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小説「動力、改め」

妻はここ最近、電動アシスト自転車が欲しいと言うようになった。

そんなに頻繁に自転車に乗るワケでもないし、そんなに遠出をするワケでもない。

ちょっとそこまで買い物に行くだけなのに、電動にする必要もないだろう。そう言っていつも購入の話が出る度に、はぐらかし続けていた。そもそも我が家の自転車は古く買い替え時かも知れないが、電動に鞍替えする必要はあるまい。

自転車というモノは、人力だからこそ乗る価値があるものだ。値段が普通の自転車より高いとか、値段のことだけではなく、漕ぐ事を電気に肩代わりさせるというのがズルをしているような気になってしまうのだ。

まだまだ私も妻も60じゃないか。そんな電動自転車などに頼らなくても大丈夫だ。

私はそう思っている。家には車だってある。電車だって、ちょっと歩けば駅がある。このままでいいのだ。

今日も居間にいるとその話になり、私はいつもの調子で言葉を濁し、妻は不満げに眉を顰め、結果家に居づらくなり私は家を出た。

私は我が家の自転車に乗ると特に目的も無く、その辺をぶらりぶらり流し始め、今、近所の橋を超えようとしていた。この橋は大きく、中央が大きく山なりになっているので超えるのが中々に難儀だ。ペダルが相当に重く、自転車が前に進まない。川面から吹き付ける風は爽やかだが、私の額にじっとりとした汗がにじむのを感じる。

そんな私の横を、前と後ろに子供を乗せた母親の自転車が、悠々と通り過ぎて行った。豊かな黒い髪は優雅に揺れ、その顔には一滴の汗も無く。さながら、一陣の風であった。

「な、なんと……」

私は目を見張った。そして母親の自転車を注視し、サドルの下にある電池を発見する。

これか、これが電動アシスト自転車の実力というものなのか。私は今まで電動自転車が動いている所を一度もまともに見た事が無かった。電気の力とは、こうも人を軽やかにするものなのか……。

子供を乗せた母親の電動自転車は1台では終わらず、2台、3台とかなりのスピードで私の側を走り去って行き、あっという間に消えて行ってしまった。なるほどここまで快適ならば、子育て世代には必須なのかも知れないなぁ。

私は橋の中央で自転車から降りた。

これが疲労感からなのか敗北感からなのかは、正直定かではない。ただ、もう自転車をえっちらおっちら漕ぐ気力はもう失ってしまっていた。なんだったら、ちょっと電動自転車が欲しくなってしまっている自分もいる。もう帰宅してしまおうか。いやいや、先程の妻との会話の手前すぐに家に戻るのも憚られる。

さぁどうやって時間を潰そうか。

まだ昼の2時だ、晩飯時まではまだまだ時間がある。

毎日毎日、時間は履いて捨てる程にある。

働いていた頃は、あんなにも時間に追われていたものなのに、定年退職してからというものすっかり時間を持て余すようになってしまった。同期の連中は今頃何をしているのだろう? 私と同じ時期に定年退職の身になった染谷や高崎達は、家で奥方と上手くやれているのだろうか。趣味の一つでも見つけ、日々を有意義に過ごしているのだろうか。それとも今の私と同じ様に、時間を持て余し、ただ街を彷徨っているのだろうか。

とぼとぼと自転車を手で押しながら、辛うじて橋の反対側までは降りて来た。

片道二車線の道路まで進み、信号が赤に変わったので立ち止まった。近くの公園のベンチにでも腰掛けようか。

そんな私の隣に、スーッと自転車が停車した。見ると、乗っているのは私と同い年くらいの太った女性で、このご婦人が乗っているのもやはり電動自転車だ。この体系にしてここの軽やかな動き、それを可能にしているのが、ご婦人のムッチリとした大きなお尻の下にある、黒々とした細長い箱。これが、この自転車の電池なのだ。動力源。力の源。色々衰えてきた私に、精力すら感じさせてくるではないか。

やはり、買い時なのだろうな、きっと。

ご婦人は、自転車から降りるとスマホを取り出し、道にでも迷ったのか何やら地図を開き始める。

私は、じっと黒い、電池を見つめていた。

もう、買っても良いかも知れないなぁ。こんなに便利なものならば。

そう決心した時、黒い箱の上部が突然パカっと開いた。

誰が開けた訳でもない、唐突に、勝手に、箱の蓋の上部が開いた。

私は目を見張った、これは電動自転車の仕様なのだろうか、それとも故障なのか。ご婦人は、まだ地図の確認に必死の様子だ。これは言った方が良いのだろうか? いや、言ってどうする、こういう仕様だって事は、十分に考えられる……。

いや、だがしかし、蓋の開いた事により、私は箱の中の黒い闇に言い様の無い不安を覚えた。

すると、箱の闇の中から、白い細いマッチ棒の様な物が2本、出て来た。棒の様な物はフラフラと宙空を彷徨う様に動いている。まるで、何かを求める様に。

いや、これは棒ではない。

手だ。

細く小さい木切れの様な細い手が、2本、電池の中から現れたのだ。

マッチ棒のような細く小さい手が2本、電動自転車の電池の中から宙空で何かを求めるように、揺れ動いている。

2本のか細き手は、電池の縁をヒシと掴んだ。

肘を曲げ、肩を強張らせ、その後、小さな小さな、金平糖くらいしかない頭部を出した。頭髪の無い、坊主頭。そいつが一匹、電池から這い出そうとしている。

ご婦人は、まだスマホを見続けている。

私は、もう口もきけない。

息も上手く吸えない。

小人の坊主は、やっと這い出て全身を現す。奴は、白い褌をしている事以外何も着ていないし、何も履いてない。江戸時代の奴隷みたいだ。

ただ、全身玉の様な汗を掻いている。そりゃそうだろう、あんな狭い小箱の中にいたのだから。肌は絹のように生白い。あんな暗いところに閉じ込められているのだから、それも当然か。

奴は、電池とペダルをつたってスルスルと地面に降りて来た。

アスファルトの上をヒタヒタと歩き、その場で尻を降ろし座り込んだ。疲れているのか、項垂れたまま、小さい小さい肩で息をしている。

何が電動自転車だ、こんな小人を中に閉じ込めて動力にしていたのか。私は、驚きと共に小人を見る。

すると、もう一匹、更に一匹と、小さな奴らがわらわらと這い出て来る。まるでアリの大群のように、何百という小人白褌が箱か道路へと溢れ出て来る。

もう絶対に電動自転車は買うまいと、私は心に決めた。

その時、這い出てきた小人白褌の内の2匹が、私の顔を見て、フラフラと近付いてきている事に気が付いた。2匹は、2匹同士で何やら話しながら近づいて来ている。

なんだ、私に一体何の用だというのだ、勧誘などされても絶対にあんな箱に等入らんし、褌姿になるのも御免だ。近づく小人白褌の一匹が両手を振り、私に向かって何かを叫び始める。

「本田~……本田~……」

奴らが、私の名前を読んでいる……。

なぜだ、なぜ私の名を知っている……。

私は屈みこみ目を凝らし、自分に近付いてくる2匹を凝視した。そして、驚いた。

「染谷……高崎……」

坊主になり、眉も剃り落としていたから気が付くのに時間が掛かってしまったが、2匹はかつての同期、同じ社にいた染谷と高崎だった。

「染谷、高崎、お前ら、何してるんだ⁉」

「再就職だよ」

染谷ははにかんだ。

「家、いてもやることねぇから。だったら働いて来いって、女房に言われてよ」

「あんな箱に入らなくたっていいだろ!」

「意外と楽なんだよ、覚える事も特にないし。中で暴れまくってりゃ、給料出るからさ」

高崎が涼しい顔でそう答える。東大卒の男だ。

「信じられん……」

「どうだ? お前も」

「いや、遠慮しとくよ」

「そうか。楽な仕事なんだがな。何もしないで暮らしてると、生きてるって実感、しなくないか? ここだったらするんだよ、あぁ俺生きてるって気がさ」

「そうなのか……?」

高崎は聡明で知識の豊富な男だった、それが褌一丁で電池の中に入るような老後を送るとは。

「あの中……何人くらい入ってるんだ?」

「大体、600人前後かな」

染谷が答える。4か国語を話せた染谷が。

「600人で、自転車、1台?」

「ん、まぁ、そう」

私は腰から崩れ落ちそうだった。我々にとっての老後とは、こんな事だったのか? こうでもしなければ得られないのか? 生の実感というものは。

電話を終えた中年女性が、自転車に戻って来る。電池から道路へとあふれ出た小人白褌達にさして驚くでもなく、足で虫を払う様に雑な感じで自転車の中へ戻るよう誘導し始める。

「ああ、じゃあ、また」

高崎と染谷が中年女性に足蹴にされながら自転車へ戻っていく。高崎、エリートだった高崎……。仕事が誰よりも出来た染谷……。俺の同期達が、電池の中へと帰って行く。

中年は私の方など見向きもせず、小人白褌達を電池に戻し終えると、自転車に跨り去って行った。

私の周りの空気が、妙に重くなった気がした。

さてこれからどうしたものか考えていると、私の側に一匹の小人白褌がいた事に気が付いた。収容され忘れたのか、それとも脱走したのか。

この小人白褌も先程の高崎達と同じく、私の顔を見て、何か言いたげだ。まさか、これも私の知り合いなのか……?

「よっちゃん……」

私の、下の名を呼ばれた。間違えない、これも私の知り合いの様だ。だが、誰だ?

よく見て驚いた、胸にさらしを巻いている。女だ。女の小人白褌ではないか。まさか女versionまであるとは……。だが、女性の、知り合い? 誰だ?坊主だからまるでわからん。

「私、私。ミドリ……」

驚いた。私の昔の恋人、瀬戸内ミドリではないか。かれこれ40年程前、結婚をしようと誓い合ったのに、どこぞのミュージシャンと付き合いだし姿を晦ましていた、元恋人のミドリではないか。まさか、こんな所で再会しようとは……。あの後私がどんな気持ちでいたのか、ミドリは、いや女型小人白褌は知っているのだろうか。

「わ、わたしね……」

60の坊主でさらしと褌姿になったミドリは、もじもじしている。一回自分の姿を鏡で見た事はあるのかと、問うてみたくなった。

「生活が苦しくなってしまってね……別れて、独身になって、大変で……。今電池に入っているんだけど、よっちゃん見掛けてね、あの、もし良かったらお金、」

踏み潰した。

渾身の力で。

一撃で。

踵の辺りから一撃で潰してやった。

二~三回グリグリやって、グリグリやって、足を上げた。地面にはミドリはいなかったが、地面、赤くなっていた。足の裏は確認すまい。

深く、呼吸をした。鼻から吸い込んだ空気がやけに美味い。

晴れ晴れした気分だ。生きているという実感がする。

私は、自転車を押し、その場を離れた。まだ、電動自転車を買うのは止そう。まだ体力はあるのだ。

ただ、

靴は新しく買って帰ろう。





老若男女問わず笑顔で楽しむ事が出来る惨劇をモットーに、短編小説を書いています。