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モーニングページの恐るべき効果を発見したかもしれない(仮説)

「脳はバラバラな情報を勝手に統合し、何かしらの意味を自動的に見いだすようにできているのではないか。
そしてモーニングページは、この作用を起こすためのものではないか」

という話である。

意識的になんらかの意味を見いだす努力とは違う話である。
つまり、「考える」「思考する」のではなくて、
あくまでも自動的に・・・・、というのがポイントだ。

脳が一見バラバラな情報から、なんらかの意味を見いだす働きは「パターン認識」として知られている。

モーニングページは、ただ思いつくままの事を、なんの脈絡もなく、文章の体裁も全く無視して自由に書く。
それによって目の前の紙に書き出されるのは、もちろんわけのわからないどうでもいい情報である。

だけど次第に、わけの分からなかった情報から、何らかの気づきに似た連想が続いていくことがある。

これは脳内で何が起こっているのか?
書き出されたバラバラな情報から勝手に何らかの情報を引き出すように、脳が無意識下で勝手に思考し始めているのではないか。

考えようとして考えるのではない。言うならば
「あれ? これってつまりこういうこと?」
という連想みたいなものが勝手に生まれてきて、そして次の行に書かれていく。これがモーニングページで行われているプロセスなのではないか?

イメージとしては芋づる式というか、ある一本を引き抜いたら、ズルズルと何かが出てきた、というような感じである。

その連想はそのまま続いて、次のイモが出てくることもあれば、ツタがブツンと切れて、また脈絡のない全く別の話になったりもする。

しかし、モーニングページなのだから気にしない。
べつに何か答えを出さなければならない文章でもないので、気にしない。

そうして偶然に掘り出されたイモが、偶然食べられそうだった場合のみ、脇に置いた籠にとっておけば、後で使えるアイディアになるかもしれない。


脳科学的にこれはパターン認識の一部として説明していいのかは不明だが、似ていると思った、というのがこの話である。

一見テキトーで、てんでバラバラな情報が、視覚的に並ぶことで、それらを見て脳がパターンとして認識したのでは? という仮説である。

もちろんその認識は単なるこじつけだったりするし、全く正しい情報というわけではない。
そもそもパターン認識とはそういうものだ。
三つの点があったら、人の顔だと認識する。これが幽霊が見えたという、誤認識になることもあるわけだし。正しい情報なのかどうかは判断されない。

モーニングページを書いていたら、なんらかの有意っぽい仮説が出る。これだけで十分すばらしい効能といえるのではないか。
仮説とはつまりアイディアなのであって、あとはそれを検証するだけの話である。
ひらめきとはそういうものではなかろうか。

モーニングページを知ったとき、これがどうして自由な想像力を取り戻すことになるのか、わからなかった。

モーニングページとは、全く何にも縛られないで、脳内にあるあらゆるものが出てくる。ようするに一人ブレストみたいなことになるのだ。
ただし会議でのブレストとは違って、がんばって答えを見いだす必要もない。
脳内の全てを吐き出していく作業なのだから、もちろんゴミも大量に出される。

でも、ゴミだと思っていたものが

・まだ使えるじゃん
・じつは結構いいモノだったじゃん
・今見るとかっこいいじゃん
・もう一回使ってみようかな
・これと組み合わせるとイイ感じじゃね?

みたいなこともある。
もちろん、捨ててしまって整理されるだけでも、脳にとってはすごいメリットである。
掃除、断捨離みたいなことだな

今回の仮説ですごいかもしれないのは、
このとき出されたガラクタを、どうリサイクルしようかと考えるのでなく、
磁石のように組み合わさって、意味ありげな何かに勝手に化ける・・・・・・ことである。

脳はおそらく(これも仮説というか、どっかの本に書かれているか確認してないが)、全く意味を成さないものをつくることは逆にできない。

例えば、何かの絵を描こうとするとき、本当に何にも意味の無い絵は描けるだろうか?
気持ち悪くてできないのではないか。
あるいは、必ず、なにかっぽい(似ている)何か、になってしまうのでは?

画用紙に適当に絵を描いてみよう。
グチャグチャっと意味ないものを書いたと思っても、そこには丸とかジグザグとかのモチーフが含まれてしまうのではないか?

また、その書き出されたものを見たとき、何らかの意味を見いだそうとしてしまう、ということが無意識に起こるのではないか。
創るサイドに居ても、見るサイドにいても、自然と何かの意味を付加してしまうのではないか。

つまり、意味の無いものを創造することはできないのである。
意味ないものの創造は、創造していないのと同じなので、原理的に成り立たない。創造した時点で何かの意味になってしまうわけだ。

そして人間は絶対に世界を経験しているのであって、なにも創造されていない世界は知らない。
「我思う故に我あり」ではないが、必ず自己を経験している時点で、全ての事物に意味があることになってしまうのだから。

これ以上の深淵を覗くと頭がおかしくなりそうなのでやめておくが、モーニングページに書き出されることはいくら適当とはいえ、意味を含む文章なのだ。ということが言いたい。


くぁwせdrftgyふじこlp
みたいな意味のない文字列を、ひたすら書いてもモーニングページを書いたことにならないし。
というか、くぁwせdrftgyふじこlpですら、この無意味な文字列に意味がもたらされてしまっているし。
なにも意味しない事を書くことは不可能である。
bnjzksl]:prt 
↑ これはテキトーに打ったが、
これなら意味ないじゃん、書けるじゃん、と思っても、これも違う。
これはなにも書いていない・・・・・・・・・。文字を打っただけであって、なにも書いていないのだ。

だから、モーニングページに書かれる何かは、必ず意味がある。
それが絵柄だとしても、工作だとしても、同じである。

従って、そこに書かれた何かしらが組み合わさって、新しいアイディアになることは、脳の機能として自然なのである。

それを意味ある情報としてキャッチするかどうかが問題である。
キャッチするとは、脇に置いた籠にイモを収穫しておく作業である。

かく言うこの「仮説」も、モーニングページから生まれたアイディアである。
決して頑張って思考してここにたどりついたわけではない。
むしろ、なにも考えていないところ・・・・・・・・・・・・から出てきた考えだ。

無論、パターン認識で連想されただけの説であるから、これが全く的外れな妄想の可能性は高いし、とっくにこんな事は証明されて論文になっている可能性もある(調べてないっす)。

しかし、「無意味なものを創造することは不可能である」の部分はけっこういい線いくんじゃないか、と密かに期待している。

まあ、この記事そのものが無意味だよ・・・・・という指摘はさておいて、モーニングページが何かしらのアイディアを生み出す助けになることは確かであろう。

もしかしたら、クリエイティブな何かは、そこから生まれるかもしれない。


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野生のはしも
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