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銀河鉄道の夜、宮沢賢治がわからない。

「銀河鉄道の夜」を読んだのは何度目だろう。

年を重ねるたびに、ときおり確かめてみるのだが、今回もまたダメだった。相変わらず読みにくいし読み取れない。

あらすじは既に理解しているつもりだ。

父親は漁から帰ってこず、母親は病気で寝たきり、学校ではいじめられっ子と孤独を抱えたジョバンニは、祭りの夜に母親のために牛乳を取りに行く。途中でクラスメイトのザネリに悪口を言われて逃げるように野原に着いたところで夢を見る。銀河鉄道に乗っている夢だ。その電車には気の置けない幼馴染であるカムパネルラも乗っていた。カムパネルラとふたりきりで嬉しくなったジョバンニはいろんな星を旅してまわる。いくつかの出会いと別れがあった。彼らはとある海難事故で亡くなった人たちだった。再びカムパネルラとふたりきり。突然、カムパネルラは「お母さんは自分を許してくれるだろうか」と不安をこぼす。ジョバンニはカムパネルラをはげましつつ「ほんとうのさいわいは何だろう?」とこぼす。わからないけど、一緒にどこまでも行こうと話したところで、カムパネルラの姿が消える。そこでジョバンニは目を覚ます。なんだか町が騒がしいので何があったのか聞いてみると、ザネリを助けるために川に飛び込んだカムパネルラが行方不明だという。ショックを受けたジョバンニであるが、父親が帰ってくると聞いて母のもとに急ぐ。

宮沢賢治って、言葉はとても美しいのだが、文章が美しいわけではない。ゆえに、意味がわからない。ひとつひとつの文章が有機的につながっていない。銀河鉄道の夜が未完の作品であることを差し置いても、ほかの作品もそう。最近の文庫本にはご丁寧に物語を補完する短編が収録されていたりするのだが、ほとんど全部が同じ様相。ワードセンスは抜群だが、文章が不親切。

既に解説も読んでしまっている。テーマは「ほんとうのさいわい」。カムパネルラは他人のしあわせのために自分が死んでしまった。それは「ほんとうのさいわい」と言えるのか? ジョバンニはそれを肯定する。他人のしあわせのために生きることこそが「ほんとうのさいわい」だと知って成長を果たす。そんな話であると言われれば、その通りでしかないのだが、キリストすぎて納得できない。

宗教も時代も違うのだから仕方がない。ぼくの感受性が貧相なのも否めない。しかし、どうして宮沢賢治の作品がこんなにも読み継がれているのか。それを、わかりたい。わかりたいぐらいには惹かれているのに、わからない。だから悔しい。

また来年の七夕の日に「銀河鉄道の夜」を読んでみよう。

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