました。

宗教の世界ってそういうこと多いだろうね。

「信仰」があるからこそ、理性も働き
「あのひとは創価学会」という「ひと目」があるからこそ、より正しくあろう、とかより学会員らしくあろうと思って行動できる。

犯罪とは無縁の人が大半だし
激しい暴言を吐くような人も基本いない
愚痴や妬みがあっても、一般社会よりひどいものではない。

世間の学会への批判的な目があっても、学会の庭にいられる限り、その中では「幹部の○○さんの娘」という視線でよくしてもらっていた。

なにか良いことがあれば、会う学会員みんなに喜んでもらえたし、苦しいときにはみんなが一緒に祈って激励してくれた

それは、逆もそうってこと

誰かが何かを達成したときは一緒になって喜び、病気や怪我、経済的なことで苦しんでいるときには一緒に祈った。

親元を離れて創価大学に進学したときも、地元を離れてたったひとりで見知らぬ土地にいく不安はかなり少なかったし、実際八王子に住み始めてからは、地元以上に「学会の庭感」は強くてさみしさは微塵もなかった。

「学会の庭」には、たくさんの感動ストーリーがあって、「幸福感」をあじわうことも本当にたくさんあった。

苦しいことがあっても「ひとりじゃない」と思えたし、実際苦しさを分かち合ってくれる仲間の存在も大きかった。

素晴らしい世界!それが「学会の庭」

でも、その素晴らしい世界は「親から強制的に与えられたもの」だったのよね。

そこに窮屈さが生まれて苦しんだんだ。

はっきり拒絶して「脱会」する勇気すらもてなくて、心が学会から離れても、その「刷り込み」からは逃れられない。

「脱会」は「堕地獄」という恐怖がまだ抜けきっていない。

だから何十年も「なんとなく未活でやりすごす」ということをしている


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?