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沖縄における自己肯定感の課題と、そこへの突破口の吟味

今回も、これまでの議事録より紹介

今回は、7月にメンバー間で議論した内容の議事録よりご紹介します。

ただ、今回はいつもビジネスチャットツールslackで共有している議事録は、文章という形式ではなく図解になっています。
こう整理すべきだ、と当日判断し整理しました。

その回では、自己肯定感に関する議論が中心になりました。

下記のファイルが、そこで整理した内容となります。こちらを見ながら読んでいただくと読み進めやすいように書いています。

沖縄の自己肯定感に関する課題の整理

沖縄において、「自己肯定感」は2種類あると考えています。
1点は、もちろん自己に対して。
もう1点は、自身のルーツに対してです。

・自己肯定感①(自分自身に対する≒自分への不可能視)

自分に対しての自己肯定感は、「自分への不可能視」と言い換えました。
GAJYUMARUのビジョンである、「沖縄に生まれた子ども1人ひとりが、自分の生きたい人生を描く」から捉えると、私たちが解決したいのは自分のこれからに対して不可能視することだからです(これは、主に「私なんてどうせ…」という形の言葉で現れます)

そして、「自分への不可能視」を3分類しました。
①失敗を恐れる
┗日本の教育の問題として、失敗や間違いを恐れる周囲の声掛けに関する指摘は多いです。沖縄でも同様の問題性はあるのではないか?という議論になりました。
これは、「加点法と減点法」という論点で、別途書いてみたいと思います。子育てにおいて、非常に重要な視点だろうと思います。
⇒この場合は、親からの声掛けや、教育者側からの声掛けなど大人側からの関わり方が重要だと考えています。また、塾やオルタナティブスクールなど、新しく子どものチャレンジを促すような教育機関とも連携できればと思っています。

②情報格差
┗一見「自分への不可能視」と結びつかないような印象を与えるかと思いますが、沖縄では十分な情報が得られないが故に「こんな方法、道もあったのか!」「こんな仕事をやってみたい!」とならず、自分の可能性に気づかないままでいることがあり得るという話になりました。

③経済格差
┗経済格差は、より直接的に自分の人生に対して悲観する原因になると考えています。たとえ何かやりたい、あるいは興味がある方向があったとしても「この経済状況では無理だ」と不可能視せざるを得ない子どもたちが沖縄には多くいるのではないでしょうか?

※経済格差、情報格差はGAJYUMARUとして非常に重要な問題だと位置づけています。その詳細について、またどう解決するかは上記2つの記事でまとめています。

・自己肯定感②(自身のルーツに対して)

ウチナーンチュ(沖縄県民)は、過去の歴史などから自身のルーツに対して複雑な思いになっていることが多いです。
そのように自分の生まれ、あるいは家庭などのルーツに対して肯定できない場合も、なかなか自分の未来に対して前向きになれないことがあり得ると考えています。それは自身にまつわる何かに対する否定につながる可能性があるからです。

ここでは、「絶対的」「相対的」の2つに分けました。
ルーツに対して、他と比べて肯定感を感じられないケースを「相対的」としました。

ルーツ(絶対的)

⇒その1つの突破口になると考えている(他にも多くあると思いますが、GAJYUMARUとして取り組んでみたいことという意味)のが、アート教育です。

私たちは、沖縄という島そのものがアートのような美しさを持っていると考えています。木々の緑、海の青や数々の動植物たちがオリジナルな美しさを持っています。
この場合のアート教育は、「その土地が持つ魅力に触れ、それを自身が表現したいあり方で表現する」というのがコンセプトです。

その中で自身の生まれた島の美しさを深く知り、かつ自分の表現したいあり方を知る≒「自分を知る」ことが、自身のルーツから自分を肯定していくことにつながっていくと考えています。
※もっとルーツに対して直接肯定感を上げるためには、歴史教育の方がストレートな解決策かもしれません。歴史教育に関しても6/22(沖縄の慰霊の日の前日)に扱った内容があるので別の機会に。

ルーツ(相対的)

ウチナーンチュの中には、県外(ないし島外)と比較して自身のルーツに対して恵まれないと感じて自己肯定感が下がるケースもあるようです。

その場合には、実際に外の世界に触れることが突破口になると考えています。他の社会を知ることで、正しく比較し、沖縄の良さに気づくことも可能となります。

・外に出ることが可能な場合⇒留学や就職などで県外に出る

・外に出ることが不可能な場合⇒テクノロジー(ZOOMなどを通じて、県外の方と触れ合う)により世界を拡げる

今回は、自己肯定感という大きなテーマを扱いました。また、まだまだ詰めが粗い部分が多いのでさらに詰めていきたい論点です。