私とサッカー①~とある地元のサッカークラブに注目するようになるまで~

 誰も先を見通すことのできないコロナ禍に翻弄されて4カ月近くが経過した中、ようやく、Jリーグが再び始動する日が決まった。
 当初は無観客試合を強いられる、観客を入れられるようになっても、応援や様々なエンタメ等も制限される、まだまだ完全な形には程遠い再始動。非常に複雑な思いではあるが、まずは、この日を迎えることができたことを心から喜びたい。

 しかし、よく考えたらなんで私はJリーグが好きなんだろう。そもそも、ここまでサッカーが好きになったのは何だったんだろう。
 そんなルーツをグダグダ探りながらも、私とサッカーのかかわりやら思い出やらを色々と書いていく、私のnoteにおいての暫くのメインテーマ(の予定)。ようやくではあるが書き始めていこう。

Jリーグが開幕したころ

 さてそんなJリーグが誕生したのは1993年5月15日。当時、私は2歳。物心もついてないので当時の様子は当然ながら記憶にない。要するに、私にとって、Jリーグというのは「あって当然」のものだったし、競技スポーツやレクリエーションとしてのサッカーという存在も、ごく当たり前の存在ではあったのだ。
 では、私は当たり前のようにサッカー好き、Jリーグ好きとして育っていったのか、というとそういう訳ではない。そもそも私の家族や身近な人々に、サッカーをプレーしたりJリーグを愛好する人はいなかったので、身近に触れる機会はなかったのである。

 一番最初に好きになったスポーツは、大相撲だった。幼児期の頃である。
 我が家は両親ともフルタイムで共働きのうえ、祖母が同居していた。それゆえ、幼児期の私の養育の多くは祖母によって担われただが、その祖母が大相撲好きであったのだ。別に熱狂的なファンではなかったのだろうが、時は90年代の大相撲ブームの最中。我が祖母に限らず、当時の日本の多くの高齢者は大相撲中継が始まる時間になるとテレビのチャンネルを合わせていたのではなかろうか。そんな中で祖母と一緒にテレビを見ていたものだから、私も自然と大相撲好きになったのである。

 では、私がサッカーを、そしてJリーグを知るきっかけになったのは何だったのか。それは恐らく、新聞かテレビのニュースか何かだったのではないか。相撲好きが高じたのもあり、かつ文字や漢字を読むことに関してはやたらと早熟だった(別に両親に英才教育をされたわけでもないと思うんだが)ため、小学校に上がる前には既に新聞のスポーツ欄を読んだりしていたはずである。今思えばなんて変わった幼稚園児だ。
 大概、スポーツ欄というのは大相撲がなければプロ野球とJリーグの話が多く、あとは、日本海新聞なる鳥取の地方紙だったので、地元のスポーツの情報が載っているものだ。という訳なので、新聞に触れているうちに、自然とJリーグの存在というのも認識していたのであろう。
 ただ、当時はそれ以上の興味関心はなく、どんなクラブにどんな選手がいるとかまでは知らなかった。テレビ中継を見ていた記憶とかもない。これで、仮に地元にJリーグクラブでもあれば話は違っていたのかもしれないが、当時の鳥取県にJクラブなどあるはずもなく、だからと言って地理的に近いサンフレッチェやガンバ等、関西・中国のクラブが取り上げられていた、ということもなかったのであろうから、概して特定のクラブや選手に対して関心は持たなかったものである。

 そんなこんなで、一応Jリーグの存在自体は、幼児期には既に認識をしていたらしい。

フランスW杯という思い出

 1997年に私は小学校に入学するわけだが、この年の日本サッカーにとっての最大の出来事といえば、何と言ってもジョホールバルの歓喜である。
 ただ、この出来事も私はリアルタイムでは覚えていない。日本代表が初めてワールドカップなる大会に出るかも、ということで、アジア予選が繰り広げられていること、予選リーグ戦の順位表が2位までならW杯に出られる、なんて話を父親から聞かされ、日々新聞のスポーツ欄を見ながら、このUAEって国が厄介だなーとか、いつの間にか日本が2位になった、なんて思いながら日々を送っていたのである。で、気が付かないうちにいつの間にか日本がフランスW杯出場を決めていたというのが、本当のところである。
 もちろん試合のテレビ中継など見ていないし(そもそも遅い時間だった)、日本代表の死闘の細かい経過も知らなかった。あの岡野の決勝ゴールの映像を初めて見たのは、もっと成長してからだった気がする。

 そんなこんなで98年を迎え、フランスW杯本番の年に。この頃には、世間のサッカー熱も少しずつ上がっていた気がする。その流れに乗って私も少しずつサッカー知識を覚えていき、カズとかゴンとか北澤とか、中田ヒデとか名波とか城とか、代表級の有名どころの選手がどんな選手でどのクラブに所属しているか、どのクラブが強いのかということも認識するようになった。
 併せ、この頃からよくおやつに「Jリーグチップス」や「プロ野球チップス」を買うようになり、そんなに沢山のカードを集めたわけでもないが、その流れで自然とJクラブの有名選手を覚えていった気がする。ちなみに、初めて出たカードは今でも覚えている。グランパスの平野孝だった。

 そういう事もあったせいなのか、この頃好きなクラブはグランパスだった。別に名古屋に何らかの縁がある訳でもないが、それなりに強かった(98年は年間5位)事もあり、また、ストイコビッチのように名の通った選手もいたため、全国的にも比較的露出の多かったクラブであったように思う。当然、熱心なサポーターという訳でもなく、ただ試合結果を気にしたり、どんな選手がいるのか気にする程度だったが。

 閑話休題。というわけで、平野孝もメンバーに選ばれた98年の日本代表はフランスの地に旅立つわけであるが、予選グループHで同組となったのはアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカという、アルゼンチン以外はW杯初出場組であった事も踏まえて、世間のムードというのは比較的楽観的だった気がする。むしろ、アルゼンチンにも善戦するのでは、なんていう雰囲気さえ漂っていたかもしれない。
 もっとも、私はそれなりに冷静だった気がする。未だに良く覚えているのだが、当時購読していた小学館の学年誌でもW杯の特集が行われており、「日本はアルゼンチンに勝利する」などという、どう考えても素っ頓狂な記載があり、子供心に、この特集の執筆者は本当にサッカーを見たことがあるのか強く疑問に思っていたものである。

 W杯の試合自体は、あまり見ていた記憶はない。日本時間では子供にしてはそれなりに夜遅い時間に開催されたこともあり、確か初戦のアルゼンチン戦と2戦目のクロアチア戦を少し見たぐらいだったはずだが、残念ながら日本代表は得点もできず、試合の記憶はほぼない。ただ、実況アナ氏がやたら「名波がー」と言ってた記憶があるので、名波が日本の攻撃の起点的な存在になっていたんだろう、多分。3試合目のジャマイカ戦は翌朝のニュースで敗戦という結果を知ったが、ゴン中山が日本代表の初ゴールを決めた!ということに喜んだことを覚えている。

 とまあ、そんなこんなで日本代表は3戦全敗で初挑戦のW杯を終える訳であるが、この年はこの後もいくつか印象的な出来事があった。
 まずは、代表監督の交替。岡田監督に替わってトルシエ新監督が就任することになるわけだが、子供心になんか日本はこれから強くなりそうだな、と思ったことを覚えている。のび太君みたいな頼りなさそうな監督だったのが(失礼)まあなんかシュッとして厳しそうなフランス人の監督に替わり、日本代表はこれから強くなるのかな、となんとなく思ったことを覚えている。
 そして、中田英寿の欧州移籍も衝撃的だった。というか、当時名の通った日本人プレイヤーで海外で活躍しているプレイヤーはおらず、日本人が海外の一流リーグでプレーするという事があり得るのかと驚いたのである。今のように日本人プレイヤーがどんどん海外に行く未来など当時は想像もつかなかった。
 最後に、忘れてはならない、横浜フリューゲルスの消滅。これは確かニュースでちらっと見て、へー、Jリーグクラブも合併とかするんだなー、同じ市に2つってのは厳しいのかなー、程度の事しか思わなかった。(ついでに楢
崎がグランパスに移籍することになって、グランパスは強くなるなと呑気に思っていた)まあ、そのクラブのサポーターでもない小2の子供など、そういうものだろう。フリューゲルスが伝説のチームとなった98年天皇杯決勝も当然見ていない。先日、BSでやっていた特集番組で初めて見たぐらいだ。
 クラブが消滅することの意味の重さを知ったのは、もっとずっと後。私が特定のクラブを愛するようになってからの事であった。

SC鳥取、JFLへ

 とはいえフランスW杯後、私はそこまでサッカーを見ていたわけではなかったし、周囲でもサッカーに対する盛り上がりはほぼなかった。先述の通り、当時の鳥取県にJリーグクラブはないし、米子の普通の少年たちにとってプロサッカーというのは決して普遍的な話題ではなかった。むしろ、当時の話題の中心はプロ野球であった。時は2000年前後の世の中。テレビではまだ全国ネットのゴールデンタイムで巨人戦が放映されていた時代である。米子の少年たちに限らず、特定の競技に励んでいない全国各地の少年にとって最も身近なプロスポーツはおそらくプロ野球だっただろう。
 私も多分に漏れず、当時最も興味のあったスポーツは野球であり、周囲の友達とはよく野球の話をしていたものである。プロ野球球団も当然ない地域であったため、案の定巨人ファンの少年も多かったが、米子という土地柄は歴史的に阪神球団とのつながりも強く、阪神ファンの少年も結構多かったという印象である。他には、同じ中国地方の広島ファンや、イチロー・松坂のいるオリックスや西武のファンの少年もいた。少し変わりどころでは、お向かいの家の1つ上の幼馴染の少年がヤクルトファンだったりした。
 とはいえ、私と同じ日本ハムファンの少年は、ついぞ同じ小学校にはいなかったはずである。どんだけ変わり者なんだ、この人は。

 …閑話休題。てなわけで、当時私が見ていたプロスポーツはもっぱらプロ野球で、Jリーグは土曜の夜などに中継があるときにちらっと見るぐらいであり、見るとしたら先述のグランパスの試合が中心だったとは思う。日本代表戦の中継があるときも見ていた気がするが、そもそも当時そんなに中継していただろうか、というくらい記憶がない。
 と、このようにサッカーとはあまりつながりのない生活を送っていた小学生当時の私であったが、2000年、小学4年生だった当時の年末頃、NHKで鳥取県のローカルニュースを見ていた時である。アナウンサーが読んだ原稿に私は思わず反応してしまった。

「SC鳥取が、来年からJFLに昇格することになりました」

 まあ、普通の視聴者なら「鳥取県にそんなサッカーチームあるのねー」ぐらいで終わるニュースだろう。ただ、私にとっては衝撃的なニュースだった。
 「SC鳥取」というクラブは、実は名前だけは何となく知っていたのだ。先述の通り、私は日本海新聞のスポーツ欄の熱心な読者であり、そこに「SC鳥取」という名をよく見かけたことは覚えていたのだ。ただ、どんなリーグにいるとか、どんな選手がいるとかは全く知らなかったが。
 そして「JFL」である。当時このリーグの存在を知っている人は、まあ正直ほぼいなかったであろう。というか、今でも、Jリーグの存在を知っている日本人は大半だと思うが(そう信じたいが)、JFLの存在を知らない人は多いはずである。実際、当時の鳥取県にJFLに所属するクラブはなく、日本海新聞でもそのリーグの試合結果などは取り扱っていなかったはずである。
 じゃあなぜ私はJFLという言葉に反応したのか。それは、当時私が持っていたこの本に、JFLというリーグの存在が記載されていたからなのである。

 元日本代表のDFであり、Jリーグ初代優勝監督の松木安太郎氏が書いた子供向けのサッカーの解説本である。恐らく、運動神経が極端に鈍い虚弱少年だった私を案じて、母親が買い与えてくれたのであろう。内容は決して高度なテクニックとかではなく、ボールを用いた様々な遊びや、ボールを蹴ったりドリブルしたりする、ごく基本的な技術が紹介されているような内容だったと記憶している。
 その中で、松木氏によるコラムコーナーがあり、そこで「Jリーグ以外のサッカーリーグはあるの?」なんて話題が取り上げられていた。で、松木氏が「Jリーグの下に、JFL(ジャパンフットボールリーグ)というリーグがあります」と回答しており、私は弱冠小学生にしてJFLという存在を認識していたのである。そんな小学生、当時の米子市内にいただろうか。

 ただし、複雑な話になって恐縮だが、実際にSC鳥取が戦うことになるリーグは、「ジャパンフットボールリーグ」ではなく「日本フットボールリーグ」というリーグなのであった。同じJFLという略称であり、かつJリーグの1カテゴリー下という位置づけなのは変わらないが、「ジャパンフットボールリーグ」はこの時には既に消滅していたのである。
(説明しているとすごく長くなってしまうので、よく分からない人は適当にググってください、すみません)
 この事を知るのも、数年後、SC鳥取を本格的に応援するようになってからの事だったのだが…。

 いずれにせよ、SC鳥取というクラブの存在、そしてJFLというリーグの存在を記憶していた私は「え、SC鳥取ってそんな強いサッカークラブだったの!?鳥取から全国で戦うサッカークラブができるの!?」と心沸き立ち、SC鳥取というクラブに注目するようになったのである。
 プロ野球もサッカーも好きだし、好きなチームもあるけれど、土地柄、身近なところにチームのない環境にいた少年。そんな少年が、地元を背に全国リーグで戦うチームの存在に魅力を感じた。ある意味、必然だったのかもしれない。

次回予告

 本当は、ガイナーレの存在を知ってから初めてガイナーレの試合を見に行くまで一気に書き上げたかったが、その間に、楽しかった2002年日韓W杯の思い出がある。あまり長文になるのも、書くほうも読むほうもしんどいだろう…と思ったので、今回はここで一区切り。
 次回は、SC鳥取がJFLで戦い始めた頃の話を織り交ぜながら、日韓W杯の思い出を中心に記載し、そして、私がSC鳥取の戦うスタジアムに足を踏み入れる瞬間まで綴っていきたい。