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作品とタイミングについての雑感


 最近、ふとマウリツィオ・カテランのコメディアンのことを考えている。

 ちょっと前に話題になったバナナを灰色のテープで貼り付けただけの作品だ。

 美術手帖の記事 

 ちょっと前(昨年12月)とは言え、世界は、この後、新型コロナウイルスの騒動に見舞われ、もはや遠い昔の出来事のようにも感じられる。そして、この事によって、この作品の意味も評価も大きく変わったんじゃないかとも思える。

 カテランのコメディアンは、発表された当時からバカバカしく、一般的に言えば、賛否ある中の否の方が多かったように感じるが、しかし、美術に親しんでる人間から見ると、この作品は結構大きい射程の問題をコンパクトに扱っていて、作品として優れたパースペクティブを有しているのが、すぐ分かる。

 例えば、デュシャンからウォーホルに至る流れから、カテラン自身の立ち位置から、発表されたアートバーゼルの存在感から、モチーフのバナナの意味(例えば、複製とオリジナルの関係)から、そもそもバナナとテープのXの構図とサイズ感とインスタレーション的な白壁の「映え」がインスタ時代のアートの在り方の変容を考えさせるようにもなっている。「コメディアン」というタイトルそのものも当時のアート界(あるいは資本主義)の戯画的な意味合いをも含んでいるだろう。

 そういう意味で、美術に親しんでいると逆にこの作品はいろいろ深読みできてしまうのだが、しかし、もちろん、それ込みで「そういうこと」そのものが下らないと思う美術愛好家はいたと思うし。実際、自分も比較的、下らないと思っていた方だ。

 しかし、ここに来ると、この作品は、もしかして、新型コロナ騒動以前のアート界(あるいは資本主義)の牧歌的、あるいは、戯画的な空気を最も濃厚に残した作品として、結構、重要になってくるのではないか?とも思えるようになってきた。

 おそらく、今の世界の状態で、カテランがこの作品を発表したら、受け入れられ方が全く違うものになっていただろうし。そもそも、発表できずにお蔵入りになっていた可能性もあるだろう。そして、新型コロナウイルス騒動以降にこの作品が面白く感じられるか?と問われれば、今の段階では、そんな未来はちょっと想起しづらい。そして、(欧米の空気感は自分には分からないとはいえ、おそらく)もはや、テンションが違いすぎる。

 しかしながら、この作品は、偶然にも現在の騒動の「直前」に発表されている。この事により、この作品には「別の意味」が付加されてしまったようにも感じられる。要するに、今見ると(と言っても、実際見たわけではないので、考えるとが適切かもしれないが)、この作品には「新型コロナウイルス以前の世界」の牧歌的な雰囲気、あるいは、戯画的な雰囲気が濃厚に表象されてしまっているようにも感じられるのだ。

 こうした事は、作品とリリースのタイミングの関係に関しても示唆的な問いを含むだろう。優れたパースペクティブを持つ作品は、タイミングにより、何かを表象してしまう事があり得るし。タイミングにより、何かを失う事もあり得るように思う。少なくとも、自分はこれを見ると「あの頃は良かったなー」と思うところもあるし。やっぱり、「あの頃はしょうもなかったなー」と揺れる部分もある。

 いずれにしても、カテランのコメディアンは、「ある時代」の空気感をかなり濃厚にパッケージする機能を持っていると思え、やはり、作品として、本当に優れている部分があったのだろう。

(一番上の写真は、自分がキャンバスにテープを貼った単なる下地です。なんとなくで選んでみました。) 
 

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