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雄勝硯伝統産業会館と御留山
1月某日、急に思い立って雄勝に行ってきました。
雄勝は、書道関係者なら「ああ、あの硯の」とすぐに思いつく地名だと思います。2005年に石巻市と合併して宮城県石巻市雄勝町となりました。
かつては日本の小学校で使われている硯の90%が雄勝硯だった頃もあり、日本でもダントツ一位の硯生産量を誇る硯の町です。その特徴は硯の原料となる石が露出していて、露天掘りで良質な硯材が取れること。また、その埋蔵量は推定500万トンとも言われています。
1.雄勝への旅
大宮9:32発の「はやぶさ11号」に乗り仙台まではあっという間。ここから仙石線に乗り換えて、各駅停車に揺られること1時間半。新幹線に乗っている時間より長く仙石線に乗っていたことになります。
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石巻で軽く昼食をとり、レンタカーを借りて雄勝を目指します。
石巻を北上して北上川沿いを走ります。震災後に整備されたと思われる道は、とても新しくて快適。海が近づくにつれどんどん川幅が広くなります。まもなく海に出るかと思われるあたりで右手の山の方に折れ、峠を越えると雄勝町に入ります。
最初の目的地、「道の駅 硯上の里 おがつ」につきました。
2.雄勝硯伝統産業会館
雄勝町も2011年の東日本大震災で甚大な被害を受けました。その入り組んだリアス式海岸の雄勝湾に16.2メートルの津波が襲いました。住宅の7割が全壊し、犠牲者は200名以上に上ります。
そんな中、旧雄勝硯伝統産業会館もほぼ全壊する被害を受け、雄勝硯の生産も全くできない状況となります。震災直後は、「雄勝硯はもうもう生産できないのではないか」と言うような噂もまことしやかに囁かれていました。
しかし、のべ6500人以上のボランティアによって、流された原材料や硯などが拾い集められ、震災の翌年には震災後初めての採石も行われたそうです。そして、2014年には仮工房ができ徐々に生産できるようになってきたと言うことです。そして、2020年5月に雄勝硯伝統産業会館は移転新築オープンしました。
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雄勝硯伝統産業会館の中には、展示室があり雄勝硯の様々な展示があります。また、館内には硯のほか食器やペーパーウェイトなどの雄勝石の製品が展示販売されています。雄勝石は硯だけでなく、様々な製品が作られていて、雄勝硯生産販売協同組合が早くから多角的な工芸品の生産に取り組んだことから、硯の需要が少なくなった現代でも商業的に成り立っています。特にスレートの特性を活かした石板材は東京駅の屋根に使われていることでも有名です。日本各地の硯生産地で存続の危機を迎えていることを考えると、雄勝の取り組みは素晴らしいと思います。日本の硯はじめ書道用品の産地がなんとか今後も伝統を守り続けられるように願ってやみません。
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3.雄勝には硯材がゴロゴロ
雄勝硯伝統産業会館を出て、雄勝湾の対岸方面に行きます。
国道398号線を途中で旧道の方に折れて海岸側を走り、「伊達黒船造船の地」に行きます。「伊達黒船造船の地」とは江戸初期に仙台藩が建造させたサン・ファン・バウティスタ号を作った場所と伝えられるところです。しかし私の興味は伊達の黒船ではなく、この辺り唐桑・呉壺地域の山が「御留山」とされていたことです。
目の前には雄勝湾が広がっていますが、震災後海岸線に防波堤が築かれたように見えます。しかし、かつて浜だったと思われるあたりにもゴロゴロと雄勝石が転がっています。
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応永31年(1396年)に記録された古文書「建網瀬祭初穂料帳」のなかに「ヲカチノスズリハマ」(硯浜)との記述があって、すでにこの頃から雄勝硯は生産されていたと考えられています。
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4.道路になってしまった御留山
江戸初期の1615年〜23年に藩主、伊達政宗が牝鹿半島へ鹿狩りに出かけた際、硯二面を献上したところいたく称賛し、二代伊達忠宗、四代伊達吉村もともにその硯を認め、雄勝硯は伊達家献上硯となりました。硯材を産出する山は「お止め山(御留山)」と呼ばれ、一般の採掘を許しませんでした。雄勝硯の中でも御留山で採掘された硯材を御留石と呼んで、最上級とされてきました。
けれど、その御留山は震災復興事業として道路建設が計画され、その最上級の石が取れなくなるということから、この辺りの土地の権利を持つ硯製造の方が反対をされたのですが、結局この良硯の原石の真上を道路が通されてしまいました。
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道路計画に関することは、ネットで探していたら、こちらのブログに詳しく書かれていました。
御留石の硯がもう作られることがないのかと思うと残念でなりません。