小説「遺産」
父の葬式に出席するため、私は1人松本へ向かう特急あずさに乗車していた。東京に出て、早7年。父の反対を押し切り、当時交際中だった男と駆け落ち同然に上京したのだった。私は、長女だから家業を継がなければならないとか、決められた相手と結婚しなくてはならないとか、そういった古めかしい因習がとにかく嫌だった。
今思えば、父に対する反発の感情ばかりが先行し、相手の事をそれ程愛していなかったのだと思う。よく知りもしなかった。どうしようもない男で、浮気癖が凄かったのだ。私の駆け落ちは、そんなこんなで、たった2年で幕を下ろした。あんなに父に啖呵を切って故郷を後にしてきたんだから、良い結婚生活を送りたかったのだけども、甘かった。色んな意味で本能のみで突っ走ってしまった、私がダメだった。
言い訳するわけでは無いが、昔からずっと男運が悪かった。浮気・暴力・ヒモ、一通り経験した。私は男運が悪い。最近ようやっとそれを認める事が出来るようになった。ホント、付き合う男付き合う男ろくな奴がいない。8股をされた事が2度ある女は、そうはいないだろう。
東京にも、良い思い出がない。
だからといっておめおめと郷里に戻るわけにもいかず、くすんだ都会で一人、細々と日々を過ごしていた。
そんなある日、妹から電話が入った。母と妹とはたまに連絡を取り合っていて、またいつもの様に戻って来い、父と仲直りをしろという類いの電話だと思って出ると、違った。
父が、昨夜突然脳溢血で倒れ、亡くなったのだという。
電話口の妹の声が、徐々に小さくなっていくような気がする。報せを聞きながら、私の耳の中でキーンと何かが木霊し、しばらく何も聞こえなくなった。脳裏に、家を出る時の光景が蘇る。7年、喧嘩したまま何も話せなかった父。何か一言でも話す事が出来たら、良かったのに。それがもう、永遠に出来なくなってしまった。
私は、松本の地に足を踏み入れる。大正時代から続く老舗の酒蔵、それがうちの家業。父はそこで酒を造り、当然私も酒を造ると思っていた。でも、私はそれが嫌だった。
実家に到着し門をくぐると、奥の座敷では大勢の親戚縁者が集まっていた。お酒を飲みお寿司を食べ、故人を悼んでいたが、久しぶりに帰った私を見ると、叔父や叔母が驚きと共に迎え入れてくれた。叔父に手を引かれ、私は奥座敷へと入って行った。久し振りの家の臭い。独特なお香の香りが私の鼻孔を微かに刺激する。
「たか兄もなぁ……頑固だったから……」「ノリちゃんの事、ずーっと心配してたのに、ねぇ」
叔母に私が戻って来た事を教えられたのか、台所から母と妹が来た。7年ぶりの母は、小さくなってしまった気がする。喪服姿の妹は、少し老けていた。「お姉ちゃんに言われたくないよ」そうだった、私も年をとった。
夜になり、親戚が帰っていった後、家には私と母と妹の三人だけが残った。
「今話す事じゃないとは思うんだけど」
ボンヤリとした灯りの中で、母が、私の目を見て話しだした。
「なに?」
「この家継ぐのは、順子にするって、お父さんが」
「そう」
元より、そのつもりでこの家を飛び出したのだ。今更驚く事は何も無い。
「土地も、家も、財産も……順子にやってくれって……お父さん、遺書に書いて残してたみたいで……。ごめんね」
父からそこまで思われてたのかと驚く半面、父らしいと笑ってしまう自分もいた。どこまでも頑固。あの人らしい、と思った。
「ただね……一つだけ……則子に、あるのよ」
「え?」
「貰って欲しいもの、あるのよ」
「なにか、あるの……?」
「お父さんが、コレだけは則子じゃないとダメなんだって……則子に絶対やってくれって……遺書に、ねぇ」
そういって、母は私を連れ暗い夜の庭に出た。実家の庭には一体いつ頃作られたのかも定かでない古い巨大な蔵がある。私がこの家に住んでいた時に、この蔵の扉が開かれている所は見たことが無かった。
「この中になにかあるの……? お酒?」
「見たらわかるから。開けたら懐中電灯で、中照らして」
母は、鉄の錠前を外し、重い扉を開ける。私は言われた通り、中を照らした。蔵の中は、夜の闇よりも深い闇に包まれ黴臭かった。特に蔵の中には目立ったものはない。布のかかった荷物がうず高く積まれているだけで他には目新しい物は何も無い。
「お母さん、何があるの?」
「良く見てみればわかるから、もっと照らして」
懐中電灯の灯りで、私は注意深く中を見た。そして、気付いた。蔵の中にある布の掛かった荷物だと思ったものは、毛皮だという事に。そしてその毛皮は、ゆっくりと上下に動いている。隆起している。
「な、なに……あれ……」
毛皮の塊はモソモソと動きを活発にし始めた。間違いない、あれは、生き物……獣だ。
「お、お母さん……あれ、熊……?」
「違う、熊じゃない」
巨大な獣は、私達の存在に気が付き、体勢を変え始めた。
「お母さん、扉閉めて!」
「黙って見てなさい」
獣がゆっくりその巨体を、私と母さんの方へ向け始めた。デカイ……この時点でNワゴンくらいは絶対にある……。
「熊でしょ!?」
「だから熊じゃないって」
……それ以外でこんな大きな獣なんている?
獣は完全に私と正対した。体毛は全身に生え、身体は球体に近く丸みを帯びている。ずんぐりむっくりとした体形のせいで、首は見当たらず、何処から頭部なのかもよくわからなかった。
「……ゴリラ?」
「なんでゴリラが家の蔵にいんのよ、よく見なさい、顔を」
私は、顔を見た。ガラス玉の様な丸く美しい目、巨大な口と長い口髭、短い脚、長い腕と長く鋭い爪、そしてびっしりと体毛の生えた2本の角の様な突起物が頭から生えていた。
「まさか、まさかだけどさ……これって……」
「そうよ」
「トトロ?」
「だからそうよ」
「うちの蔵、トトロいたの!? トトロって実在したの!? こんなのずっと蔵にいたの!? 」
「先祖代々、我が家の長男、もしくは長女と行動を共にしていたの……何でかは、知らんけど」
「トトロが?」
「そうよ。何十年も前に、宮崎駿が取材に来て変な映画こしらえたせいですっかりメジャーになっちゃってねぇ……迷惑ですよねぇトトロ様」
遂に母は「様」を付け始めた。
私と母の会話に刺激されたらしく、トトロはのっそりのっそりと蔵の中から出て来た。想像以上に巨大だった。キリンくらいは間違いなくある気がする。縦にも横にもデカイ、そして意外と真顔なのも怖かった。
「宜しくお願いします。うちの、長女の則子です」
母が、トトロに私を紹介し始めた。
「ちょっと待って……もしかしてだけど……さっき言ってた私にくれるものって」
「トトロ様よ」
「え、嘘でしょ!?」
「長男、もしくは長女をずっと守って来た尊い方なの」
「ならなんで父さん死んだの!?」
「それは寿命だから。仕方が無いのよ」
トトロは私をじっと見つめている。そして、私に近づき始めた。不思議と嫌な気はしない、獣特有の臭い匂いも無い。ただ、アニメには無い圧倒的なリアリティに私は震えた。私などこの丸太のような腕でデコピンされたら、30mは吹き飛ばされるだろう、きっと。
「……私、東京に住んでるんだよ」
「ついてくから大丈夫。上手くやってくれるわよ」
「無理言わないで……1DKのアパートだよ! それに食事は? こんなトトロ絶対養って行けないからね!」
「その辺も上手くやってくれるから」
「上手くってなに!?」
母はトトロに近づき何か紙を見せている。トトロはそれをじっと見つめ、動かない。「成城学園前ですねぇ」母の一言にぎょっとし紙を奪ってみると、案の定そこには私の住所が書かれてあった。
「ちょっと!! 何してんの、トトロに住所教えないでよ!」
私が母に抗議すると同時に、トトロが空高く飛び上がった。一瞬にして、蔵の瓦屋根に飛び乗ったのだ。
「先に則子の家に行っててくれるって。良かったね」
「いや、行っちゃ駄目!」
私は大声で獣に懇願した。
「行かないで下さい! お願いします!! 私の家じゃあなたを飼ってあげられないの! ここにいて下さい!!」
私の願いは聞き入れられなかった。トトロは、たった一度の跳躍で私の目の前から完全に姿を消した。恐らく、成城学園前の、私のアパートへ向かって行ったんだろう……。
「行かないで――! トトロ――!!」
「遺言なんだから、諦めなさい」
翌日。
蔵の扉は再び閉ざされ、母は昨夜の事は何も言わなかった。なので、私もアレは夢だったのだと思う事にした。
数日が経ち、私は東京の我が家へ戻った。恐る恐るアパートのドアを開けたけれど、狭い室内にトトロはいなかった。夢だったんだ、私は何も相続しなかったんだと思いたかった。
たけど……。
それからというもの、私と交際している男が浮気をしたり、私を殴ったり、私のお金を勝手に下ろして使ったりすると、その男達が何故か全身の骨が完全に砕けたぐにゃぐにゃな状態で路上で発見されるという事が、ここ6件ほど続いてはいる。
……たぶんトトロの仕業っぽい。……あの太い腕でダメな男を殺しているっぽい。
トトロなりに私に害をなす異性から、私を守っているつもりなのかも知れない。そういう意味では……トトロは父親の様な存在に思えなくもない。娘が心配なんだろうな、きっと。
トトロが私の前に姿を現す事は無いけれど、今も何処かで私の事を思ってくれているのだろうか。
インターホンが鳴り、昨日から交際し始めた新しい彼がやって来た。バイト先で出会った、一緒に働く爽やかな男の子だ。もう次の被害者を出さない様に、とにかく誠実な男性を選んだつもりだ。今度は全部の骨を折られませんように。
もし仮に。
この人が、浮気をしたり殴ったりお金を勝手に使うくらいダメで、でも、それでも一緒にいたいと思うくらい好きになったらどうしよう……。
二人でトトロから逃げて、駆け落ちでもしてみようか。
老若男女問わず笑顔で楽しむ事が出来る惨劇をモットーに、短編小説を書いています。