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お母ちゃんの笑顔

カーテンを開けると、ホッとしたような優しい笑顔で迎えてくれる母がいなくなって2年6ヶ月。今年5月末に三回忌を済ませ“やれやれ”。

クリスマスイブに倒れてから2年と半年間、私のわがままで一番近い施設に入所してもらった。

母は命と引き換えに体の自由と言葉を失ってしまった。どんな気持ちで過ごした時間か私には想像もつかないけれど、私の自己満足の親孝行の日々。

母は車椅子で起こしてもらって外を眺めるのが好きだった。青空、夕焼け、偶然にもそこからは母が子供の頃行き来していたいとこの家に通う峠も見える。郵便配達バイクもパトカーも嬉しそうに見ていた。

『脳梗塞はね脳の一部が死んでしまっているので認知症と同じなんです。』とお医者さんから言われた。母は私の事を自分の娘で有ることを覚えてくれていたのかな、でも面会中止になってしばらく会えないと泣いてばかりいたからちょっとは覚えてくれていたのかな、私は自分を指差し『これ誰?』と聞く、ニヤリと笑う。名前が思い出せないだけで娘だと分かっていてくれたかもな、あの優しい笑顔そう思いたい。

少しでも記憶を失くさないようにと無茶苦茶な面会回数を繰り返し、日に二回は当たり前『私の事を、自分の事を忘れてしまう❗』止められなくなって繰り返し、繰り返し続けた。私はストレスで味覚を失った。

そして、面会が義務のようになって私が良い笑顔で母に会えなくなって来たことにふと気がつき私は面会無しの休日を作ることにした。



別れは呆気なかった。何度かの入退院も繰り返したけれど、その日は面会に行くといつもと様子が明らか違った。急性大動脈解離、直ぐに心肺停止になりその日の内のお別れになった。

母を見送ってから

何かを無理矢理もぎ取られたような心のまま何日も何度も泣いた。お風呂の中、布団の中、通勤の車の中、家族の居ないところばかりで泣いた。この悲しみがいつまで続くのかと思い始めた頃、母を失った悲しみを忘れてしまうのではないかと言う恐怖も感じ始めた。

元気な時にもっと、もっと話をしてれば良かった。聞きたいこともたくさん有ったし、当たり前に有った日々は当たり前でないことが分かっていながら後回しにして後悔ばかりの日々。毎日、毎日心の中で手紙を書いたしノートにも記した。


そうして、いつからか気持ちの変化を感じ始めて、忘れるのではなくいつもいつも頭の中にあった母の事を思わなくなれた。代わりに何度も何度もちょっとしたことで思い出すようになった。気持ちが楽に暮らせる自然な日常になった。母を乗せた救急車とスレ違った道も苦しくなく通れるようになった。


心のよりどころが無くなった事も辛い。こんなに大人になっても無性に寂しくなったりすることもいっぱいで、でも自己満足の親孝行で何とか勘弁して下さいの2年半。

お母ちゃん会いたいです。カーテンを開けたらまたウンウン頷きながら安心した優しい笑顔を私に向けてほしい。

時々、買い物帰りに遠回りして母がお世話になった施設の横を通るときがある。もうそこに母が居るような錯覚は起きないけれど何故かそこを通りたくなる日が有って、それは私の心が弱っている時。

今日が何日か分かるように、無駄かも知れないけれど施設で吊るしてあげていたカレンダーも私の部屋に吊るしてあるまま。

2018年6月で止まったままの母の生きた証。そこまで頑張ってくれた証。

ありがとうお母ちゃん❗