小説「その子」
その子は、見知らぬ子だった。
艶やかな黒い髪、少し重力に負け下に広がりがちな頬、襟の付いた半そでにサスペンダーの付いた短パンを履いたその子は、我が家の居間、ちょうど襖を開けた辺りにちょこんと正座をしていた。恐らくは少年。少女ではない。
私は、開けた襖をそのままにこの状況を飲み込む事が出来ずたじろいだ。妻があげたのか? でもどうして私に一言もいわなかった? そして、どうして正座などしているというのだ。
「君は……あれかい?近所の子かい?」
この状況に即しているのかどうかわからぬが、とりあえず浮かんだ質問はこれしかなかった。だが少年は黙したままだ。私は更に困惑した。妻が歌舞伎座から帰って来るまで恐らくまだ3~4時間はあるだろう、その間私にどうしろというのだ。この良くわからぬ少年と黙って居続ける事など御免被る。
「妻が、あげたのかい?」
何も言わない。ずっと畳の目を見つめている。意地でも私と口など聞きたくないと言いたげな居住まいだ。置物の様じゃないか。ロシアのあれだ、民芸品に似ている。
「……トゥ……トゥ」
小さな唇が動き、やっと何か言ったが、それは言葉とは到底思えぬ妙な音であった。それでもロシアの民芸品に似ている少年とやっとのこさコンタクトが取れると思った私は間髪入れず「ん?……どうしたの?」と聞いてみた。
無駄であった。私の問いには何も答えてはくれぬ。
さぁ困った。どうしてくれようか。そもそもこの少年が客人以外である可能性も十分に有り得る……空き巣か。いやいやこんな幼子が空き巣になど入るものか。迷い込んだ可能性も考えられるではないか。大方、閉め忘れた窓から、冒険気分で入り込み、家主である私が突如出て来てしまったので肝を潰し腰が抜け座り込んでしまった……そんな所かも知れない。
うん……咄嗟に思いついたにしては、この線が濃厚な気がしてきた。
「君、もしかしてふざけておじさんの家に入っちゃったのかな?」
「……トゥ……トゥ」
「もしそうだとしたら怒らないから、正直に言ってごらん」
「……トゥ……トゥ……トゥトゥ」
まるで会話にならん。こちらが丁寧に会話をしているというのにこの少年ときたら、ただ畳ばかり見て、とぅとぅとぅとぅ良くわからぬ音を言ってばかり……ここは家主としての厳しい一面も見せるべきなのだろうか。いや……万が一、恐怖心でこのようなふざけた音しか出せなくなっているのだとしたら、私がこの少年に対し威圧的な言動をするのは逆効果でしかない。参った。
妻は歌舞伎からは当分帰っては来ない。ここは、優しくこの少年を迎え入れてやろう。大人の優しさいうものを見せてやろうじゃないか。例え空き巣だったとしても、それがなんだ。なんだってことも無いだろうが、こんな少年に一体何が取れるというのだろうか。せいぜい、おせんにキャラメルくらいなもんだ、たかが知れている。今は、この子の心を開かせる事のみに専念してみようではないか。
「君……まぁ君と呼ぶのは君の名を知らないから、今は暫定的に君と呼ばせてもらうんだけどね……君、カステラは好きかい?上は黄色で下は焦げ茶色のザラメが付いた甘いお菓子だよ。それが今あるんだ。文明堂のカステラなんだ。君が食べたいなら今それを持って来てあげようと思うんだけどね……。もちろん飲み物だってあるよ、紅茶だ。上等な物じゃなくて申し訳ないが、リプトンのなんだけどね。どうだね?……もしかして君、コーヒーの方が良いって言うんじゃなかろうね?……そうなのかい? 君くらいの子が、まぁ君がいくつなのか、ホントの所は知らないけどね、でも幼稚園か、幼稚園を卒業したくらいの歳だろう?……それくらいの子が飲むものじゃないよ、コーヒーは。もっと大人の、大人が飲むものなんだから。コーヒーは」
「……トゥ……トゥ……トゥトゥ」
「うんそうだね」
この時少年が何を言ったのか全く理解できなかったが、私はとりあえずこう答えた。なんか色々考える事に疲れていたのかもしれない。とりあえず、カステラとコーヒーを2人ぶん持って来た。
驚いた事に少年はカステラをペロリと食べた。コーヒーもブラックのままゴクリと飲んだ。苦そうな素振りも見せなかった。中々肝の座った少年である。しばし少年を見ながらカステラを食べ、コーヒーを飲む内、私はこの少年と心と心が通じ合って行く、そんな感覚を感じた。この子の真意は全く掴めぬが、それでも良いではないか。そんな気がしてきたのだった。私と妻の間には娘が一人。男の子はいなかった。もし私達夫婦に息子がいたら、こんな感じでカステラを二人で食べていたのかもしれない。そう思うと、妙に感慨深いものがあった。
「私はね、カステラの甘味を、コーヒーの苦みで中和していくこの感じが好きでね……」
「トゥトゥ……」
少年のとぅとぅも「me to」に聞こえる。聞こえようによっちゃそんな気もしてくる。実際の所は謎のままだが。
さて……まだ妻が帰って来るまでまだ間がある。どうしたものか。
その時、私は、少年が右の肘をボリボリと掻いている事に気が付いた。蚊にでも刺されたか。よく見れば、掻いている部分は白く粉を吹いたように白くなっている。
「あんまり掻くのは良くないよ。黴菌が入るから」
私はそれとなく止めさせようとしたが、少年は止める素振りを一切見せない。ただ、畳を見つめているのみであった。今度は左の膝をボリボリと掻く。
「君……なにかアレルギーでもあったのかい? カステラの、中に何か……卵か何かダメだったのかな……?」
答えない。最早とぅとぅも言ってはくれない。ただ、無心に左の膝を掻いている。どうしたものか……。妻はまだ歌舞伎から帰って来ない。少年の右肘が白くキラリと輝く。少年が熱心に掻いていた右肘が、白磁のように艶やかに輝いているではないか。人の身体というモノは、無心に掻き続けると、此れ瀬戸物の様に輝く物なのかといたく感心したが、いやいやそんな話聞いた事はないと思い直した。右肘ばかりではない、左膝もよく見ればもう白磁の様に輝きを放っている。……右肘とその周辺の皮膚……左膝とその周辺の皮膚……柔らかな牛皮の様な肌と、冷たい白磁の輝きが同時に少年の身体に存在している事が、私を、得も言われぬ奇妙な感覚に囚われさせた。
右肘はもう掻いていないはずなのに、白磁の面積がどんどん広がってきているような気がしてならない。
……病ではないか?この少年はなんらかの病に罹っているのではないか?
私はそんな不安を感じ、急にこの少年と同じ部屋にいる事にいづらさを感じるようになってきた。
「どうしたんだい……? その、肘は?」
「トゥトゥ」
「病なのかい?」
「トゥトゥ」
会話にならない。この子は一体何処からやって来たのだ、妻はまだか、歌舞伎座からはまだ戻らないのか、いや、演舞場だったか。
「……そろそろ帰ってはくれないかね?」
私は意を決した。どんどん白く美しくなっていく少年に、我が家にいて欲しくはないと思ったのだ。だが少年は私の願いは聞き入れず、今度は右耳を掻き始めた。ボリボリと。
「帰って……欲しいんだがね……」
少年の右耳は白磁の様にはならなかった。銀色の安っぽい、メッキの様な色へと変貌を遂げた。美しくはなかった。
「君……さっきから身体、変じゃないかね?」
ストレートに聞いた。もう少年への気遣いもへったくれもない、この状況はどう考えても可笑しいのだ。
「トウトウ」
「気持ち、悪いのかね?」
「トウトウ」
「何か、私に言いたい事があるんじゃないかね?」
「トウトウ」
「私は正直、恐ろしいんだよ……」
「トウトウ」
話にならない。何を言っても、とうとう、としか答えてくれない。右耳が色だけならまだしも形まで可笑しくなってきた。銀色の、変な形のレバーの様になっているじゃないか。
「どうしたんだね……その耳は……」
「TOTO」
「ん?……なんだって?」
「TOTO」
少年が右手で右耳のレバーをくいとあげると、少年の鼻と口から大量の水が噴き出した。この小さな体のどこにこんな大量の水が入っていたのかと聞きたくなるくらい、轟轟と音を立てて滝の様に流れ出たのだ。畳が、襖が、茶箪笥が、仏壇が、あっという間に水に沈んでいく。私も激流に飲まれ、台所まで押し流されてしまった。まるで、マーライオンが我が家の居間に出現したかのような有様だった。
「君!!……君っ!!」
私は荒れ狂う水流を泳ぎ少年に接近を試みた。まだ妻は帰らんのか、歌舞伎はそんなに面白いのか、なぜ自分は行かなかったのか、後悔ばかりが募る。こいつは一体なんなんだ、どこから現れたというのだ。私の隣を皿に載せた煎餅が流れて行く、恐らくもう食えたものではないであろう。
なんとか少年の元まで泳ぎ辿り着く事が出来た。今も尚少年は、俯き加減に鼻と口から水を吹き出し続けている。
「ふぉうふぉぅ」
水を吹き出しながらも、恐らくTOTOと言っている。こいつは最初からずっと、TOTOとしか言っていなかったのだ。おでこを良く見るとうっすら「TOTO」と彫ってあった。何という企業魂であろうか。
「ふぉうふぉぅ……」
「あのね、君!……聞こえるかね、君!!」
「ふぉうふぉぅ……」
「私にどうして欲しいんだね!?」
「ふぉうふぉぅふぉうふぉぅふぉうふぉぅ」
「何を言っているのかさっぱりわからないよ……あと、うちはね、INAXなんだ。TOTOじゃないんだよ」
すると少年は尻のポケットから何やら紙を一枚取り出して私に突き出した。水に濡れても滲まず破れぬ事から防水紙なのであろう、用意周到な事である。その紙にはこう書かれてあった「便器交換同意書」。
「なんだねこれは……? 甲の他社製品便器を、乙のTOTO便器に交換する事に同意する? これに、これにサインしろっていうのかね?」
「ふぉうふぉぅ」
このガキ、ムカつく事に頷きよった。心なしか「そうそう」に聞こえぬ事も無い。そうだったのか……こいつの目的は冒険でも空き巣でもない、押し売りだったっという訳か。TOTOの便器を売りつけるために私の前に現れたのだ。どうしたらいいのだ……そうこうしている間にも、このガキの鼻と口からは水がドバドバと溢れ、我が家を水浸しにしている。妻に何と言えば良いのだ。
「……わかった。替える。TOTOの便器に、替えるよ」
「ふぉうふぉぅ?」
「ああ。本当だ」
私は、びっしゃびしゃに濡れた。
老若男女問わず笑顔で楽しむ事が出来る惨劇をモットーに、短編小説を書いています。