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ドラマ「御上先生」のガチ産業医的感想〜The personal is politicalに焦点を当てて〜(ネタバレあり)

はじめに

自己紹介
私は、働く人の健康の専門家である「産業医」をしています。高血圧や糖尿病、がん、メンタルヘルス、じん肺などの働く人がかかる病気全てが産業医の専門領域になります。また、働く環境(職場環境)によって働く人たちにはさまざまな病気が引き起こされますので、働く環境からアプローチすることで、働く人たちの病気を「予防」することが産業医の使命です。

また、「産業医学」は「社会医学」の一つであり、社会という環境がどのような健康影響をもたらすのか、ということも専門としています。「公衆衛生」とも言います。

人の健康は、遺伝や体質といった生まれ持った要因以外にも、社会環境や働く環境からも大きな影響を受けますので、人々がより健康的な生活を送るために、社会環境や働く環境をより良くして必要があります。私たち産業医学・社会医学・公衆衛生の専門家は、どうすれば人が健康的に生きられるのかを研究しています。

人の健康は働く環境や社会環境の影響を大きく受ける

ドラマ「御上先生」の考察

"The personal is political"

本ドラマの大きなテーマである"The personal is political"という言葉は、私も本作で初めて聞いた言葉でした。この言葉に強く興味をもち産業医学、社会医学的に考察することにしました。

本考察はネタバレを一部含みますので、まだドラマを観ていない方はこの先には進まないでください。


1. 「The personal is political」とは

「The personal is political(個人的なことは政治的なことである)」は、1960〜70年代のフェミニズム運動(性差別をなくし、男女が平等な権利を持つ社会の実現を目指す運動)で生まれた考え方です。これは、家庭や職場での男女の不平等が個人の問題ではなく、社会全体の仕組みによるものだと指摘するものです。たとえば、女性が育児や家事を担う割合が男性よりも高いのは、個人の選択ではなく社会の法律や文化が強く影響しています。家庭や企業ごとに話し合って解決するような話ではなく、社会全体で話し合って法律を変えるような「政治的な方法で解決」しなければならないわけです。

現代における応用
この考え方は、今では労働問題や健康格差、ジェンダー、貧困などのさまざまな分野でも適用することができます。特に、私の専門分野である健康の領域においても、健康と社会的な要因の関連が多く報告されています。


2. 「個人の健康問題」は「政治の問題」である

個人の健康は、労働環境、社会保障、医療制度などの影響を強く受けます。例えば、過重労働が原因で心身の不調をきたす人が増えれば、それは労働政策の問題であり、企業の働き方改革や法制度の見直しが求められます。また、医療へのアクセスや健康格差も、経済的・社会的な背景と深く関わっています。低所得層ほど生活習慣病のリスクが高く、適切な医療を受けられないケースが多いのは、政策や社会構造の影響にほかなりません。

最近話題になっている「高額療養費制度の上限額の引き上げ」によっても、患者さんが受けられる治療が変わってしまう可能性があり、個人の健康問題が政治的な問題であることを表す典型的な事例です。個人的には、政治が国民の健康を悪化させうる悪法だと私は思います。

健康問題を「個人の責任」として片付けるのではなく、社会全体で支える仕組みをつくることが重要です。「個人の健康」は「政治の問題」であり、政策や制度によってより良くしていくものだと言えます。


ここで、関連する概念としてSDHを紹介します。

SDH(健康の社会的決定要因)

SDH(Social Determinants of Health)とは、健康が経済状況や仕事、住む場所、医療制度などの社会的な要因によって決まるという考え方です。

SDHとは、病気の背景には生物学的な要因だけではなく、社会的要因(教育・就業・生活環境・社会環境など)が存在するということを示す言葉です。

実際、SDHが人々の健康にどのくらい影響するのか、米国のデータを分析した研究では、医療が健康に影響した例は20%に過ぎず、収入・教育・雇用・家族や社会の支え・地域の安全が影響した例は40%、健康に影響する生活習慣は30%、環境因子(上水・大気の質、気候変動など)は10%でした。
食生活や運動習慣、喫煙、飲酒などの生活習慣は、生まれ育った環境や生活状況で成されます。こうした環境が、私たちの健康に大きく影響していることがわかる研究報告です。

https://www.doctor-vision.com/column/knowledge/sdh.phpより(一部略・改変)

たとえば、

  • お金がないことで病院に行けず病気が悪化する

  • 教育を受けられなかったことで危険な仕事に就かざるえない

  • 空気が汚れていることで肺の病気になる

https://www.healthliteracy.jp/senmon/post_29.html

健康の問題は、個人が自分自身で決めているように見えるかもしれませんが、そうではなく、その人の環境によって狭められた選択肢の中から決めているにすぎず、その環境は、社会(政治)の仕組みによって大きく左右されているのです。

環境によって健康の問題を抱える人がいる一方で、逆もまたしかりで、環境によって何不自由なく過ごせる人もいます。

本ドラマの隣徳学院に出てくる生徒たちは、比較的裕福な家庭で育っているようです(一部の生徒は複雑な環境にあるようですが)。彼・彼女らが、質の高い教育を受け、自由に進路を選択できること自体が、その家庭環境によるところが非常に大きいと言えます。

御上先生は生徒に問います。

「君たち、自分のことエリートだと思っている?」

御上先生は、生徒を「エリート=神に選ばれた人」「未来の上級国民予備軍」と呼びますが、それは彼らの努力の賜物なのか、はたまた生まれ育った環境によるものなのでしょうか。



3. 「世代間で連鎖する健康問題」を食い止めるのは「政治」である

ACEs(Adverse Childhood Experiences:逆境的小児期体験)という言葉をご存知でしょうか?

ACEsとは、幼少期に経験するトラウマ的な出来事のことで、具体的には以下のようなものが含まれます。
 ・虐待やネグレクト(身体的・性的・心理的)
 ・家庭の機能不全(親のDV、精神疾患、薬物乱用、家庭内の犯罪、親の離婚・別居など)

ACEsを経験した人は、成人後の健康リスク(精神疾患、心疾患、肥満、依存症など)や社会的問題(学業成績の低下、犯罪関与、貧困など)のリスクが高まることが研究で示されています。

また、ACEsは、個人の健康や社会的機能に長期的な影響を与えるだけでなく、世代間で連鎖する可能性があり、ACEsを経験した親が子どもに対して過度に厳しくなったり、逆に無関心になったりすることがあります。また、ACEsを経験した人は、学業の達成度が低く、安定した職に就くことが難しくなることがあります。これにより、経済的困難が持続し、子どもが十分な教育や医療を受けられない環境で育つ可能性が高まります。貧困や社会的孤立といった要因は、さらなるACEsの発生を促し、健康格差を拡大させます。

ACEsとThe personal is political

ACEsの連鎖を食い止めるためには、親と子の個人レベルへの介入が必要ですが、それだけでは不十分です。まさに「The personal is political(個人的なことは政治的なことである)」であり、個人レベルへの対応だけでなく、社会全体での対応が必要であり、つまり政治的な問題です。

無敵の人」という言葉がありますが、無敵の人を生むのはそれぞれの家庭ではなく社会です。各家庭の問題という自己責任論で片付けず、政治の問題として捉え、政治が解決していくという認識が必要なのだと思います。

無敵の人(むてきのひと)とは、社会的に失うものが何も無いために、犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するインターネットスラング

本ドラマ中においても、家庭内の問題が社会問題を引き起こしている描写があります。冴島悠子と真山弓弦の家族や、冴島悠子と渋谷友介の家族はDVや離婚といった背景があり、事件を引き起こした一因として描かれています。また、御上先生のクラスでは、生徒の多くが両親の影響をプラスにもマイナスにも受けていることが描かれています。つい私たちは、個人の問題や家庭の問題であると捉えたくなりますが、そうではなく、政治の問題であることを投げかけているのではないでしょうか?


4. 「働く人の健康問題」も「政治の問題」である

働く人の健康問題もまた、個人の努力だけでは解決できないことが多く存在します。

過労死

例えば、働きすぎによって労働者が亡くなってしまう問題(過労死・過労自死)は労働者の「自己管理不足」ではなく社会の問題です。働きすぎによる健康問題は、働かせても罰せられない社会の問題です。本来、人間はそんな働き続けられるようにできていません。だからこそ、労働時間(残業時間)を法律(労働基準法や労働安全衛生法)で規制しなければいけませんし、それを企業に遵守させなければなりません。それは全て政治の問題です。

アスベスト

例えば、アスベスト(石綿)は長年にわたり建設業や製造業で使用され、多くの労働者が吸入した結果、中皮腫や肺がんなどの極めて深刻な健康被害を起こしました。しかし、これらの被害はすぐには現れず、数十年後に発症するため、長期間見過ごされてきました。1970年〜1980年にはアスベストの健康影響が判明し、諸外国でアスベストの輸入や製造、作業が禁止されましたが、日本では10-20年遅れて1995年のに輸入・製造・使用が禁止されました。この政治的は決定までの間に健康被害を受けた労働者は数え切れません。なお、アスベストを未だに禁止していない国もあり、健康被害を生み出し続けています。

ジェンダー

The personal is political」の始まりであるフェミニズム運動が示すように、働く男女においてもジェンダー(社会的な性)による健康問題も起きています。女性は、職場のセクシャルハラスメント被害や低賃金・非正規雇用が起きていますし、一方で、男性も長時間労働や自殺が多く起きています。これらは、個人や企業のレベルで解決できるものではなく、男尊女卑や家父長制、ジェンダーロール・ジェンダーバイスを助長するような社会制度が根底にあります。

このように、「働く人の健康問題」は決して個人の問題ではなく、社会全体で取り組むべき課題であり「政治の問題」です。労働者が安心して働ける環境を整えることは、健康な社会を築くことにもつながります。



4. 「The personal is political」を活かして、よりよい働き方をするには

◻︎ 健康を個人の問題にせず、社会の問題として考える
◻︎ 人の健康を守るために、社会の制度を変える
◻︎ 一人一人の政治への主体的参加

「The personal is political」という視点を持つことで、働く人の健康や働き方をよりよくする方法を社会全体で考えることができるのではないかと思います。

Take Home Message
健康問題を自己責任論で片付けない
政治に参加し、社会の仕組みを変えていかなければならない


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