小説「喉仏」
中学を卒業した辺りから、髭が生え始めた。主に口の周りに満遍なく生えるようになった髭を、僕は同世代の男子全員がそうするように時に電動髭剃り、もしくはT字の髭剃りで剃るようになる。ここまでは世の男性の大半が経験する事だから、別に良い。文句は無い。皆が生えている所だから、文句はないのだ。が、高校入学するようになると、何故こんな所に?と言いたくなる場所からも、毛が生えてくるようになった。
そこは喉。正確には喉仏から、毛が一本だけ生えてくるようになった。丁度ど真ん中から、何故か毛が一本生えてくるのだ。何故だ。どうしてこんな所に毛根が必要なのか、なんでここに毛が必要だったのか。喉なのに頭髪の様なサラッサラの毛が、頭髪と同じくらいの長さで生えて来てしまうのである。
高校時代、他の男子よりも鏡を見る時間が少なかった僕は、この「喉仏毛」の存在に気付かず放置してしまう事が多かった。それ故、僕が注意を怠っている隙に「喉仏毛」はすくすくと育ち、友人と話している最中、なんかこいつ僕の喉の辺りをよく見ているなぁとなどと思いつつ、後にトイレの鏡で自分の喉を見るととんでもない長さに成長した「喉仏毛」がある……何て事がままあった。恥ずかしさのあまり指で引き抜いた経験は数えきれない。
そんな高校時代を過ごしたために、僕には喉仏を無意識に触る癖がついた。大学に入学する頃には指先で喉仏毛をチェックし、生えているならすぐ指で引き抜くという癖が身に付いたのだ。
この癖は社会人になった今でも、大手広告代理店の社員になった今でも続いている。
今日は企画会議の為、得意先の会社を訪れていた。まだ人のいない会議室に通された僕は椅子に座ると、早速ノートパソコンを開く。そして自然な流れで喉仏をチェック。喉仏から毛を生やした状態で大切な会議に挑むわけにはいかない。今の僕は、ダサさとは無縁なスマートな成人男性なのだ。
すると喉仏に持って行った指に、今まで感じた事の無いしっとりとした感触を感じた。
なんだこれは……?
喉仏に妙な湿気、湿り気がある。「喉仏毛」が生え、それが何らかの原因で濡れているのだろうか。指の腹を使い入念にチェック。……毛の様なモノがある、いやもう、毛だろう。「喉仏毛」だ。
指で感じる長さは恐らく5㎝弱といったところか。だがおかしい……先日しっかり喉仏は確認したはずだったのだが……。更に奇妙な事には生えた一本の毛は妙な弾力がある。プニプニしている。妙な感覚を感じながらしばらく弄んでいたがこのままにしてはおけないので、トイレで抜くために席を立った。さりげなさを装い、右手で喉仏を自然な動きでガード。他人に毛は見せず、トイレへと直行する。鏡前に誰もいない事を確認し、いざ「喉仏毛」を抜いてやろうと喉仏を見た瞬間、僕は絶句した。
喉には確かに喉仏に何かがあった。が、それは毛ではない。
足だ。
イカ、もしくは蛸の……足、的な何かが喉仏に1本くっついているではないか。
いつの間にこんな物が喉仏にくっついたのだろう?寿司か刺身を食べた記憶は全くない……まさか、満員電車で誰かにくっつけられたのだろうか?
指先でゲソ的な何かを摘まみ取ろうとして、更に僕は驚いた。
ゲソの根本が、首にしっかりとくっついている……。いや、これは、考えるのも恐ろしいがくっ付いているのではない……生えている。このゲソは、僕の首から生えている……。「喉仏毛」が、今は「喉仏ゲソ」になっている……。目眩を感じ、洗面台に手をつき身体を支える。よく見ればゲソはウネウネと弱々しくも動いているではないか。ゲソだから動くのか?いや、それよりも何故首からゲソが生える?人だぞ!
どうしたらいいんだ?……だがしかし、このままここにいるワケにもいかない、大事な会議が始まってしまう。無論ゲソを首から生やしたまま会議室に戻るわけにはいかない、皆会議どころでは無くなってしまう……抜くしかない。いや待て、抜けるのか……?
試しに引き抜こうとしてみる。すると当然の事のように、首の皮も一緒に持ちあがる。駄目だ。そして怖い。こうなれば切る、か。僕は常備している鼻毛切り用のハサミをポケットから出した。切れば、問題ないだろう……。
左手でゲソを持ち上げ右手にハサミを持ち、恐る恐るゲソを切り離そうとする。……まさか、一本切ったら次は2本に増えないよな……そんな白髪みたいな事にならないよな……。会議の時間は刻一刻と迫っていた。迷ってはいられない。僕は、意を決し、ゲソを切除した。
会議は順調に進み、無事終了した。僕は、終始自然な感じに喉仏をガードし誰にも見せない様に心掛けた。もう何もないのだが、ゲソの恐怖はすぐに拭い去れるような代物ではなかったのだ。
一日の業務を終え、新橋へ。同じ部署の同期、関口がセッティングしてくれたコンパへ向かう。関口は出来る男だ。恐らく来る女性は容姿端麗な子が多いだろう、正直今日と言う日がずっと楽しみだった。
店には僕が一番乗りだった。席につき、自然な流れで喉仏をチェック。毛もゲソも御法度だ。先程処理したばかりだが念の為……。そう思って触った指先に、あの濡れた感触があった。一瞬にして目の前が真っ暗になる。しかも、今度の喉仏毛ならぬ「喉仏ゲソ」は太いそして、長い。
慌ててトイレに駆け込み鏡を見る。
直径1cmはある……しかも長さは10cm程度あるのではないだろうか。しかもこのゲソは、赤い。赤い触手がウネウネ僕の喉でもんどり打ってるではないか。
「さっき切ったばっかりなのに……」
こんなの生やして気付かなかった僕も僕だが、ここまで来るのに電車に乗って街を歩いて店員にだって会っているのに……誰か一人くらい「首にゲソついてますよ」って言ってくれたって良いじゃないか……。
これは一体……なんなんだ?……そもそも、イカはこんなに赤いのだろうか?もしや、蛸か?
恐る恐るスマホで「蛸 足」と調べる。画面に映し出される様々な蛸の足の画像。今首にあるのに酷似している。
蛸だった。イカではなく蛸だった。蛸足が僕の喉仏から生えていたのだ。蛸、切るか……。鼻毛切用のハサミを出すが、今度は太い。とてもこの小さなハサミで切れるとは思えない。「切るなら、刺身包丁か何かが必要だ」。店員に頼んで貸してもらうか?いやいやそれは無理だろう。ならば事情を話して切ってもらうか?それも嫌だ、他人に首から生えた蛸足なんて絶対に見せられない。店を出て包丁を買いに行くしか、選択肢はあるまい。
トイレットペーパーを大量に巻き取るとそれをグルグル包帯の様に首に巻き外に出た。ほつれたトイレットペーパーが、マフラーの様に肩に垂れ下がる。店員がこちらを物凄い視線で見ている……。もう、自然な感じで誤魔化すことは不可能に近い、いや、それでも首の蛸足を見られるよりもマシだ。
「あれ?吉沢?」
関口ではないか。しかもその背後には、美しい女性達の姿まで……こんな姿は絶対に見られたくなかった。
「……なにその格好?」
「いやいやちょっと……」
「どこ行くの?」
「ちょっと……ちょっとね……」
全てにあやふやな返事をして僕は店を出た。夜の繁華街を闊歩する。
首に巻いたトイレットペーパーが、風にたなびく。関口達はもうコンパに僕を呼んでくれないだろう……こんな破天荒な格好をした奴はもう二度とコンパには呼んでもらえない。それどころか変な噂が会社内で広まる可能性だってある。こんな……首から蛸足が生えたせいで!
僕が怒り興奮したのがいけなかったのか、突如蛸足がトイレットペーパーの下で暴れ出した。慌てて首を押さえて静かにさせようとしたが、どんどん勢いと湿り気を増し遂に紙を突き破ってしまう。
「だ、ダメだっ!出て来てはダメだ!」
解放され以前よりましてウネウネとアグレッシブに動く蛸足。だ、誰か……助けて……!!もう、誰かに見られたって構わない。僕は病気なのだ、もう一人で解決するなんて無理だ!誰かに助けを……。
ふと見上げるとそこには、たこ焼き屋があった。たこ焼き屋に向かって激しく動く蛸足。それはまるで威嚇している様に見えなくもない。「お前……ここに反応しているのか!?」立ち去ろうにも、蛸足のたこ焼き屋へ向かおうとする力が強過ぎて、店から離れられなかった。
「お客さん、大丈夫ですかい?」
たこ焼き屋の店の主人が、僕に優しく話しかけて来た。とにかく助けて欲しくて、その店主を見て、驚いた。店主の首に大人の手ぐらいある太さの蛸足がマフラーの様に絡みついているではないか。
「兄さん、まだ蛸足と心、通わせられてねぇみてぇですね」
「蛸足と……心を、通わす?」
店主は教えてくれた。世の中には稀に、首から蛸足を生やす人がいるのだという事を。その人間は蛸足と心を通わせる事で、蛸と身も心も一つになり、誰よりも上手く蛸を調理できる「蛸調理のライセンス」を得られるというのだ。
「そいつが生えたって事は、兄さんも蛸を調理するために選ばれた人間って事だ。おめでとうございやす」
「嬉しくないですよ……こんなの要らないんです」
だが、取ってもらうにもまずは蛸足を大人しくさせなければならないそうで、僕は不本意ながらも、この店長の下で修業をする事になった。来る日も来る日も小麦粉を溶き、たこ焼きをひっくり返し……そうこうしている内に、4年の歳月が過ぎた。
もう、すっかり蛸足とも心を通わせている。親友と言っていい。会社を辞め、今では店長に暖簾分けをしてもらい、新宿御苑に支店を出し、そこの雇われ店長をしている。日々、この店でたこ焼きを作り、蛸足と心をまだ通わせられていない後進の育成に励んでいる。
これを読んでいる、あなた。たこ焼きは、蛸足と心を通わせた、選ばれた人間が作っている尊い食べ物です。だからもっと気軽に食べに来て頂きたい。あと、喉はじろじろ見ないで下さい。
老若男女問わず笑顔で楽しむ事が出来る惨劇をモットーに、短編小説を書いています。