地方の産業保健の特徴と傾向
私は、いくつかの地方都市や東京などの全国数カ所で産業医活動を行ってきました。特に地元である某地方都市が長かったのですが、それらの経験の中で、地方の産業保健は、都会とは異なり、独特のものがあると感じました。これは多かれ少なかれ地方では共通する部分が多いように思います。それらを知ったからといって、もはやそれは構造的なものなので大きく変えることはできないのですが、知っておくことは覚悟感や心の準備感としては役に立つと思います。特に、地方の産業保健独特の難しさとしての企業を変える、動かすことの至難さは、本社のそれとは全く別物なのです。「のれんに腕押し」、「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」、地方で何を叫んだって意味がないことがあるのだ、という前提を押さえておいてください(もちろん、これらは、かなり言い過ぎなのですが、そのくらいの期待感でもいいのかなと思っています。地方の産業保健独特の難しさがあるのです)。
中小企業の産業保健や、分散型事業所の産業保健という話はまあよくあるのですが、地方の産業保健という話は、ほとんど世の中に出てくるような話ではないのですが、他の産業保健職と話すときには、相手の話を理解しやすくなるかもしれませんし、飲み会のネタ的にも面白いかもしれませんね。地方の産業保健をぜひネタにして広めていただければ幸いです泣笑。
地方の産業保健職だからこそ見える景色があるのです泣
都会の人たちにはこの大変さがわかっていないのです泣
この記事を読む際の注意
1. 都会と地方とでくっきり分けられるものではありません。いわば、本社と支社として分けた方がしっくりくる地域もあるかもしれません。
2. あくまで傾向であって、くっきりと分けられるものではありません。あえて、かなり極端に表現してます。
3. あくまで個人の印象です。
4. 地方をディスる気はありません。
安全衛生活動・事業活動の特徴
人事担当者が不在
地方の事業所には、間接部門(バックオフィス部門)は、最低限の人員しかいません。なので、人事担当者なる者がいません。良くて、人事総務担当者です。総務部門にまとめられており、総務、庶務、衛生、安全、人事をまとめて兼務しています。そして、人事機能があったとしても、私たちが想像するような人事権は持っていないこともあります。人事権は、現場の上司や、本社にあります。
産業保健職的には、復職面談のような場面で、人事担当者に同席してもらうことができません。一応、人事担当者的な人は、しばしばいるのですが、人事考課や労務管理にはほとんどタッチしていません。そして、復職の仕組みもほとんど理解していません。産業医の連絡担当者が派遣社員ということもあります。人事機能云々以前の問題です。また、本社に人事機能があるため、支社側から復職の仕組みを構築しようとしても極めて困難です。就業規則をいじるなんて不可能です。最近では、本社の人事の偉い人がオンラインで対応してくれることもあるのですが、地方から何を言っても聞く耳を持ってくれないことがほとんどでしょう。地方から何かを変えようなんて、土台無理な話なのです。
安全担当者が不在
地方の事業所には、間接部門(バックオフィス部門)は、最低限の人員しかいません。なので、やはり安全担当者なる者もいません。安全部門は、到底プロフィット部門(利益を出す部門)ではありませんし、優先順位は2の次3の次です。ごちゃっとまとめられた総務部門に、衛生管理者を持ってる人はいても、安全担当者はいないことすらありえます。(製造部門があればさすがに安全担当者はいますが、多くの場合は兼任ですし、現場を離れた方だったりします)
産業保健職的には、安全上の懸念があったとしても、それを分かってくれる方、理解者がいないのです。訴え先もなかったりします。孤軍奮闘もいいとこです。本社に言ってもなしのつぶてです。安全は軽視されがちで、ただのコストなのですから。
安全衛生活動が本社指示
地方では、安全衛生活動は低調になりがちです。なぜなら、前述のように担当者が不在であり、活動を主体的に気概をもって進めようとする方がいないからです。地方事業所で安全の予算も持っていません。その結果、安全衛生活動は、本社の指示通り、指示待ちになります。本社の安全衛生委員会の議事録を回して読むだけ、ということもあります。何か現場で改善していこうという動きにはならないのです。
産業医は法令遵守のために選任する
前述のような流れからは容易に察せられると思いますが、産業医を意図的に、明確な目的をもって、大きな期待を込めて選任することは起きにくいでしょう。盲目的に、法令で決まってるから選任しているのです。産業医が何者か、何をしてくれるのかなど、誰も説明できません。それが地方の産業医活動のスタートです。
産業医活動がルーチンになりがち
地方拠点は、産業医活動の多彩性に欠けます。健診判定、面談、衛生委員会、職場巡視という活動を毎月行うだけで、大きく活動が進むということはほぼ起きません。本社のようなダイナミックさはないんですよね。健康施策を企画したり、経営層とコミュニケーションする機会もなく、ただ本社からの指示通りに活動を遂行することななります。産業医としても、やりがいや醍醐味を感じにくかったりします。
コストがかけられない
産業医として現場の改善をいくら叫ぼうとも、地方の事業所には予算軽減はありません。一万円だって拠出するのは難しいのです。うちにはそんなお金は…、と一蹴されます。
事業所長が数年で変わる
地方拠点は事業所長が数年で変わります。数年で変わるということは、大きな変化を嫌うことや、失点は避けたがられること、得点にならない安全衛生活動には関与されないことがあげられます。休職者対応なんかにも興味が持たれません。短い任期では、いかに利益をあげるか、分かりやすい実績をあげるかが支店長の役割です。
上司が遠方
地方事業所で働く従業員の上司が東京などの都市部にいることもしばしばあります。そして、そんなしょっちゅうは地方には来ません。その結果、従業員に対するラインケアが機能しないこともあります。なので、労務管理を誰がするのか、体調確認を誰がするのか問題になりがちなんですよね。
通勤が車しかない
通勤が電車、ましてや満員電車というのは都市圏のみの話です。地方ではみんな車です、というのはかなり話として盛ってますが、車通勤の人が多くいるのが地方拠点です。そのため、眠気がある人の通勤を許可していいのか問題がしばしば起きます。運転できなければ、通勤が2倍以上の時間がかかる、もしくは事業所に辿り着けないこともありますので、安全に運転して通勤できるかどうかが死活問題になります。それと、時差出勤の話は満員電車への懸念ではなく、渋滞を避けるためということになります。従業員全員が自動車通勤の場合は、行き帰りに渋滞が発生することもあるんですよね。
除雪作業が冬の運動習慣になる
北国・雪国の場合には、除雪作業の話がけっこうよく出てきます。ジョセササイズ・除雪サイズ(Joce-Xercise)とも言うらしいです笑
前述のような通勤手段が車しかない場合には、特に、冬の運転問題が死活問題になります。
テレワークできない
テレワークの話は地方ではほとんど出ません。あれは都市部の話です。コロナが終われば、またリアル出勤になる気もします。そもそも、地方はそんな通勤時間も長くないですからね。また、コワーキングスペースが圧倒的に少なくテレワークは不向きです。
※かなり大げさに言ってます。
兼業農家がけっこういる
面談していると、兼業農家がけっこういます。先祖代々の土地を持っていて、土日には田畑を耕していたりします。平日は勤務、土日は農業・・・。いつ休む暇があるのでしょうか。趣味の延長なのかもしれませんが、農機具ってかなり高価で、借金しながら買うらしんですよね。何か大きな利益を出すためにやっているわけではなく、あくまで自分たちが食べる分くらいだったりするみたいですね。面談していると、米や野菜などの収穫物をくれたりします。いつもありがとうございます。ご馳走様です。
リワーク施設がない
都市部にはけっこう多いリワーク施設(医療リワーク、民間リワーク)が地方にはほとんど全くありません。障害者職業センターはあるんですが、それ以外の選択肢がないんですよね。それと、ついでに言えば、公務員は、障害者職業センターは利用できないんですよね。
支店経済
地方都市の産業保健活動とは、つまるところ、支店産業保健とも言い換えることができます。支店とは、地方拠点、支局/支部/支署/分店/ブランチなど様々な言い方があります。本社と支店は異なります。前述のような人的リソースも全く異なりますし、意思決定プロセスも異なります。支店経済という言葉は、それを端的に伝えてくれる言葉だと思います。
小規模分散型が多い
支店の時点で、分散型の事業所なのですが、さらにそこから分散している場合もあります。本社のように一つの事業所で1000人ということではなく、地方の分散型事業所全体の従業員数に対して、産業保健職が割り当てられるようになります。
分散型事業場とその対策
https://www.johas.go.jp/Portals/0/data0/sanpo/sanpo21/pdf/108_p14-17.pdf
従業員の喫煙率が高い
都会と地方で学歴・教育歴に差があるというのは大袈裟すぎますが、ある意味では正しいように思います。そして、喫煙率も高かったりします。また、従業員の権利意識が都会に比べれば低いこともあるように思います(というか都会は権利意識が高い方が多いと言えるのかもしれません。権利意識が高いから悪いということではないのですが、重要な特徴の一つではあると思います)
上昇志向がない
この項も非常に大袈裟な言い方ですが、地方に残っている人と、都会に出た人では、モノの考え方が違うようにも思います。地元に残っている人と、大学から都会に出ている人では、企業の中で上昇志向(出世意欲)が異なります。いわば、地方公務員と国家公務員の違いとでも言えばいいのでしょうか。
企業に対するコミットメントは、逆に地方の方が選択肢がないため、執着する人もいたりするようにも思います。当該地域ではその企業が一番の大手のため、辞めると給料がガクッと下がるみたいなところもありますしね。
*あくまで個人的な印象であり、傾向ですので、当てはまらない人も多いことをご理解ください。
総務の下に産業保健職がつけられる
産業保健職が、組織において総務部門の下につけられることも地方では多いのかもしれません。人事権がなかったり、他部門との連携をしていなかったり、個人情報扱いに慣れてなかったりと、総務部門の下につけられることによる弊害があります。孤独な産業保健職にとって、相談相手になってくれるはずの上司が、ほとんど産業保健に理解がないと、けっこう辛いんですよね。いや、けっこうどころか、かなり辛いようです。どれだけ説明を尽くしても話が通じないということもあります。いまだに、健康経営ってなにそれ?産業医ってなにする人?という方もいるんだとか。
面談スペースがない、個人情報管理が難しい
狭い地方の拠点事業所では、産業保健職のための部屋や面談スペースがないことも多いです。デスクは総務の島に置かれたり、健康診断結果を保管するための鍵付きのキャビネットがなかったりと、活動がもろもろやりにくいんですよね。これもそれも、産業保健活動に対する理解のなさが根っこにあったりします。つらたんです。
期待値が低い
産業保健職に対して期待値が低いこともしばしばあります。本社の方針で配置されたが、そもそも産業保健職に何をお願いしてよいか分からないということもありますからね。従業員数が少ないと、純粋な産業保健活動の業務量が少ないこともあったりで、庶務的な業務を担わせられることもあります。
産業保健領域の特徴
専属産業医が少ない
産業が集積している太平洋ベルト上には、比較的地方であっても工場があるためいいのですが、それ以外の地域では、1000人を超えるような大企業がないため、専属産業医がいないんですよね。専属産業医のポストが圧倒的に少ないんです。県によっては、専属産業医を必要とする企業が2社しかないところもあるんだとか。
産業衛生指導医が少ない
がく先生(@ohpforsme)のツイート画像からです。指導医が5人未満の地域が本当に多いですよね。指導医がいないわけですから、こういう地域は、次の産業医も育ちにくいんですよね。産業医がいないということは、結果的に産業看護職も育ちにくくなります。太平洋ベルトや、京浜・中京・阪神・北九州にある工業地帯(「四大工業地帯」)にやはり産業があり、そこに産業医が多く生息しているんですよね。(最近では四大ではなく三大工業地帯というらしいですが)。
お医者様扱い
地方では、まだまだ産業医のことをお医者様扱いされることが多いように思います。都会よりも地方でその傾向が強いのではないかと思います。あくまで、筆者の個人的な印象ですが、医者が少ない地域と、多い地域では扱いも違うように思います。
産業保健職の勉強会が少ない
産業保健職が少ないのですから、勉強会が少ない、学ぶ機会が少ないということも往々にしてあります。産業保健総合支援センターのセミナーしかないという声も聞かれます。一部の勉強会は開かれていても、なかなか辿り着けない場合もあると思います。日本産業衛生学会の地方会もあるのでしょうが、実際には学会には参加していない方も多いので、地方会にはそういう人は出てこないんですよね。周りに学ぶ意欲が高い人が少なければ、モチベーションが地域全体的に低調になりがちです。
産業保健職のネットワークがない
産業保健職のネットワークがない(or少ない)ということも地方の特徴です。学ぶ機会が少ないのみならず、キャリアの相談ができないこと、モチベーションを維持できない、向上心が育たないということもあるように思います。ガラスの天井みたいな頭打ち感が地方にあるのは、ネットワークの有無にも関わっているように思います。
熱い産業保健職が少ない
産業保健を専門とする方や産業衛生専門医・指導医、産業保健変態のような方、産業保健をメインで仕事している方が少ないです。熱いコアな人材がとても重要だと思うのですが…
産業保健職の人材が採用できない、リプレースできない
産業医が少ない地域では、産業医を替えようとしても替えがいないという状況に陥りがちです。そのため、あまり産業保健活動を理解していないような方は、比較的お年を召した方がやっているという場合もあります。しかし、不満があっても、替えがいなければ、法律で選任が決まっている以上は辞めてもらうわけにもいかないでしょうしね。
産業看護職を雇おうとしても、なかなか良い人材を採用できないという話もよく聞きます。応募はくるが、ほとんど産業保健経験がない人ばかりのようです。産業保健ポストが地方で少ないのだから当たり前と言えば当たり前なのですが・・・
産業保健ポストが少ない・空かない
規模の大きい企業が少ないわけですから、当然に産業保健ポストが少ないですし、なかなかポストが空かないという話も地方あるあるです。よくも悪くも、産業保健でポストを得るとそれなりに居心地がよく他にうつろうとはならないですよね。特に、他のポストにうつったから給料が増えるわけではなければ。人材流動性が低く、一つの企業に居着いてしまうことは、産業保健人材全体の流れとしてはあまりよくないと思うのですが、地方ではこの流れが淀んでしまう気がします。
産業保健ポストが安い・高給が少ない
産業保健職のポストがあったとしては、安いポストが多いのも地方産業保健の難しいところです。給料面でのキャリアアップを図ることが非常に難しいことは、スキルアップのモチベーションの維持も難しくなります。薄給では自分に投資する意欲も下がりますしね。また、その地域においてリーダーシップをとる産業保健職が出現しにくくなるということもあります。給料だけではないのですが、やはり大手で安定している方の方が、リーダーシップはとりやすいのだと思います。
転職がしにくい
地方は産業保健職の人材やポストが少ないことがあり、なかなか転職が難しいという事情があります。狭い世界ですしね。隣の企業の情報もすぐに伝わってしまいます。転職活動で動こうものなら、面接官は知り合いだったりします。企業と喧嘩別れしたら、次の転職にも影響が出るかもしれません(実際には出ないかもしれませんが・・・)。円満退職だったらいいのですが、実際には毎回そんな円満にはならないですよね。
本社の産業保健職と理解に差が出る
これまでに説明してきたような「地方の産業保健」と「都会の産業保健」は異なるのだ、ということの理解について、地方と都会の産業保健職の間でギャップが出ることがあります。なので、ちょいちょい話が噛み合わないことがあります。説明しても、やはりこれは地方で産業保健をやったことがないと肌で理解するのは難しいでしょうね。
最後に
地方の産業保健の特徴を説明してみましたが、いかがだったでしょうか?しつこくて恐縮ですが、あくまで個人の感想ですし、あくまで傾向にすぎないということに留意してください。
また、この記事は良くも悪くも地方の産業保健を記述しましたが、産業保健活動はときに無限大です。これらの特徴や傾向を分かった上で、何ができるかは産業保健職次第です。やり方によっては、地方であっても産業保健活動を進めることはできるでしょう。倦まず弛まず、粘り強くやっていきましょう。
おまけ1
当時は、地方の産業保健を盛り上げようとしていたのですが、いろいろと紆余曲折がありまして・・・
おまけ2
地方での産業保健を経験したからこそ、産業保健オンラインコミュニティ(COEDOH)を設立し、いかにして地方の孤独な産業保健職を盛り上げるかということにライフワークとして取り組んでいます。
おまけ3
過去に、「産業保健職の学びの機会格差」という記事を寄稿したことがあります。それをこの記事向けにリライトしました。
はじめに
産業保健職の「学びの機会」には格差がある。
これは私が地元の某地方都市に戻って産業保健職と交流する中で強く思ったことである。その格差とは,産業保健職が受けられる専門職の教育機会には大都市と小規模都市とで大きな差があるということである。その結果として、専門職としての成長の差が生まれうる。産業保健業界を見渡したときに、果たしてそのような状況でよいのだろうか。働き方改革やコロナ禍といった大きな社会変革が進んでいる中だからこそ、本稿では、この産業保健職の学びの機会格差とその改善の方向について考えたい。
産業保健職の学びの機会格差の問題点
たしかに、多くの産業保健職は体系的な医学教育を受けているし、専門職の学術学会の専門家制度や種々の民間資格も存在し、学ぶためのステップは整備されつつあるように思う。また、地方でも各地の産業保健総合支援センターや医師会などが定期的に研修会を実施しており、学びの場は多くある。しかし、全国津々浦々の産業保健職を見渡したときに、そこには環境による大きな学びの機会格差があり、学ぶ機会に乏しい者も多いのではないだろうか。地方によってはセミナーが非常に少ない。時間的に余裕がない者や,経済的に余裕がない者、地理的に難しい者、さらには人的ネットワークを持てない者もいる。それらの結果として、専門職として成長できる人はどんどん
成長していけるし、成長できない人は一向に成長できない。もちろんこれは、本人の学習意欲や向上心に依るところも大きい。しかし、職業倫理上[1]も専門性を維持・向上することが産業保健職には求められる中、産業保健業界を見渡したときに、果たしてそのような限られた者だけが成長しやすい状況で良いのだろうか。業界全体として裾野広くボトムアップしていかなければいけないのではないだろうか。
産業保健職の学びの機会格差の何が問題なのだろうか。一つには,専門職人材の偏在であり、地方・中小零細企業の労働安全衛生活動への影響である。日本産業衛生学会からの提言[2]にもある通り、地方および中小企業への産業保健サービスの提供はまだ十分ではなく、現状として、学びの資源が潤沢な大都市・大企業に産業保健専門人材が偏在化している。地方・中小零
細企業への産業保健サービスの提供はわが国の健康政策の本流として考えるべき課題であり、その課題に応える産業保健人材を提供するべく、より裾野を広く学びの場が構築される必要があるだろう。
また一つには、学びの機会格差がもたらしているのは産業保健専門職人材の質・量の問題であり,社会の要請に応える人材を質的にも量的にも十分に提供できていないことである[3].産業保健職は、まだ社会からは存在や役割が十分に認知されていない中で、すでに「ブラック産業医」という怪しいワードすら世間に出てきている[4]。こうした悪評がSNSなどを介して次々に広がってしまい,悪貨が良貨を駆逐するかのように,産業保健職の社会からの信頼が失墜してしまってはならない。
つまり、産業保健の学びの機会格差は、人材の偏在化を促し,人材の質・量の発展を阻害し、社会にもネガティブに作用している可能性があると言える。
学びの機会格差が生まれうる構造的な問題
産業保健業界全体においていくつかの構造的な問題があり、学びの機会格差が生まれうる素地がある。それは,①専門人材の不在・不足,②孤独がデフォルト,③家庭の事情である。
① 専門人材の不在・不足
一口に「地方」と言っても、地域によっては、古くから産業が発展し,企業城下町が形成され、専属産業医が選任される大規模事業所が多く存在するエリアもある。その一方で,専属産業医を含む産業保健専門職がほとんどいないため、キャリアモデルや地域をリードするコアとなる産業保健職がいない,もしくは極端に少ないエリアもある。後者ではセミナーの開催も少なく、ネットワークが形成されにくく、自ずと学びの機会も少なくなる.
② 孤独がデフォルト
企業内に産業保健職が多くいるということは少なく,ほとんどの場合でごく少人数であろう。そして、多くの産業保健職は指導体制・相談体制のある環境下にはなく、孤軍奮闘する形になる。いわば、孤独がデフォルトとも言える状況にある。そして,これは小規模事業の多い地方に行くほど顕著になる(筆者の住む仙台は「支店経済都市」と呼ばれ、大企業の支店・支所
が多い都市であるため,政令指定都市でありながらも,産業保健職が1 人という事業所も多い)。
③ 家庭の事情
これは産業保健業界のみならず、どの業界でも言えることだが、出産や育児、介護などの家庭の事情で学びの機会が失われているケースは多く、そしてこれは特に女性にその傾向が強いことは論を待たない。前述のように職場に学びの資源がない場合は(多くの企業には職場内に学びの資源はない)、社外資源をあてにせざるを得ないが、家庭の事情はこれを阻む。これは『男は仕事、女は家庭』のような古い概念の延長でもある。家庭の事情を抱える期間はスキルアップやキャリアアップが望めないというのは、業界的にも大きな損失である(個人的な見解ではあるが、産業看護職のかなりの大部分は女性であり,家庭の事情の影響を受けやすい女性にとって、学びやすい環境はまだ十分に形成されていないと思われる)。
まとめると、産業保健職の「学びの機会格差」の課題は、地方や小規模事業場では学びの機会が社内外で得られにくく、また、ネットワークが形成できず、家庭の事情があるとさらにそれらが顕著になるということである.
コロナ禍がもたらした変化
2020年のコロナ禍で、リアルで行う学会・研修会は軒並み中止となった。その代わりに一気に拡大したのがオンラインによる学びの場の形成であった。この変化は,これまでの学会や研修会のあり方を一気に変えた。北海道旭川市で開催予定だった第93回日本産業衛生学会もオンラインでの開催となり、自宅や職場での視聴参加となったが,参加された皆さんはどう感じただろうか。学会のオンライン開催は、(筆者の周囲だけかもしれないが)おおむね好評な受け止め方をした方が多かった。それは、「業務の隙間で参加できる」、「育児や介護中でも参加できる」、「同じ時間帯で聴けなかったセッションに参加できる」といったものであった。そしてこれらは,これまで学びの機会を阻害していた構造的な問題を打開するものであったように感じた。
2024年現在となっては、リアル参加の学会がまた増加しているが、やはりオンラインでの学びは存続すると思われる。
学術学会が主導するオンラインの学び
日本循環器学会では、2019年学術集会からTwitter(X) を活用して参加者たちのコミュニケーションの活性化を図った。2020年のコロナ禍において開催された第84回日本循環器学会学術集会では、ほとんどのセッションをライブ配信あるいはオンデマンド配信とし、主要セッションスライドのダウンロードサービスを可能にした。さらにTwitter(X) を活用し,全国の専門家が広くディスカッションを行っていた。実際に開催前後の約1 週間で、18,000ツイート以上が学会ハッシュタグで投稿された。もちろん、こういった取り組みはそのまま他の学術学会が行うべきというものではないが、取り入れられる点は多い。学術学会の使命を考えれば、全国にいる学会員や専門職の学びを促進することは、優先的に検討するべき課題だと思われる.
産業保健職の学びのネットワーク
ここまで、構造的な問題もあり、産業保健業界において学びの機会格差が生じること、学びの機会格差による問題点、そして、コロナ禍がもたらしたオンラインによる学び方の変化について論じてきた。
では、今後具体的にどんな取り組みができるのだろうか。例えば、学会や研修会のオンライン参加の導入や、動画のアーカイブ化、E-ラーニングの充実といったことであろう。また、単に講話の一方的な配信のみならず、双方向的・アクティブラーニング的な設計にすることや、SNSやチャットツールなどによって専門職同士のディスカッションの場を設けていくことも有効である。また,日本産業衛生学会のダイバーシティ推進委員会でも議論されているが、子育て世代の学会参加を促すための託児所の設置や,遠方開催時のサテライト会場の設置といった取り組みも重要であろう.もちろんテーマによってはクローズなコミュニティの方が話しやすいことはあるだろうが,開かれた方式もハイブリッドで実施するなどの工夫で,育児中,地方在住,ネットワークがないなどさまざまな背景を持つ専門職たちが参加・利用しや
すい設計が望まれる。
オンラインの学びの機会の紹介
オンラインによって学びの機会としては,産業医向けの「産業医アドバンスト研修会」が2019年にスタートし,インターネット配信の学習コンテンツや交流の場が提供されている.
なお,筆者は毎月のオンライン勉強会・抄読会・読書会といった複数の取り組みをコロナ前から全国各地の有志で行っていた。また、Facebook やTwitter でも情報発信・情報共有を行うとともに、2020年8 月からは産業保
健職向けのオンラインでの勉強会のコミュニティを立ち上げた。
地方にいるからこそ、学びの場を自ら作っていくとともに、学びの場を業界全体で共有できるようにしていきたい。
最後に
コロナ禍において、職場の感染対策や事業継続に関する助言を行なった産業保健職の社会的意義はさらに高まったと思う。われわれは,社会からのさらなる期待に応え続ける必要がある。だからこそ、産業保健業界全体で、学びの機会格差について課題意識を持ち、このコロナ禍をきっかけにして、より学びやすい業界となることを切に願う。
参考資料
1 ) 日本産業衛生学会.産業保健専門職の倫理指針(平成12年4 月25日).
2 ) 日本産業衛生学会 政策法制度委員会・中小企業安全衛生研究会世話人会.中小企業・小規模事業場で働く人々の健康と安全を守るために─行政,関係各機関,各専門職に向けての提言(2024年8 月).
https://www.sanei.or.jp/files/topics/recommendation/teigen_OHPRC202408.pdf
3 ) 厚生労働省 労働政策審議会安全衛生分科会.現行の産業医制度の概要等(平成29年6 月1 日).https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12602000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Roudouseisakutantou/0000164723.pdf
4 ) 弁護士ドットコムニュース.「ブラック産業医が復職阻止,クビ切りビジネスをしている」弁護士が警鐘(2017年4 月13日).
おまけの資料
中小企業における産業医業務
https://www.mhlw.go.jp/content/11201250/001010934.pdf