絵葉書作者として:画文の人、太田三郎 (9)
はじめに
今回は絵葉書作者としての太田三郎を取り上げる。
1万3千字を超えて少し長尺になったが、分割せずに一括で公開する。
わたしは絵葉書を幅広く蒐集しているわけではないので、太田の絵葉書の全容を明らかにする力はないが、なるべくオリジナルの図版を用いてその魅力を伝えたいと考えている。また、絵葉書流行の文化史的背景も視野に含めながら書き綴った。
ご一読くださればありがたい。
1 絵葉書作者としての太田三郎
絵葉書の応募がきっかけ
美術雑誌『藝天』の1928年12月号に掲載された「昭和美術名鑑―百家選第十七―太田三郞氏」には、太田が絵葉書を応募したことが雑誌『ハガキ文学』の編集部に入るきっかけであったと記されている。
この記事は太田本人の取材に基づいており、記述の内容についての信頼度が高い。太田の作品は《カルタ取る図》といい、次席であったという。
文章の場合に、投稿家から書き手や編集者になるケースはたくさんあるが、絵葉書作者として、絵葉書の専門雑誌の編集部に入社するというのはめずらしい事例だろう。
この入社は、画家としての自立を目指している太田の生活を助けたが、太田は絵葉書という複製技術による大衆的な表現と、展覧会に出品する近代の芸術家の個性的表現という矛盾する2面にわたる活動を明治末まで続けることになった。
向後恵理子氏の労作「日本葉書会ー日露戦争期における絵葉書ブームと水彩画ブームをめぐって」(2010年2月、『早稲田大学教育学部学術研究 複合文化学編』第58号)に、『ハガキ文学』の編集部の人員についての考察が示されている。1906年(第3巻)から1908年(第5巻)にかけて名前がわかっている編集者について向後氏は次のように整理している。
太田の応募絵葉書が当選したのが明治38年だとすると、その翌年に編集陣に加わったことになる。
『大橋光吉翁伝』(昭和33年1月30日発行、編集者浜田徳太郎、発行者大橋芳雄)には、『ハガキ文学』の「主筆は大田南岳で、画家の太田三郎が助手であった」という記述が見られるが、向後氏の整理に基づけば、それは創刊当初ではなく、1906年のことを指していると思われる。
1909年には、太田は雇員ではなく、協力者として活動することになったと推測できる。
洋画の系統
絵葉書作者としての太田三郎は、洋画系統出身の白馬会系の作者と見なされることが多い。
雑誌『彷書月刊』の2006年6月号(2006年5月25日、彷徨舎)は「絵葉書国人物誌(明治編)」という特集を組んでいる。この特集の「人名辞典」の部の「太田三郎」の項(増野恵子執筆)では、太田は次のように白馬会系の作家として紹介されている。
白馬会の溜池研究所で学んでいた太田を藤島や和田の系譜に加えるのは理解できる。しかし、「タブローよりもむしろ挿絵の世界で活躍した画家」という評価は、少し補訂する必要があるだろう。「挿絵」は、スケッチ画(コマ絵)の世界で活躍していたことを含むであろうし、また太田は、明治43年の第4回文展に出品した《ビヤホールの女》が初入選しており、大正2年の第7回文展に出品した《カツフエの女》で三等賞を得ている。以後も入選を重ねており、そうしたタブローを描く画家としての活躍を無視することはできない。
紹介には次のような部分もある。
「アール・ヌーボー様式」が使われていて、かつ、「異なったスタイルを自在に使い分けた」という指摘が具体的はどのようなことを指しているのかについては、後で考えることとしよう。
日本画の系統
太田は白馬会溜池研究所で洋画を学ぶ前に、寺崎広業から日本画の指導を受けている。
寺崎広業(1866〜1919)は秋田藩家老の家柄の出であるが、維新後は窮迫し、狩野派、四条派、南画を学び、若い頃は『絵画叢誌』の下絵、臨摸を描いた。また『風俗画報』の挿絵を描いている。第3回内国勧業博覧会出品の《舞楽図》で褒状を受け、以降受賞を重ね、明治30年には東京美術学校の助教授となる。翌年、岡倉天心に従い、美校助教授を辞任し、日本美術院の創設に加わった。明治34年に東京美術学校に教授として復帰し、天籟画塾を開設し後進の指導にあたった。
太田が寺崎の門に入ることになったのには、偶然が働いていた。美術雑誌『藝天』の1928年12月号に掲載された「昭和美術名鑑―百家選第十七―太田三郞氏」によると、寺崎の鶯谷の借家が太田の「遠縁の叔母さんの家作」であったことがきっかけであったという。
叔母とともに寺崎を訪問したのは、太田が上京して間もない19歳の時のことで、明治34年とすれば、そのとき開設されていた天籟画塾で指導を受けることになったのである。太田は、翌年春、日本美術院の展覧会に出品したという。
その後、太田は白馬会の溜池研究所に通うことになり、日本画の世界から離れるが、絵葉書作家としては日本画の勉強が役立っているといえるだろう。
日本画家たちは、洋画家に先んじて、新聞や雑誌の小説の挿絵を描いていたし、装飾的なデザインを手がけて、伝統的に本絵と挿絵の両方にわたって活動することが多かった。文展開設後は本絵を描く展覧会に出品して入選することが画家としてのステイタスとなるが、鏑木清方のように挿絵や口絵の仕事を継続する画家も多かった。清方の作を見てもわかるとおり、本絵と挿絵の質に大きな断絶はなかったのである。
寺崎広業の絵葉書
太田の日本画の師である寺崎広業の絵葉書を1葉、紹介してみよう。日本葉書会発行のもので、「花と美人」シリーズ6葉に含まれているものだと推定される。
梅林の中を伏せ目がちに歩む女性が描かれているが、たいへんモダンな感覚がある。梅枝の重なりが画像に奥行きを与え、かつ、過度に様式化してしまわないリアルな描き方がされているためである。
梅の枝の描き方は、歌川広重の《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》の影響があると思われるが、人物には新しさがある。物思いをしながら梅林の中を歩行する女性を移動ショットで捉えたような趣がある。
また、絡まる梅の枝と梅の花が最前面にあり、その向こうに女性が描かれ、その奥にまた枝と花があるという、立体的な空間構成が奥行きを生み出している。梅の花の輪郭の銀色は色彩のアクセントとなっている。
下半分の空間があけてあるのは、通信文を書くためである。宛名を書く面の3分の1に通信文を書いてもよくなるのは、明治40年の郵便規則の改正からである。それまでは、絵の面に通信文が書ける工夫が施されていた。
この絵葉書を初めて見た時、わたしはただただ感嘆した。作者寺崎広業の技量に感銘を受けたのは事実だが、わたしの感嘆はそれを含みつつ少し広がりのあるところに生まれた。
絵葉書という小さな空間に、視覚的な楽しみを見出そうとする人々の存在があり、それにこたえるために印刷技術のエッセンスが凝縮している。その小空間に描かれる画像には、伝統を意識しながらも、新しい感覚が印刷の技術革新に促されて生まれ出てくる。印刷という複製技術がなければ、新しい感覚は表現できないものであった。
髪の表現に注目してみよう。薄い褐色の上に黒が重ねて刷られていることがわかる。これは、多色木版の技法を、多色石版が踏襲していることを示している。塗り絵のように部分で色分けするだけではなく、色を重ねて精細な表現を可能にしているのである。
太田三郎の美術絵葉書
太田三郎は絵葉書を何枚作成したのだろう。
向後恵理子氏は「日本葉書会ー日露戦争期における絵葉書ブームと水彩画ブームをめぐって」(前出)に「日本葉書会発行の絵葉書一覧」の表を掲げている。その表から太田三郎の絵葉書を摘録してみる。
「愛の面影」6枚
「乙女心」6枚
「カレンダー女十姿」12枚
「東京名所」第一輯〜第六輯 各5枚
「ハツピークリスマス」 2枚
「秘密ハガキ」 1枚
このほか、グループ制作の「清嬌」、「午の初春」にも各1枚がある。
合計すると、59枚。もちろん、これ以外にも作成している可能性がある。
わたしが見た太田の絵葉書は、所蔵しているオリジナル5枚と、図録や複製を合わせて20枚程度である。それでは、太田の絵葉書の全体を論じることはできないかもしれない。しかし、オリジナルを見ながら、制作のモチーフや印刷について検討してみることは無駄ではないだろう。
まず太田三郎の日本葉書会発行の装飾的図案の絵葉書4葉を見てみよう。「日本葉書会」製とあるので、明治後期のものだと推定できる。美術絵葉書のジャンルに属しているものである。
美術絵葉書とは、絵葉書販売業者が当時著名であった日本画家や洋画家を起用して絵を描かせて、それを質の高い印刷で仕上げたものを指している。
まずモクレンとツバメ2羽を描いた1葉。モクレンの背後の板状の緑の部分が何を表しているのかはわからない。季節は春である。地と輪郭の銀、燕と花柄と右部分の緑、枝の褐色、花の薄黄色の4度刷りと思われる。左側の銀地の絵柄のない部分に通信文を記す。日本画家の伝統的な装飾性が濃厚に感じられる図柄である。
図版では銀の地が映えているのが確認できる。
秋海棠を描いた1葉。上部に秋海棠と小川が描かれ、下部は通信文を書くための余白になっている。秋海棠は秋の花である。絵の枠は金が使われているが、褪色している。モクレンの一葉と同じく伝統的な装飾性が感じられる。様式が主となっていて、作成者の個性は隠されている。輪郭線はアール・ヌーヴォーからの影響を思わせるが、琳派の中村芳中は太い線を用いることもあり、その流れも感じさせる。
ユリの花と星を描いた1葉。季節は夏だろう。おそらく、上部の紺色と銀色の部分は夜空を表しているのだろう。複数の線は川のようで、銀河を暗示しているのだろうか。地上の百合と夜空の星が対比されている。
モクレン、秋海棠の2葉にはない西洋的な要素が感じられる。ユリは聖母マリアの純潔の象徴、星は聖母の肩に描かれることもある。マリアは「海の星」(Stella Maris)と呼ばれることもあるので、上部の表現は空ではなく、まさに海の星を表現しているのかもしれない。
ただ、図像の象徴的解釈に一義的な意味を求めることには慎重であるほうがいいとわたしは常々考えている。雑誌『明星』の表紙画や挿絵で西洋の神話やキリスト教由来の図像が盛んに紹介された流れの中にこの絵葉書の画像も位置しているというのが最大公約数としての理解ではないだろうか。
星は五芒星と六芒星がまじっている。
余談であるが、アルフォンス・ミュシャの女性像のパネル画やポスターでは、よく女性の顔のまわりに六芒星が散りばめられたように描かれていることがある。調べたがその意味を記した文献を見出すことができないでいる。神話や宗教の図像的な縛りにあまり拘束されない風俗化した表現なのだろうか。散りばめられた星は描かれた女性の聖性を暗示している、とでもいうように。
ミュシャの作例としてエドモン・ロスタンの戯曲『サマリアの女』をサラ・ベルナールが演じた際のポスターをあげておこう。
さて、装飾的絵葉書の最後は、芥子の花と金のハート(心臓)をそれぞれ銀色の矢が貫いているという図柄である。右下部は通信文を書くための余白である。ハートのなかに、「Sweetest Sorrow」という文字が記されている。意味は「最も甘やかな悲哀」というほどのものだろう。
ハート(心臓)は恋愛を暗示しており、表現の先行事例としては与謝野晶子の歌集『みだれ髪』(1901年8月15日、東京新詩社・伊藤文友館)の藤島武二による表紙画がある。ハート(心臓)の中に髪の豊かな女性の横顔が埋め込まれ、ハート(心臓)から流れ出た血が「みだれ髪」の文字を示すというものであり、クピドの矢のエピソードを踏まえたものである。太田の絵葉書もこうした流れに位置付けることができるだろう。
オウィディウスの『転身物語』によると、クピド(Cupid)が持つ矢には、愛を誘発する金の矢と、冷却する鉛の矢の2種類があるとされている。
ケシ(Poppy)は、豊穣とともに、貞潔の象徴でもある。絵葉書に描かれた銀色の矢が鉛の矢を示しているとするなら、愛の冷却が暗示されているということになる。ケシとハートを共に射抜いている縦方向の矢は愛の抑制を意味しているということだろうか。
それゆえ「Sweetest Sorrow」が感じられるということなのだろう。ただ、先にも述べたように、象徴的読解に一義的な正しさを求めすぎると誤解を導きやすいので、愛の冷却と抑制がある意味の広がりのなかで暗示されているととっておこう。
この一葉は、これまでのなかで最も西洋的な香を漂わせているものとなっている。
見てきたように、琳派の流れを感じさせる伝統的な装飾性と、アール・ヌーヴォー様式など西洋からの影響が両極にあって、それらが融合したスタイルも、太田はデザインとして使いこなしているということができるだろう。
雑誌付録の絵葉書から
絵葉書ブームにより、雑誌の付録として絵葉書が綴じ込まれることが増えた。 今、古本で当時の雑誌を購入しても、付録の絵葉書がついている場合は稀である。絵葉書がついていると古書価はぐんとはねあがる。絵葉書は表紙と扉の間に綴じ込まれており、ミシン目がついていて取り外せるようになっている。絵葉書がついていても、はずれてしまっている場合も多い。
『ハガキ文学』の発行元である日本葉書会は博文館の系列であり、太田三郎が博文館発行の雑誌の表紙画を描いている例はけっこうある。『女学世界』は明治34年(1901年)に創刊された女学生向けの博文館の月刊誌で、大正14年(1925年)まで刊行された。太田は何度も表紙画を描いている。
付録絵葉書も描いているが、その1葉を紹介しよう。『女学世界』第7巻11号(明治40年8月5日発行)の付録絵葉書が太田三郎の作である。
雑誌付録の絵葉書は石版印刷によるものが多いが、分色によって奥行きが出るように工夫されている。女性の左の袖あたりに石版特有のずれが生じている。
夏の号の付録絵葉書らしく、海辺が描かれている。
浜辺の左手には手拭いの被り物をして、襷をかけて着物の裾を端折った女性が横ずわりになっている。魚籃からは魚がこぼれ出ている。右奥には海水浴に来た家族連れが4人描かれている。4人は皆日焼けをしており、2人の子供が着ている太いボーダー柄の水着は麦わら帽子とともに当時流行したものである。
浜辺を描いた絵の先例を探してみることにしよう。
挿絵や絵葉書でも活躍した日本画家の水野年方に『今様美人』(明治31年、滑稽堂)という多色木版の画集がある。園遊会や観梅など12のシーンにおける女性の姿を多色木版で捉えたもので、国会図書館デジタルライブラリーで公開されている。
その中に《はまあそび》という一枚がある。前景には、あたかもテントを張るように棒を立てて布をかぶせ、その上に着物をかける装置を作り、これから浜遊びをしようという二人の女性が描かれている。手前の女性は被り物をし、裾を端折っている。手拭いの被り物と裾端折りが絵葉書の女性と同じで、浜遊びの女性の服装としての共通点を示していることがわかる。興味深いのは、年方の《はまあそび》では後景に服装から漁師とその家族だと思われる人々が網を引く姿が色彩をおさえて描かれており、〈レジャー〉と〈労働〉が対比されていることである。
では、太田の絵葉書でも〈レジャー〉と〈労働〉が対比されているのだろうか。年方の《はまあそび》の女性と似た服装の絵葉書の左手の女性は、働き手ではなく、浜に遊びに来た都市の女性だということになる。
しかし、絵葉書の女性の憂いがあるようにとれる姿勢や表情は何に由来するのだろう。単に「わたし疲れたわ」ということなのだろうか。
深読みするために柳田國男を援用することにしよう。
『明治大正史世相篇』(初刊は昭和6年1月朝日新聞社、引用は、1990年10月、ちくま文庫版『柳田國男全集26』による)の「第一章 目に映ずる世相」に「七 仕事着の捜索」という一節がある。柳田は、女性の仕事着は確かにあったが、それは廃れて晴着の古いものが仕事着に転用されたということを指摘している。柳田は次のように書いている。
「今日の女の常着は以前の晴着であった」ために、女性たちは「襷を応用して長い袖をまくり上げ、褄を折りかえして重くるしい帯を蔽う」て働くことになったというのである。
この見方を取れば、絵葉書の女性を、古い晴着を襷掛けと裾端折りで仕事着に転用している漁村の娘と見立てることもできるだろう。後景の海水浴にやってきた家族と対比すると、生活のために魚を獲る女性には、疲れと憂いが浮かび上がるのである。そう考えると、〈レジャー〉と〈労働〉が対比されていることになる。
いやいや、そこまで深読みすることはないのかもしれない。
過去と現在という時間の流れが絵葉書の画面に取り込まれているとすれば、浜遊びの新旧の形が対比されているということになるだろう。今は、麦わら帽子とシマ柄の水着で海水浴というのが夏の浜辺の定番の風景になったが、少し前は、被り物に襷掛け、裾端折りで浜遊びというのが一般的であった。時代の移るのは早いものだ、という新旧の対比が示されているということになる。
太田の絵葉書は、画題の奇を衒わず、描法もあまり作者の個性を主張しないものが多い。その意味では、この絵葉書の意味は浜遊びの新旧の対比であるというのが無難な理解だろう。
読者である女学生たちはどう受け取っただろうか。「お母様たちの世代は、こんな感じで浜遊びをしたのか、わたしは断然、シマウマ水着が好きだけど」などと思ったのだろうか。
また、昔の浜遊びの衣服は着物で掃除や片付けをする時と同じだと気がついて、世に出て自分はどんな服を着て仕事をするのだろうかと考え、女性の仕事着の問題に思い至ることもあったのだろうか。
2 金と銀 源流としての日露戦役紀念絵葉書
日露戦役紀念絵葉書と装飾
寺崎広業や太田三郎の絵葉書の金色や銀色の使い方の源流は、逓信省発行の日露戦役紀念の絵葉書シリーズにある。実際、戦役紀念絵葉書をいくらか入手してみて、その印刷の精細さに驚いた。
当時逓信省の雇員であった樋畑雪湖は、日露戦役紀念絵葉書の制作に携わっていた。その折の経験はその著『日本絵葉書史潮』(日本の郵便文化選書、1983年9月16日、岩崎美術社、*元版は昭和11年4月10日、日本郵券倶楽部)に詳しく記されている。
数次にわたって発行された日露戦役紀念絵葉書には、光琳式やアールヌーボー式の装飾が加えられたり、多色石版の複数回刷りが採用されている。写真は、アートタイプで、装飾は多色石版で印刷されている。金色や銀色も豊富に使われている。樋畑雪湖によれば、アートタイプと色刷り石版の併用は、ヨーロッパで行われている方式を模倣したものだという。印刷にあたった東京印刷株式会社が技術の粋を尽くしてこの方式を実現したという。
日露戦役紀念絵葉書に装飾が多用されるのには根拠があった。
絵葉書の展覧会の図録『巷の目撃者』(1999年10月23日〜12月5日、新宿歴史博物館)には、「資料編」が付いており、そこに公文書「明治37年6月21日 戦役紀念郵便絵葉書発行の件(通第二六二五号)」が掲載されている。
その前文を引用してみよう。
戦役紀念絵葉書発行の目的は次の二つである。
一つは出征した軍隊への慰謝と贈与、もう一つは内外の人々に「交戦ノ実況」を知らせるためである。
附則である細則の「図案及材料」には次の一項がある。
「アトドタイプ」は「アートタイプ」の誤植だろう。すなわちコロタイプのことである。コロタイプとは、ゼラチンなどを含む感光液をガラス板に吹き付けて、そこにネガを焼き付けると、微小なシワが生じそれが連続階調の陰影を表現するという写真印刷の手法である。
細則には「上製ノモノトスルコト」という指定があり。これが絵葉書に装飾が加えられる動機の一つであると考えられる。
南山の紀念絵葉書
日露戦役紀念絵葉書の第一次発行分(明治37年9月5日)から、金銀を使った事例を紹介してみよう。
樋畑雪湖は、この絵葉書について次のように解説している。
樋畑の説明と違って、絵葉書にあるキャプションは右から「占領後ノ南山」「南山ノ攻撃」「南山ノ鉄條網」の三つである。絵葉書には「南山の塹壕」はない。『日本絵葉書史潮』の図版も掲出の絵葉書と同じ図柄である。引用中にいう「狼井」とは落とし穴のことである。樋畑の思い違いがあったのかもしれない。
アートタイプによる写真印刷は、細かい点もよく再現していることが確認できる。
写真の枠や、右上部の背景、菊の葉、水筒、ベルト、葉書の文字などに金が使われている。金は、褪色のため褐色であるように見える。
銀は写真の枠、菊花、軍刀、斧の刃などに銀が使われている。
金に銀を重ねる
細部で興味深いのは、水筒や、斧の刃の上部が、金を刷った上に銀を重ねて刷っていることである。軍刀のコチラに置かれている水筒が金、銀の重ね刷りによって、奥行きのある遠近感が醸し出されている。部分部分を色で分けて刷るだけではなく、重ねてもいるのである。
部分部分を色分けして版を重ねるやり方は、錦絵木版からの影響だと考えられる。木版では色のずれは起こりにくいが、石版では往々にして色のずれが起こる。原因は、石版では、手摺木版の「見当」のような明確な目印を設定できない点にあるのだろうか。または、機械刷りで紙送りにずれが生じるということなのだろうか。
この絵葉書では、ずれは、斧の刃の背や軍刀のつかの部分に見られる。
地方の絵葉書ブーム
地方での絵葉書ブームの実態を紹介している面白い論文がある。西向宏介「アーカイブズとしての絵葉書」(2013年『広島県立文書館紀要』第12号)は、広島における絵葉書ブームについて、『中国新聞』の記事をもとに記している。
まず、逓信省発行の日露戦役紀念絵葉書発行とその後の私製絵葉書の流行については次のように記されている。
東京だけではなく、広島でも官製絵葉書の発行が発火点となって私製絵葉書のブームが隆盛を迎えたことがよくわかる。
また、市内の寺院浄宝寺で、明治39年 4 月 3 日から 3 日間、広島絵葉書展覧会が開催され、4月5日の「絵葉書展覧会瞥見」という記事では、展示された絵葉書の詳細が紹介されているという。記事によると、一條成美 「令嬢の隠し芸」、藤島武二 「二光」「三曲」「月宮殿」、鏑木清方 「世女の面影」、日本絵葉書会合作 「花鳥十二ヶ月」にまじって、太田三郎 「紅百合」が展示されていたことがわかる。なお、展示されていた絵葉書は販売され、一條成美の「令嬢の隠し芸」は、5 葉で金35円という「陳列品中の最高価」がついたという。西向氏の論文は地方紙の記事を丹念に拾っていて、私たちは、地方における絵葉書ブームの実態を知ることができる。
なお、こうした絵葉書の展覧会は、明治38年に東京で開催されている。『大橋光吉翁伝』(昭和33年1月30日発行、編集者浜田徳太郎、発行者大橋芳雄)には次のような記述が見出される。
太田三郎も場内の飾り付けに加わっている。この日本絵葉書展覧会の成功がモデルとなって、広島絵葉書展覧会が開催されたのである。
色彩革命
幅9センチ、長さ14センチの小さな空間に印刷された色刷りの画面。当時の人々はその色彩に驚いたことだろう。佐藤健二氏は、『風景の生産・風景の解放 メディアのアルケオロジー』(1994年2月1日、講談社選書メチエ)で、絵葉書がもたらした色彩感覚の変化について次のように指摘している。
大人の手のひらにのる絵葉書の小さな空間は、色彩革命の実験場であった。印刷(print)による複製表現が多くの人々に、手のひらにのるアートを届けることになった。金や銀の輝き、美しい石版印刷は、人々を動員する平民芸術の側面を持っていた。
個人の表現としての近代芸術を目指していた太田三郎にとって、複製技術による絵葉書の作者であることはどのような意味をもっていたのだろうか。
絵葉書を印刷という複製技術による平民芸術と捉えるなら、オリジナルの一回的な表現を行う洋画家として自立することは、オリジナルの芸術家となることを意味するので、なんらかの矛盾をはらむ可能性がある。
この問題は、スケッチ画を取り上げるときに考えることとしよう。
〔付記〕本稿で用いた絵葉書の図版はすべて著者が所持しているものから作成した。