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それでも始まる、東京2020

2021年7月23日。
一部競技はすでに始まっているが、今日は、東京オリンピックの開会式の日である。
1年延期が決まったあの時に予定された通り、開会式がこの日に行われることになった。
いや、じゃあアンタなんでこんな時にnote書いてんのよ、と言われそうだが、俺は現在シフト勤務。今夜は夜勤である。オリンピックスタジアムに行くことはできないが、オフィスで開会式の様子を見守りながら、大会の成功のために自らに与えられた業務に邁進している予定である。

去年の今日、俺は以下のようなnoteを書いて、想いを綴った。

あの頃から1年。
去年のあの頃、俺は一旦大会準備業務をお休みして一時的に保健所で勤務し、新型コロナウイルスなる我々人類の共通の敵に対応する業務を行っていた。来年の今頃は少しでも状況が好転していますように、安全に大会が開催できますように、そして、コロナ禍を乗り越えて皆が希望を持てる大会が開催できますように、と思いながら、働いていた。

それから1年。
正直、ここまで状況が悪化するとは思っていなかった。

目の前の感染症の状況は、少なくとも「検査陽性者数」という指標を見る限りは、決して落ち着くどころか状況が悪化しているように思える。医療現場や関係機関の逼迫の状況は良く伝え聞くところである。インフルにおけるタミフル的な特効薬もまだ見つかっていないようだ。
ここにきてワクチンの接種が進んできたという良いニュースもあるが、そもそも安全かつ効果の高いワクチンの開発がこんなにすぐうまくいった時点で奇跡みたいなものだ。感染症を充分に抑え込むレベルまで接種が進んでいくには、もうしばらく辛抱する必要がありそうだ。

そして、長引くコロナ禍で、様々な領域での社会活動が多かれ少なかれ制限されている。
日本の場合は強制力を伴わない「自粛」という言葉の下で多くの個人や団体が自らの判断で活動を制限したり緩和したりしてきたが、今年に入って、飲食店等の一部の業種については「法的措置」という強制力を伴zいうる措置が取られるようになり、より強い制限が行われるようになった。

このような状況下において、我々が戦うべき共通の敵は「新型コロナウイルス」になるはずなのだが、残念ながらそうはなっていない。社会の分断がより進み、人々の間、様々な業種の間で対立が起こってしまっている。どうしたことか、各種メディアもその分断を煽っているようにしか見えない。どうやったらこの分断を乗り越えられるのか、誰も答えを見出せていないのである。

そんな中で今日開幕する東京2020オリンピック。
残念ながら、この開催を歓迎する声はあまり聞こえてこない。いや、実は歓迎している人々も多いのかもしれないが、そのような声は開催に反対する声にかき消されているように思える。
オリンピックの開催が更なる社会の分断を生んでしまうのではないか。そんんな懸念が世間のあらゆるところに漂っている。

オリンピックの姿は、思い描いていたものからは大きく変わってしまった。
街全体が祝祭溢れる空間となり、海外の人々との交流があらゆるところで行われ、人々はスポーツを介して様々な感動と新たな体験を享受する。2019年のラグビーW杯の姿を目の当たりにし、そんな姿を思い描いていたのだ。

しかし、現実はそうではなくなってしまった。
社会の分断がある中で、街中に祝祭の雰囲気はなかなか生まれてこない。そもそも、海外からの観客は来られないし、関係者の来日規模も減ってしまった。やって来た選手団も隔離された状況下にあるため、キャンプ地等での交流もできない。それどころか、日本人の観客だって一部会場を除いて無観客になってしまった。開催都市の市民が競技を生で見ることができない。考えてみたら前代未聞の大会だ。

このような大会を開催する意義は何なのだろうか。
自分自身、時々見失いそうになる。

ただ、オリンピックの原点は、変わっていない。
それは、アスリートたちが一つの場所に集い、全力を尽くして自らの持てる技を競い、そしてお互いをたたえ合う。
平和を願い、スポーツで競い合う。

この原点は変わっていない。
そして、この崇高な原点を達成するために、環境が大いに変わってこようが、我々は最大限の準備を進めてきた。更には、この原点からなるべく多くのものを紡ぎ出し、単なる世界的な競技大会を開催したということだけでは終わらない、様々な良い効果やレガシーを生み出そうとしてきた。

ここまで歩んできた道のりと、これから一気に駆け抜ける道のり。
そこから、有形無形の色々なものが残っていくはずだ。

延期前からそうだったが、延期後も様々な困難が物凄い勢いで襲い掛かってくる東京2020。日々ハードルを上げられているように感じていた。
でも、そんな中でも困難に対して大会にかかわるあらゆる人々が真剣に向き合ってきた。多分、こんなことができる人々はそういないだろう。

開催する予定だった年に感染症が世界的に流行するなんて、東京という都市はとんでもないババを引かされた!と思っていたが、そんなとんでもないババを引かされても、大会開催までこぎつけられたのは、東京という都市の底力だったのだろう。
多分他の都市ではできなかったと思う。どっかで投げ出してしまうか、何かの資源が完全にショートするかのどちらかが起こっていたんじゃないか、と思ってしまうのは、思い上がりかもしれないが。

ならば、やるしかない。
東京という都市の底力を見せてやろう。

ようやくここまでこぎつけた東京2020。
後の評価は、歴史という評価者に任せよう。
どんな評価になるか。信じているものはあるが、それは言わないでおこう。

やってやろう。やるしかない。

東京2020は、始まるのである。