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アンチ・フィロ=ソフィア序説〜グノーシス主義に抗して〜

『概論』開始の挨拶

 この度、雑誌『概論』を始めることになりました。第一回の発表は主宰を務めます田代剛士(てると)が寄稿させていただきます。お読みいただけると幸いです。

『概論』の理念

 『概論』は、思想の新基軸の打ち出しと、各人の主体的な発表の場となることを基本的な理念とする。発表した内容には寄稿者が責任を持つこととし、そのうえでの能動的な執筆と思索を支持し、また本誌における思想の相互交渉を促進する。その他の方針は、交渉から形成される思想が判断を嚮導するだろう。


アンチ・フィロ=ソフィア序説〜グノーシス主義に抗して〜

 わたしが最近わかってきたのは、近代以降の現代人が見えるものしか見ようとせず、また聞こえるものしか聞こうとせず、人間精神の肝要な機構をほとんど無視している点である。哲学や文学に継続して触れていると、視界や聴覚は変わっていないにも関わらず世界の見え姿が変わっている実感がある。例えば、かつてはデカルトの「欺く夢」の懐疑に非常に苛まれたものだったが、今は目の前の筐体が現実か、幻想か、ということはほとんど問題にならなくなった。こうした感度に疎い人にはこれがわからない。
 グノーシス主義は古代的問題ではない。これをわたしは現在の、頗るこんにち的課題意識として探究している。現今のそれが「フィロソフィア」、すなわち哲学ということの問題であることも明らかになると思う。

グノーシス主義の概要とこんにちのグノーシス主義


 一般に、グノーシス主義は西暦紀元1世紀頃~4世紀頃に古代地中海世界とオリエントの都市知識人の間で流行した思想であるとされる。この思想はキリスト教のグノーシス派を生み出し、それは新約聖書の時代から明確に異端とされていたが、こんにちに至るまで絶えず反復されている。反出生主義のエミール・シオランがグノーシス主義に傾倒しており、『悪しき造物主』という著作を書いているが、反出生主義をたんに言語論理上の合理として処理してはいけない。秩序は人間をも世界をも貫いているが、それは一朝一夕の言語論理で処理できるものとは感じられない。

 グノーシス主義は、この物質世界を創造した「造物主」=「デミウルゴス」、すなわち「父なる神」を「悪しき神」とし、その神は神々の世界における「ソフィア(知恵)」という女性神の堕落によって生成したとされている。そして、われわれは霊的な「グノーシス」=「認識」によって真の至高神、善なる神、「一者」に還帰しなければならないとする。

つまり、学びを愛する人たちの知るところによれば、哲学が彼らの魂を手もとに引き取るとき、魂は肉体のなかに文字通りすっかり縛りつけられ、接合されてしまっていて、あたかも牢獄を通し て見るかのように、実在するものをほかならぬ肉体を通して考察するように強いられるのであって、魂が自分だけで自分自身を通じて考察するよ うなことはなく、そのために魂は、甚だしい無知のなかを転げまわっているのだが、哲学は、この牢獄の恐るべき仕掛けを見抜くのである。すなわち、この牢獄は欲望を通じて成り立っており、縛られている者自身が、縛られていることへの、最大の協力者であるようになっているのである——。

プラトン『パイドン』より

 これはプラトンの記述であるが、これがその後の「新プラトン主義」に繋がっていったり、その後展開する「グノーシス主義」の基本的な態度となる。わたしたちは生きていて、例えば個室にいる日中、精神的な過活動のために脳の気分が悪くなり、どこにでもいいから逃げ出したくなることがないだろうか。恐らく、この人たちはその感覚が強かったものだと思われる。ソクラテスが戦場や路上で動かなくなりじっと考え事をしていたり、ダイモニオンの声を聴いていたことは、哲学=「フィロ・ソフィア」の創始者である彼が何らかの過活動を抱えていたことの傍証になると思う。なお、ソクラテスの母は産婆であったが、ソクラテスが行っていた問答法は「産婆術」と呼ばれた。しかし肉体的繋縛は「逃走」、或いは「遁走」を許さない。そうすると容易に考えられる処方箋は「肉体からの逃走」である。このような心的現象はいつでも起こりうることで、特に「都市知識人」の体質と環境の相互作用はそうした思想の背景になると考えられる。

 テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。

新約聖書 テモテへの手紙-6:20-21

 聖書のこのパウロによる警告は、当時既にグノーシス主義者が勢力を得ていたことを明らかにするものである。このことは現代の信仰者にも投げかけられるものだが、カール・グスタフ・ユングは個人的体験からグノーシス主義をユング心理学に援用している。

グノーシス、すなわち「認識」の登攀と反出生主義

 グノーシス主義は遍くこの世を悪とみるので、そこからは半ば必然的に「反出生主義」が導出される。先のシオランにも、反出生主義の主張がみみられる。

大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに』
装画:つくみず


 反出生主義の一般的主張は、言語論理的に考察して、生まない方が倫理的に善だ、というものだ。確かに万象にはロゴスが貫いているが、既存の論理学でそれを完全に言いあらわせる様子はない。また、数理的規則は未だ行為の嚮導に有効である気配がない。諸々の欲求=意志(Wille)が人において活動している。だから、反出生主義はそれ自体理に適ったことではあるが、そこに留まることはまた意志に反して苦しいことでもある。ネオダーウィニズムを引用するまでもなく、生きんとする意志は個体に留まらないからである。そこで、反出生主義を獲得した後の生存方法を考えなければならない。

河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ」と大きな声で尋ねるのです。バッグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してこう言いました。それからテエブルの上にあった消毒用の水薬で嗽いをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしていると見え、こう小声に返事をしました。
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから」
 バッグはこの返事を聞いた時、てれたように頭を掻いていました。が、そこにい合わせた産婆は忽ち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほっとしたように太い息を洩らしました。同時に又今まで大きかった腹は水素瓦斯を抜いた風船のようにへたへたと縮んでしまいました。

芥川龍之介『河童』より

 これは芥川龍之介『河童』の一節であるが、ここに端的に反出生主義の基本形が示されている。「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから」と言うことで、まずもって個体として親の業を引き受けることへの嫌厭が述べられており、次に種の全体への罪業意識が述べられている。すなわち、伝統的に言えば、人類の祖先に「罪」が入り込んだというような世界観からは、それならば生まれてこなければその「責任」も負わなくてよいというような意識も当然出現する。このことを近代化して語る語り口では、「親の精神病」という負い目を背負いたくないという語りが典型事例として登場する。なお、『河童』においては、「善悪の知識を知る樹」ではなく、「生命の樹」が崇拝されているという描写がある。

つくみず『少女終末旅行』 第1巻
つくみず『少女終末旅行』より 04 日記

 先のシオランの表紙を描いた作家、つくみずの代表作が『少女終末旅行』である。その作品の中で作家は作為的に『河童』を燃やしている。この後、第6巻ではショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』も「日記」とともに燃料として燃やされていく。終盤に主人公が呟く言葉は、「生きるのは最高だったよね」という生きることの肯定である。肝心なことは、確かに本作はそれらを燃やしながら進み続けるが、それまで主人公がそれらの著書を気に入っていたり、また、荷物に限りがあるなか拾っていた事実のほうである。
 ところでこの作品の基本筋は、主人公二人が望みをかけて廃墟化した都市を、補給のためにひたすら進み続けながら「上層階」を目指すというものである。本稿のテーマであるグノーシス主義も、影響関係にあったネオプラトニズムに端的に示されるように「上部」に位置する世界への「還帰」を目指す。ところで、その世界観において「下部」の世界は、上部世界の神々のうちの女性神である「ソフィア」の堕落によって誕生した「デミウルゴス」=父なる神、或いはシオランに倣えば「悪しき造物主」が制作した世界である。こうした世界観だと、出生が「下降」であり悪に属することが明らかになると思われる。そもそも、哲学、すなわち「フィロ・ソフィア」というものが、当初はディアレクティケー(問答法、対話、弁証法)をつうじて「ソフィア」へ至る道としてはじめられたものである。

 ところでグノーシス主義者でもあったユングが、人の心の中の普遍的な女性の元型について、以下のような発展段階を考えていたようである。

 これをユングは四段階に分けて、第一段階を生物学的な段階、次にロマンチックな段階、そして霊的( spiritual )な段階、最後のは叡智( wisdom )の段階としている。

河合隼雄『ユング心理学入門』より

 この「叡智(wisdom)」とは、言うまでもなく、ギリシア語では「ソフィア」のことである。"Speaking words of wisdom "Let It Be""で馴染み深い、女性的な「知恵」のことである。なお、ユングの母は非常に霊的(spiritual)な女性だったことでも知られているが、ときおり人が変わったように鋭い知恵を発露していたということが、『ユング自伝』にも記述されている。

 知的な上昇の次第は、先に引用したもの以外にも、プラトンの著作、或いは多くの書物にあらわれている。

…むしろ社会はただ選り抜きの品種の人間が高次の課題へ、総じて高次の存在へと上りうるための下部構造かつ足場であるべきだ、というのでなければならない。この選り抜きの人間種は、ジャワ島の太陽めざして這い登る攀縁植物-シポ・マタドール(Sipo Matador)と呼ばれる-に比すべきものである。この植物はその蔓で樫の樹にじつに永いあいだぐるぐる絡みついていて、やがては樹に支えられながらも樹を超えて高く上空へ、ひらけた光のなかへとその頂冠をうちひろげ、見るもあざやかにおのれの幸福をひけらかすようになる。-

ニーチェ『善悪の彼岸』より

 ニーチェの『善悪の彼岸』からの引用で、「シポ・マタドール」についての箇所である。この樹は、「太陽めざして」伸びていく。

十九 人工の翼
 彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移って行った。が、ルッソオには近づかなかった。それは或は彼自身の一面、-情熱に駆られ易い一面のルッソオに近い為かも知れなかった。彼は彼自身の他の一面、-冷かな理智に富んだ一面に近い「カンディイド」の哲学者に近づいて行った。
 人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかった。が、ヴォルデエルはこう云う彼に人工の翼を供給した。
 彼はこの人工の翼をひろげ、易やすと空へ舞い上がった。同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行った。
 彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまっ直に太陽へ登って行った。丁度こう云う人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘人も忘れたように。-

芥川龍之介『或阿呆の一生』より

 芥川龍之介も、ニーチェ同様「太陽へ登って行った」。この事態は、古形としてはギリシア神話の「イカロスの翼」であろう。
 ニーチェも芥川も「アフォリズム」という形式の作品を持つが、このことはわたしのみるところ関連性を持っている。
 日本において太陽はもちろん巫女=ミコ的な女性神であるが、そこには糧の「贈与」のイメージが付帯している。先のユングにグノーシス主義がみられるとされる著名なエピソードに、「排泄する神」のヴィジョンを観たというものがある。人文学や文化人類学に近しい議論だと、「排泄」は贈与にあたるとされることが通用している。この「排泄する神」をそのままペンネームとして使用したのが『眼球譚』におけるジョルジュ・バタイユである。バタイユに即した説明では、「梅毒を患った末に発狂した父の排泄する姿」がその原体験であるそうだが、ここはただちに結論を出すよりも、議論の隙間として残しておいたほうがよいと思うので、「排泄する神」をペンネームとして、同じ筆で『太陽肛門』を描き、執拗に近親相姦を描写することがいかなる事態であるのか、各人で考察していただきたい。

そうした原則〔経験によって保障された原則〕を手に理性は(その本性によるところとはいえ)しだいに高みへ、より遠くはなれた諸条件へと登攀してゆく。…(中略)…ところがそのことで理性は、昏迷と矛盾とに転げおちてしまう。

イマヌエル・カント『純粋理性批判』「第一版 序文」より

 カントは端的に、先の著者たちに起きた事態を言い当てている。無規則にどこまでも「登攀」していくと、理性は「昏迷と矛盾」に転げおちてしまうというのだ。このことは、しかし、カント哲学の認識論である理性の吟味を予めインストールしておかなければ危険だということではない。有史以来、規則にはさまざまなものがある。その中には各種宗教の聖典が含まれよう。しかし、精神的に過活動の傾向があり、どうしても思考のプロセスが進んでいってしまうというような人は、このことをよく覚えておいたほうがいいようである。
 哲学は、ただ闇雲に考えることではなく、規則に従って進み展開できる仕組みをそなえていなければならない。そこで生起するのはたんなる考えごとではなく、「職人の哲学」とでも呼べるものとなるだろう。

イエスの叛逆と社会的秩序化について

ニイチェの叛逆はクリストに対するよりもマリアに対する叛逆だつた。

芥川龍之介『西方の人』より

 この文章は、恐らく「マリア」の語源が「ミリアム」であり、その意味は「叛逆」であることから取られたものかと思う。わたしの考えるところによると、ブッダの生母が「マーヤー」であったことも近似的な関係にある。女性に仮託されやすいものとして、出産に関わることから、「土偶」のような大地の身体性が挙げられる。このことは、聖書においては「アダマ(土)」から形づくられた「アダム(人)」が、「」と女の唆しによって罪に入ったことと関係しているように思う。「蛇」は偶像の象徴でありサタンの比喩でもあるが、これは、地上的=大地的な誘惑を象徴している。「善悪の知識を知る木の実」を食べるとは、通常考えて律法を知ることに比定できる。つまり、そこからは「罪の自覚しか生じない」のである。恐らく、このことから、人に「罪が入った」というよりも、土から生まれた時点で常に既に存在そのものは罪であり、ようやくのちに自覚するだけのことではないかとも思う。だから、女から生まれたものに善い者は一人もいない(身体存在の絶対悪)が、旧約聖書からは導かれると思う。しかし新約聖書になると様子が一変する。イエス=キリストが「肉体を持って」復活するのである。そして、この身体は「聖霊の宮」になるのである。「生きることの肯定」は、既にキリスト教によって始まっていたのである。イエスは、「神の国はあなたがたの内にあるのだ」と宣言する。さらに、イエスは罪人や病人をこそ食卓に招くと言うわ、これは、決して「身体は魂の牢獄だ」といった思想からは導かれない。キリスト教は、少なくともイエスの教えは、全く、背後世界の彼岸を説教するものではないのである。ニーチェのイエスへの嫉妬、或いはマリアへの叛逆は言えていることではあるが、ニーチェはイエスを批判したのではなくのちのキリスト教会を批判したまでのことなのである。

けれども偶然僕の読んだ一行は忽ち僕を打ちのめした。
「一番偉いツォイスの神でも復讐の神にはかないません。……」
 僕はこの本屋の店を後ろに人ごみの中を歩いて行った。いつか曲り出した僕の背中に絶えず僕をつけ狙っている復讐の神を感じながら。……

芥川龍之介『歯車』より

 ここまで再三芥川を引用してきたのも、この作家に典型的に「グノーシス主義」の心理構造がみられるからである。最末期の作品『歯車』では見事に深層の元型が流出しており、明らかに彼が発病していたことを示している。「ツォイス」とは解釈上「父」に該当するが、「復讐の神」は文脈上「母」としか読めない。すなわち、あの、父なる神のさらに上部がある、あの世界観である。これが「グノーシス主義」の典型的な世界像となる。…

 社会的秩序は父のモードにおいて形成されるというのは伝統的な議論に従えば妥当性を有する。だから、西アジアの神は「父なる神」である。ここで、例えば父なる神を信仰することで、また、聖書を読むことで何が行われているのか。それは、一義的には言えないが、一つは、肉親としての父から受けたものの、天の父との関係による経験の組み替えである。これは、一種の、精神分析で言うところの「治療関係」に近い。そのことによって、父のモードの記憶を組み替えていくのである。そして、ルールは、ゲームやスポーツにおけるときに自動的に作動するように、身体化され、意識せずとも成ったところのものとして鷹揚と作動しなければ、無理が来ると続くはずがない。そして、人は単一のモードではなく複数のモードをいつも使い分けている。例えば、ゲームをしているときに作動している回路と英語を学習しているときの回路、哲学的思考をしているときの回路が同じであるはずがない。だから、それを一つ一つ形成できるのであるが、その中でも普段から大きな位置を占めているモードはより健康で社会的なものへと組み替えていくことが望ましい。そこで、母のモードや父のモードの書き換えが要請される。そして、宗教は基本的に理性の光(啓蒙)ではなく神性の光(啓示)に照らされて歩む。あくまでもそれは、身体を持って大地にいながらにして上部からの声に聴従する道である。また、父を超越的至高神とし、それを超えるものを考えないところにも要点がある。フロイトやラカンの議論構成ではうまくここの心理構造の書き換えに届いていなかったように思われるし、実際彼らはよく治療に失敗している。ラカンの精神分析にあっては、しかし「治療主体」は患者なので、失敗したのは患者の責任となる仕組みである。
 いちおう導入として言葉を使ったが、実際には「社会的秩序」という言葉になにか実体的な感覚を憑依させてもまだ事態にうまく接続できていない。実際に細かく見ていくと、日常生活において臨機応変に事態を遂行すること、精神的に安定した生活を送ること、義務として課せられたことを遂行すること、それらのための自己形成を行うこと、などが挙げられる。それらの結果としてだけでなく、先在的にそれらを嚮導する規範としての秩序が求められている。諸学と人類の古典は秩序形成の有効な手立てを指し示すだろう。規範を喪失したアノミーは個体の自殺と集団の絶滅=終末-世紀末(19世紀末にはニヒリズムと退廃が流行し、20世紀末にはニューエイジと終末論が流行した)-を出現させる。早まってはならない。
 わたしたちは自由主義を採用しないが、自由の完全なる否定を否定する。近代思想の再考がこんにちさらなる課題である。

2024年6月30日

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