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太田晶二郎のエッセイ「「鶉籠」描法」

太田三郎の次男太田晶二郎について

 妻はまの追悼本『厨屑くりやくず』(1955年7月31日)で、大田三郎は3人の息子について記していて、次男の晶二郎が歴史学者であることを知った。吉川弘文館から『太田晶二郎著作集』全5冊が刊行されていて、年譜を国会図書館の遠隔資料請求で取り寄せて、わからなかったことがいくつか判明した。
 下記ブログ記事にそのことは整理してある。

 繰り返しをおそれず、要点をまとめておこう。

  • 太田晶二郎(1913ー1987)は日本漢籍史に詳しい歴史学者で、京城帝国大学予科教授、東京大学史料編纂所教授を歴任した。

  • 晶二郎は、父三郎の欧州渡航中(1920〜1922)、太田三郎の妻はまの父、井川作之助の水戸の家で生活した。

  • 晶二郎の祖父、井川作之助は茨城県巴村の村長をつとめたことがあり、『大日本史改造論』(大正5年、東京堂)などの著作がある。

 その時思ったのは、太田晶二郎のエッセイに父、三郎に言及したものがあるのではないか、ということであった。

 このたび、『太田晶二郎著作集』全5冊を調べる機会があり、第3冊(1992年3月30日、吉川弘文館)に、「「鶉籠」描法」というエッセイが収録されており、その中で、父、三郎への言及があることがわかった。

「「鶉籠」描法」について

 著作集では3ページの短い文章である。初出は雑誌『日本歴史』第410号(1982年7月号)の「歴史手帖」の欄である。

 大和絵の絵巻などで「屋根・天井が無いやうに建築を描いて、屋内の人物のさまなどを見せる特異な描写法」があることはよく知られていて、美術史家らが「吹抜屋台ふきぬきやたい」と呼んでいるが、太田晶二郎は語義があたっていないのではないかという疑問を呈している。

 太田晶二郎によれば、「ふきぬき」は「風が通る」ということで、建築としては側面の壁や障子がないことを指しているという。
 上部の屋根や天井がないことにする絵画の描法は、「鶉籠」と呼ぶということを太田晶二郎は父、三郎からの「口授」によって知っていたと記している。
 鶉が飛び上がって逃亡するおそれがないので、鶉籠には天井がないのである。

 太田晶二郎は、父が文章にこのことを記した『母と子の美術』(1924年2月28日、婦女界社)から次のような一節を引用している。土佐派の画家は上流社会の日常生活や愛読している物語から情景を描いたという指摘の後に続く部分である。

その(引用者注-土佐派の)表現法には、非常に自由な大胆なところがありまして、たとへば、家の中のことを描き表すのにも、俗にいふ「土佐絵の鶉籠」
で(ご承知でもありませうが、鶉籠には天井がありません。)すつかり屋根や天井を省略してしまつて、はりと梁との間からすぐ外部へ露出した部屋の中へ、お公卿くげ様やお姫様を起き伏しさせたりしました。

『母と子の美術』(1924年2月28日、婦女界社)*ルビは一部省略した。

『母と子の美術』(1924年2月28日、婦女界社)書影

 晶二郎は父、三郎が川崎千虎かわさきちとらに学んだとして、『母と子の美術』の土佐派の代表的画家を紹介した章の「小堀鞆音こぼりともね」のところから、「土佐派の宗家に土佐光文みつふみといふ人があつて、その弟子に川崎干虎といふ人がありました。 千虎といふ人は、画家といふよりも、いつそ博覧強記な多趣味な学者肌の人で、故実の大家として有名でありました」という一節も引いている。
 太田晶二郎は、父、三郎が鶉籠のことを師事した川崎千虎から教わったのかもしれないと推定している。

 「「鶉籠」描法」は、学会誌に求められたエッセイとして執筆されたもののようだが、晶二郎の父への敬意が感じとれる一編である。

 なお、太田三郎『母と子の美術』は婦女界社の「母之友叢書」第5編として刊行されたものである。
 太田三郎は『スケツチ画法』(1909年8月、弘成館書店)以来こうした啓蒙的な書物をたくさん刊行している。

僊草せんそう太田孫市のこと

 過去記事で太田三郎の父が画家であり、仙草という雅号であったことに触れた。

 この記事を書いた時は、仙草についての資料的な典拠は明確ではなかった。

 太田晶二郎はエッセイ「「鶉籠」描法」にも、律儀な学者らしく、典拠を示す注をつけている。
 注九は、雅号を「僊草」という表記にして、祖父について記している。 
 全文を引用してみよう。

 且又、三郎の父太田僊草(センサウ)も画家であった。細野忠陳(要齋
)の『(葎の滴)感興漫筆』三十三(『名古屋叢書』第二十二巻所収) 元治二年九月廿四日、「野口梅居(=道直)が西隣に問屋(=尾張枇杷島の青物問屋)孫市(三十四、慶応二年三月廿日條「孫一郎」に作る) なる者あり、僊草と号す、画工高雅(=森左門、尾張の人)の門人にて、画をよくす。此者、梅居が為に追薦の会を琵琶橋東 清音寺にてなさんとす。」云々 (98頁)など見えるのが、それである。

*引用にあたって正字は新字に改めた。

 これで、太田三郎の父、孫市(改め孫一郎)について、典拠となる書物、細野忠陳の『(葎の滴)感興漫筆』があることがわかった。

 ある人物の情報を家族という周辺から探ることができた。

 太田三郎についての情報がとぼしいのは、彼がある時期から東京を離れたことに一つの原因があるだろう。
 文学者でも東京を離れると、途端に情報がなくなるという場合がある。中央の視点からは、活動が休止されたように見えがちである。
 しかし、地域で活動が継続されている場合がある。
 太田三郎についても、名古屋という地域の視点から資料を探索するともう少し情報が出てくるのではないかと思う。

【編集履歴】
○2022年10月23日、引用部誤記修正、「比者」→「此者」  


ご一読くださりありがとうございました。



 


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