怒りへの応酬
「どうして怒った言い方をするの」
と、怒りのこもった声で言われた。夫にである。
全くそんなつもりは無かったので、一瞬「何を言っているんだ」とぽかんとした。ぽかんとした後に、胸中に嫌な気持ちが胸に広がった。こっちは怒ったつもりはないので、向こうから一方的に怒りをぶつけられた気分になる。先ほどの夫も同じように感じていたのだろう。
逆の時もある。
夫の言い方に棘があるように感じ、応戦するように私も怒った言い方になる。
どうして怒って言うの、
いや怒ってないし。
今は怒ってるじゃん。
そっちが怒るからじゃん。
こだまでしょうか、
とはよく言ったものだと感心する。
いや感心している場合じゃない。不毛すぎるじゃないか。
この際、先にどちらが怒り出したかは置いておいて、(分からないので)
なぜ私たちはお互いが「怒っている」と感じ、「相手が怒っている」という状況に敏感に反応してしまうのか。
誰だって怒られるのは嫌いだ。
怒られないように細心の注意を払ってきた人間はなおさらだ。
そんな人は、怒られることは暴力を振るわれることと同じくらい恐怖に感じる。
殴られる前に自己防衛で殴りたくなるように、怒られると感じたらこちらも怒って対抗するのではないか。
恐怖でパニックになっているので、なおさら瞬間の判断で行動に移してしまう。怖いからこそ余計に、相手の「怒り」に敏感に反応する。そして、自分も怒りで対応する。
私たちは怖いんだ。
傷つけられるのが。
否定されることが。
だから応戦する。
傷つけられたら、傷つける。
ののしられたら、ののしる。
奪われたら、奪う。
応戦することはすなわち、戦争だ。
(話が大きくなってきた。こ、こわい。)
セトモノとセトモノと
ぶつかりっこすると
すぐこわれちゃう
どっちかやわらかければ
だいじょうぶ
やわらかいこころをもちましょう。
そういうわたしはいつもセトモノ。
『セトモノ』相田みつを
小さい頃から、この詩がよく頭に浮かぶ。
なるほど。私がやわらかくなればいいんだ、と思って生きてきた。
なのに、なぜか今や私はバリバリのセトモノ。おまけに割れやすい。薄口グラスくらいよく割れる。だから相手に柔らかさを求める。不毛!!
銃口を向けあっている状態から、手を降ろすのは勇気がいる。めっちゃこわい。撃たれるかもしれないもん。でも、どちらかが降ろさないことには、2人ともずっと怖いままだし、その後の話し合いも、もちろんできない。
こういうのはどうだろう。
お互い持っているのはおもちゃの銃で、引き金を引くと花が出てくる。怖がり同士だもん。本物の銃なんか持てっこない。引き金を引く勇気もないから、わからないだけでさ。
そう思ったらなんとなく滑稽でおかしいね。おもちゃ向けあって何してるんだろうね。
(後日追記)
相手の怒りに翻弄されないためには、自分が楽しくいることである。
相手の言葉を受け流したり、周りの人の力を借りたり、自分の好きなものに目を向けたり。
私は不快なものに焦点を合わせる癖がある。不快の原因をとことん追及したくなる。楽になるために。それ自体はいいのだけど、あまりにも見つめすぎるので、疲れるし、不快な感情を長く抱えやすい。
嫌なものを見つめる時間をいかに減らすか。いかに自分を快適な状況に置いておくか。そういう考え方でもいいのかもしれない。
それが、やわらかくなるってことかもしれない。