アダムとイブ:竹久夢二『山へよする』研究⑥
さて、少し間が空いたが、「竹久夢二『山へよする』研究」の連載第6回目。
今回は口絵木版の1つである《桃樹園》を取り上げる。これまでの知見を少し修正し、かつ、重ねられた層によって暗示を含む画像であることを提示してみたい。
記事は少し長くなったが、他者の表現技法を取り込んで、それを独自のものに再生するという竹久夢二の表現方法についての詳しい分析事例を示すことができたのではないかと、ほんの少しだけ自負している。
終わりまでご一読たまわれば、とてもうれしい。
わたしがnoteというサイトを選んだのは、カラー図版を高い解像度で示すことができるからだ。重複をいとわずに、図版を多く掲げて、わかりやすく謎を解明したいと思う。
2024年は竹久夢二の生誕140年にあたる。できるだけ記事公開の頻度を上げていきたい。
1 木版画《桃樹園》
3人の女性歌人の序歌の最後、与謝野晶子の歌の左側の頁にその木版画《桃樹園》は現れる。
人物や樹木の特異な形象、装飾化された色彩のあざやかさ、そして何よりも地面から突き出した手によって、記憶に残ってしまう絵である。
人物の輪郭や、樹木の葉には、繊毛のようなギザギザの線が使われている。このギザギザの表現については別稿で考えることとしよう。
線が確認できるように、大きな図版をあげておこう。木版の魅力も伝わるのではないだろうか。
「桃樹園」というからには、絵の樹木は桃の木なのだろうか。写実として見ると、とても桃の木には見えない。桃の木は種類によっては八重咲きの花を枝に密集させてつけるので、それをデフォルメした表現なのだろうか。ともあれ、この絵全体が写実的なものではないということに留意しておこう。
絵の枠の中には「TOZYUEN 15 APL」と記されている。日付は、1915年4月ということなのだろう。
年譜によると、この年の4月、笠井彦乃は女子美術学校撰科日本画科第3学年に編入学し、5月22日に、落合村の竹久夢二の家で夢二と結ばれた。
木版画《桃樹園》は「果実篇」の章の短歌の前に置かれている。だが、「果実篇」の扉絵というわけでない。(注1)
この絵は、下敷きとなった作品のコンテクストから剥がされたいくつかの要素がモチーフとして重ねられて、象徴的な画面が構成され、新たなコンテクストが創出されるという、竹久夢二の方法が典型的に現れたものである。
以下、これらの層を1枚1枚はがしながら、検討していくことにしよう。
2 アルバート・ブロック《夏の夜》
まず技法の層から考えてみることにしよう。
この絵には、発想源となった別の絵画が存在していることが指摘されている。
高橋律子氏は次のように指摘している。
木版画《桃樹園》は、大正7年制作の油彩画《スプリング》とよく似ているが、構図には違いがある。《スプリング》は、出品された際に発行された『竹久夢二抒情画展覧会目録』(1918年)では《SPRING》とされているので、以下そのように表記する。《SPRING》は修正されて、昭和5年(引用文の「一九二七」は誤りで、1930年である)に《青春譜》として発表された。
それぞれの比較については、いちばん最後に検討することとしたい。
《SPRING》、《桃樹園》、《青春譜》は、竹久のスクラップブックに切り抜かれているブロシュ(カール・ブロック)の《夏の夜》からの引用だと高橋氏は指摘している。ただ、《夏の夜》には、「地面から生える手」の表現はなく、これは、恩地孝四郎の版画《伴病めリ》からの引用ではないか、というのである。
高橋氏は、《夏の夜》のモノクロ図版を大正4年の『美術新報』(第14巻第3号、大正4年1月)から掲載している。
調べてみると、このカール・ブロックといわれている人物は、アルバート・ブロックのことではないかということがわかってきた。
メトロポリタン美術館がこの《夏の夜》(1913年)を架蔵していて、解説が付いている。
その解説を翻訳してみよう。
『青騎士』は1911年、マルク、カンディンスキー、マッケらによって結成された美術団体で、同名の年刊誌を刊行し、展覧会を開催した。カンディンスキーは論文「芸術における精神的なもの」を発表して、内的体験の抽象表現の理論的根拠を提示した。
上記解説で明らかなように、アルバート・ブロック(ドイツ語読みではアルベルト・ブロッホ)はアメリカ生まれの芸術家で、カンディンスキーの招きによって『青騎士』の運動に参加した。《夏の夜》は『青騎士』の思想性に導かれた夢幻的な表現になっている。
英語版のウィキペディアにはアルバート・ブロックが立項されている。
経歴を摘録して紹介してみよう。アルバート・ブロック(Albert Bloch、1882 - 1961)は、ミズーリ州セントルイスの生まれで、セントルイス美術学校とシカゴ美術アカデミーで学んだ。1901年から1903年にかけては、St. Louis Star(セントルイス・スター紙)でマンガなどを制作し、1905年から1908年にかけては、文芸・政治週刊誌 The Mirror(ミラー)で風刺画家兼イラストレーターとして働いた。
1909年から1921年まで、ブロックは主にドイツに住み、そこでDer Blaue Reiter(『青騎士』)誌の仕事をした。第一次世界大戦が終わると、ブロックはアメリカに戻り、シカゴ美術館付属美術学校で1年間教鞭をとり、その後カンザス大学で学科長の職に就き、1947年に定年退職するまで勤めた。
さて、英語版ウィキペディアから《夏の夜》を引用しておこう。
《桃樹園》と《夏の夜》を比較すると、竹久がどのようにモチーフを借用し、加工しているかがよくわかる。
竹久は、2人の人物を男女とし相対させているが、ブロックは4人の人物を描いている。《桃樹園》の人物の男性の手の独特の表情は、《夏の夜》の中央2人の人物のそれぞれ、左手と右手の形にそっくりである。
高橋氏は、「地面から生える手」は、《夏の夜》には存在しないと指摘している。しかし、右はしの人物の下半身のところに、こちらに向けられた手のひらが描かれている。その位置から考えて、おそらく別の人物の手であろう。この手を中央に移動させれば、《桃樹園》の手となるのではないだろうか。《夏の夜》の不思議な位置にある手に竹久は暗示を得た可能性があるだろう。
『アルバート・ブロック アメリカの青騎士』(Henry Adams,Margaret C.Conrads,Annegret Hoberg,ed.,Albert Broch The American Blue Rider.Munich,New York:Prestel,1997)という洋書があり、主要画業とともに評伝、画風についての研究が収められている。
この本に収録された「アルバート・ブロック 見えない青騎士」(Albert Broch:Invisible Blue Rider)という文章で、ヘンリー・アダムズ(Henry Adams)は《夏の夜》について、次のように記している。
アダムズは、人物たちの手のしぐさに宗教的な意味を見出している。顎の下に差し入れられた手は観想のポーズで、左から2人目の人物の上に向けられた手のひらは、聖痕(stiguma)を受けようとする聖フランチェスコのようだとアダムズは評している。
聖痕(stiguma)とは、十字架にかけられたキリストの両手、両足、脇腹の5ヶ所の傷跡のことで、聖人にも現れることがあるとされる。聖フランチェスコの場合がキリスト教美術の画題として繰り返し描かれた。
アダムズは、ブロックの画業における《夏の夜》の位置づけについて、次のようにまとめている。
アダムズによれば、ドイツ時代のブロックの絵画には2つの傾向があったという。キリスト教を素材にしたものと、サーカスやコメディア・デラルテ(16世紀イタリアの仮面即興劇)を素材にしたものである。ブロックはピエロやハーレクイン(イタリアの仮面即興劇コメディア・デラルテに登場する道化役)を多く描いたが、それがキリスト教的主題と重なるようになっていったという。たとえば、ピエロの死がキリストの死として描かれるというように。
こうしたブロックのアイロニーについて、竹久が詳しく知っていた可能性は低い。ただ、竹久とブロックには共通点がある。雑誌や新聞の挿絵を描いていたこと、装飾的なリアルではない表現を試みたが、完全な抽象には向かわなかったことなどである。
表現の細部の比較のために《桃樹園》と《夏の夜》の並列図をあげておこう。
1910年代から、アルバート・ブロックは、人体表現の抽象化をはじめる。《桃樹園》の男女の服装は《夏の夜》の抽象化された人物から影響を受けている。
《桃樹園》の男性の腕を下ろして両手をひろげているポーズとそっくりのピエロをブロックは描いたことがある。1911年制作の油彩画《3人のピエロ(Die drei Pierrots Nr. 2 )》では、禿頭の3人の男性がダンスをしている。
竹久には、《桃樹園》の僧服のような衣装を身につけた男女がほんとうは道化なのだというような、マニエリスム的転倒を示すというような意図はなかったのだろうか?
ブロックの《夏の夜》は、詩人オットー・ユリウス・ビーアバウム(Otto Julius Bierbaum)の詩に基づいているという指摘がある。(注2)
3 桃樹園は失楽園?
さて、《桃樹園》のモチーフの層について考えることにしよう。
《桃樹園》では男女が向かい合い、右の女性は両手で顔を覆い、左の男性は垂らした両手を開いて、女性を心配するような姿勢をとっている。
人物の配置の構図からアダムとイブのことを想起する人がいるのではないだろうか。向かい合う男女2人、悲しむ女性ととまどう男性という構図から、旧約聖書の『創世記』の記述によるアダムとイブのことが連想されるのである。
西洋美術の画題としては、蛇の誘惑によって知恵の木の実(リンゴか無花果)をイブが食べようとする誘惑の場面や、その結果、神により2人が楽園から追放される場面がよく知られている。
《桃樹園》の下敷きになっているのは、誘惑の場面である。『創世記』の第3章の1〜7節の記述がもとになっている。
誘惑の場面の典型的な画題の例示としてアルブレヒト・デューラーの銅版画《アダムとイブ》(1504年)をあげておこう。
誘惑者の蛇からイブが果実を受けとっている。イブは左手にも果実を持っている。
こうした画題は、現代化されて表現される場合がある。
誘惑の場面を現代化した事例としてエドヴァルド・ムンクの作品を示しておこう。
男女は、普通のカップルのように見える。女性が果実を摘んでおり、タイトルは《アダムとイブ》である。もしタイトルがなく、漫然と見ていると、ごく普通の男女のデートの場面を描いているように思える。
しかし、女性が果実を手にしていることで、神の教えに背いて楽園を追われるというアダムとイブの説話を踏まえていることがわかり、男女の関係に悲劇の影がさしてくることになる。
竹久の《桃樹園》も、ムンクの《アダムとイブ》と同じ位相にあり、『創世記』の記述を踏まえながらも、神と人の関わりが、男女の関わりに置き換えられて、愛
に罪の影が差すような暗示を含む表現となっている。
「桃樹」が選ばれているのは、「桃源郷」からの連想であろう。
桃源郷は、陶淵明の『桃花源記』に描かれた理想郷のことである。武陵の漁人が谷川をさかのぼって,桃の花が両岸に美しく咲き乱れる林の奥の洞穴をくぐると、かつて戦乱を避けて移住した人々の末裔たちが暮らす豊かで幸せに充ちた里を見出した。《桃樹園》の桃は、桃源郷の桃に通じる。そして桃源郷は、エデンの園に置き換え可能なのである。
技法の層とモチーフの層について図示してみよう。
これまで見てきたことから、竹久夢二の表現方法の特徴を取り出すことができる。
竹久は自分が気に入った表現を自在にデフォルメして自分の表現に取り入れる。また、和・漢・洋のモチーフをシャッフルすることにより、どこか既視感はありながらも新しいという感覚を竹久は表現することがある。
その際もとのコンテクストからの切断は、見るものにとって斬新さ、前衛性と受けとられることがある。
ただし、『山へよする』の場合、キリスト教的要素は、単なる意匠ではなく、価値観を投影したものとして選択されている可能性がある。
『夢二画集 冬の巻』(明治43年11月、洛陽堂)の巻頭におかれている「この頃思つてゐる事」という文章の中で、竹久は「昔、アダムとイヴが食つたといふ『果実の味』を常に味ふことの出来る若々しい心を持ちたい」と記している。このころはまだ、罪の苦さについて、竹久は十分認識していなかったのだろう。
4 地面から生える手
さて、《桃樹園》で、とても気になる、中央下部の地面から生える手について考えてみよう。
高橋律子氏は、先に引用した部分で、恩地孝四郎の《伴病めリ(抒情Ⅳ)》(公刊『月映』Ⅰ、大正3年9月、洛陽堂)からの影響を指摘している。
この《伴病めリ(抒情Ⅳ)》の構図について、桑原規子氏は次のように指摘している。
この恩地孝四郎の「尋常ではない作者の感情」の背後に、桑原氏は病気で故郷へ帰った友人田中恭吉への思いが込められていると理解している。
先の引用部分に続けて、桑原氏は、恩地の田中への思いについて書いている。
「大地から突き出た手」の形象についての桑原氏の理解は、病気の友に差し伸べられた、友情の証だというものである。
田中恭吉のことを知らない鑑賞者は、桑原氏のように細かな理解はできないだろう。ただ、表題と手の形象から、病める友への祈りのような感触を得ることは可能かもしれない。
ただ、恩地や田中は〈夢二学校〉の生徒であり、竹久は、《伴病めり》に表れている救いの暗示を理解していただろう。
恩地孝四郎の〈手〉のモチーフの使用例として、もう一つ、室生犀星の『愛の詩集』(大正7年1月、感情詩社)の挿絵についてふれておこう。
亡き父への犀星の献辞が記されている。ここでも手は祈りを表しているようだ。
恩地が自分が装幀した書物『愛の詩集』を竹久に献呈していたとすれば、この手の表現についても、竹久は知っていただろう。
恩地孝四郎には、この時期、差し伸べる手、祈りの手というモチーフが継続して存在していたことがわかる。
5 象徴の理解について—〈手〉をめぐって
《桃樹園》の「地面から生える手」の形象の象徴的な意味を理解するということは、どのようなことなのだろうか。
象徴とは、はっきりそれとわかる指示的な表現ではなく、あるひろがりのなかで成立する意味をそれとなく暗示する表現である。そこで、そのひろがりの範囲を決めるのは何かということが問題になる。
暗示のひろがりの範囲を決めるのが、設定されたコンテクストである。差し伸べられる手、祈りの手の表象はそのコンテクストのなかで、どのような暗示をもつのだろうか。
竹中正夫氏はその著『美と真実 近代日本の美術とキリスト教』(2006年7月、理想社)のなかで、竹久の《青春譜》《桃樹園》について興味深い指摘をしている。
竹中氏は、宮田光雄氏が『ベツレヘムの星 聖書的象徴による黙想』(2005年9月、新教出版社)で示した、旧約聖書では「手」という言葉が1600回以上使われ、そのうち200回は「神の御手」についてのものだという指摘を踏まえて、次のように述べている。
バビロン捕囚とは、紀元前597年、ユダ王国が新バビロニア王国に征服され、貴族、聖職者、国民がバビロンに移住させられたことをさす。
それが解かれたとき、山野が歌い、樹木が手を打って喜んだことをしるしたイザヤ書の1節を竹中氏は引いて、《青春譜》の手の表現に関連付けている。
捕囚からの解放は歓喜にみちているが、《青春譜》の男女は悲哀を示していて、そこに齟齬があるように感じる。
ただ、竹中氏の指摘は、歓喜にせよ悲哀にせよ、それらは神の御手の仕業だという立場からなされたものなのだろう。
引用部分に続けて竹中氏は、竹久が1931年の渡米中に作成したロサンゼルスのアートスタジオの看板について触れている。看板には手のひらに大きな目が描かれている。竹中氏はこの目について、物事の奥底を見透す「神の眼」を示しているという理解を提示している。
『山へよする』の表紙画には、眼とともに合わせた両手が描かれている。
こうして並べてみると、《桃樹園》の手は、祈りとともに、見届ける証人としての眼の意味も合わせ持つように思われる。
『山へよする』の表紙画と《桃樹園》における、祈る手と見届ける証人としての眼という竹久のモチーフは、恩地の《伴病めリ(抒情Ⅳ)》が示しているコンテクストから離脱することなく、竹久に受けとられているようだ。恩地孝四郎や田中恭吉は〈夢二学校〉の生徒であり、竹久自身は『月映』の版画作品が生まれてくるコンテクストをよく知っていたからである。
恩地の《伴病めリ》、『山へよする』表紙画、『山へよする』扉を並べると、恩地の構成のモチーフが竹久に継承されていることがわかる。
6 視線の両義性
さて、竹中正夫氏は『美と真実 近代日本の美術とキリスト教』(前出)で、《青春譜》の地面から生える手について、「人によっては之を不気味に覚えるむきもある」とも記していた。この「不気味さ」とは何だろうか。
同じモチーフで制作された《Spring》、《桃樹園》、《青春譜》を比較してみよう。
比較してわかるのは、《SPRING》と《青春譜》は構図がほぼ同じということである。ただ山の様子などの細部は異なっている。この2作と《桃樹園》は構図が異なる。《桃樹園》では、樹木は男女の背後に2本描かれているが、《SPRING》と《青春譜》では、樹木は女性の右に置かれている。男性の左の樹木はかすれているように見うけられる。
比較図版を作成してはじめて気づいたのが、男性の視線の両義性である。男性は、地面から生える手を見ているのか、女性を見ているのか、どちらだろう。
《SPRING》では、男性の視線は、女性ではなく、地面から生えた手に向かっているように見える。男性は地面から生える手に驚いているのである。
《青春譜》の男性の視線は、あいまいで、女性に向けられているとも、地面の手に向かっているとも見える。
《桃樹園》の男性の視線は、明確に女性に向けられているように見える。ただ、上記2作と往復していると、自信がなくなってくることもたしかだ。シンプルな線で表現された男性の目は、視線の方向が両義性をおびるように意図されて描かれた可能性がある。
男性の視線が女性を気遣うものであれば、その独特の手のかたちは、女性の嘆きを理解しつつも、それを解決する力が自分にないことを示しているようだ。
そうとれば、《桃樹園》が『山へよする』の恋愛の悲劇を読者に暗示する口絵としての役割を担っているということは、ゆらぐことがないだろう。
しかし、大地から生える手に対する驚きが男性にあるとすればどうなるだろう。
《SPRING》に顕著なように、男性の視線は地面から生える手に向けられていて、両手のしぐさが驚きを示しているとするなら、手の表象に〈不気味さ〉が感じられるということは大いにありうることだろう。
もしかすると、これまでたどってきたコンテクストとは別に、もう一つのコンテクストが埋めこまれているのかもしれない。
思いあたることがあるのだが、今回はここで筆をとどめておくこととしたい。
(注1)ノーベル書房版の『山へよする』(昭和52年8月)は、オリジナルでは、末尾におかれている木版画《果実篇》と《桃樹園》の位置をさしかえている。木版画の題名に留意した処置であろうが、根拠は示されていない。このことは、木版画《果実篇》をあつかうときに考えたい。
(注2)Henry Adams,Margaret C.Conrads,Annegret Hoberg,ed.,Albert Broch The American Blue Rider.Munich,New York:Prestel,1997に収められている、アネグレット・ホバーグ(Annegret Hoberg)の「ミュンヘンのアルバート・ブロック 1909-21(Albert Broch in Munich,1909-21)」に、「言い伝えによれば、この絵は象徴主義の作家オットー・ユリウス・ビアバウムの詩に基づいている。(中略)この解釈は、シカゴのアーサー・ジェローム・エディ・コレクションのカタログに1922年に記載された内容に基づいているが、後にブロックはこの解釈に異議を唱えている。」と記されている。
(文・木股知史)
【編集履歴】
2024/08/08 修正 |繊毛《せんもう》のような→繊毛のような
2024/08/08 修正 神に御手の仕業→神の御手の仕業
*他の回については下記マガジン参照。
*ご一読くださりありがとうございました。