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画文の人、太田三郎(1) 鴫沢宮の顔のかげ

「画文の人」とは

 「画文の人」というのは、画家でありながら文章をよくする人のことを指している。太田三郎(1884ー1969)はコマ絵、スケッチ画、挿絵など印刷された絵画はもとより、日本画、油彩画、版画でも活躍した画家であるが、知る人は少ないだろう。今なら、同姓同名で切手をモチーフにした表現を展開している現代美術作家の方を思い浮かべる人もいるかもしれない。
 私は太田三郎を研究しているわけではないが、コマ絵、スケッチ画の丸い独特の線描が好きで古書を見かけたら購入するようにしてきた。自ずとわかってきたこともあり、初期のスケッチ画や、画文を共鳴させた書物を中心にして、太田の表現について綴ってみたい。ゆきつ戻りつになるかもしれないが、連載しながら太田の画文の魅力を読者に伝えたいと思う。

鴫沢宮しぎさわみやの顔のかげ

 太田の名が私の心に深く刻みこまれたのは、尾崎紅葉おざきこうようの『金色夜叉こんじきやしゃ』のヒロイン鴫沢宮しぎさわみやを描いた多色木版を見た時であった。
 亡父に恩義がある鴫沢家に厄介になっている間貫一はざまかんいちは、鴫沢家の美貌の娘宮との結婚も視野に入れた幸福な未来が予想される境遇にあった。しかし、年始のカルタ会に参加した宮は、富豪富山唯継とみやまただつぐに見初められ結婚の申し入れを受けることになる。裏切りに怒る貫一は、高利貸こうりかしとなって復讐する。
 今では、あり得ない古い物語のように見えるかもしれないが、意志を持つ女性が罰せられる物語としては近代小説の原形とも言える。
 それはおいて、まず木版画を見ていただこう。出典は、太田三郎・川端龍子・名取春仙『金色夜叉画譜 上巻』(明治44年12月博文館発売、精美堂発行)である。

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 カルタ会での宮の姿であるが、私が驚いたのはその斬新なタッチであった。
 これは複数の版をかさねた多色木版画であるが、即興的に描かれたペン画に手彩色されたもののように見える。伝統的な錦絵ではあり得ない手法である。
 この絵が木版であることは、紙の裏面に見出せるりの際の圧の痕跡によって明らかである。羽織の背中や紐、髪に主線(輪郭などを示す黒の線)や色面の圧の痕跡を見つけることができる。

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 羽織は影になる部分では茄子紺なすこん色の浅い色合いから濃い鉄紺色に変化している。しかも、色彩が主線をはみ出ている部分もある。また、影を表す線描が宮の身体の向かって右側の部分に加えられ、それが顔にまで及んでいる。
 この絵を初めて見た時に、顔に影の線はいらないのではないか、すでに影が描かれている顔にさらに線を加えるとは大胆なことだと思った。
 その時に連想したのは、印象派の源流のマネの絵画で人の顔や輪郭がぶれた写真のように曖昧に表現されている事例であった。しかし、太田の描き方を知るにつれて、印象派のような描き方をしているわけではないと思うようになった。
 ペン、あるいは鉛筆によるクロッキーに着色している感じだ、というのが今の理解である。

並行する線による影

 並行する線を並べる影の付け方は、太田が好んでいる描法であるが、スケッチ画集『蛇のから』(明治44年3月20日、精美堂・博文館)から事例となる無題の作品を一つ紹介しておこう。本を読む女性を描いているが、影を並行する線で表している。瞬間をサッと捉えるということを線の即興性が示している。

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添えられたテキスト 

 さて、『金色夜叉画譜・上』は、見開きで、絵と作品から抄出したテキストを並置している。
 宮の絵に添えられたテキストは次のようなものである。


ひとみやのみはさわげるていくて、そのすゞしき眼色まなざししもの金剛石ダイアモンドひかりあらそはんやうに、用意深たしなみふかく、心様こゝろざまゆかし振舞ふるまへるを、崇拝者すうはいしやは益々よろこびて、我等われらしたまゐらするかひはあるよ、ひとへ此君このきみほうじて孤忠こちうまつたうし、とみとの勝負しやうぶたゞ一戦にけつして、紳士しんしにくつらかは引剥ひきむかん、と手薬煉引てぐすねひいてちかけたり。


 富山銀行の跡取り富山唯継が座に現れた時、多くの人はその指に光る三百円の金剛石ダイアモンドに目を奪われるが、宮はそんなこともなく、その美貌の輝きは金剛石と競いあうようで、人々は美と富の勝負を待ち望んでいる、というのである。
 彩色されているのは宮だけであり、スポットライトを浴びたようである。即興的に瞬間をとらえたということを表す線描と彩色は、略筆画の伝統につながるようでもある。

はみ出す色

 色が輪郭をはみ出す事例は丹緑本たんろくぼんにある。
 『日本古典籍書誌学辞典』(1999年3月10日、岩波書店)の「丹緑本」の項(湯浅淑子氏執筆)によると、17世紀、寛永から万治にかけて「墨摺りの挿絵に特色のある彩色を施した版本が刊行された」が、「丹・緑青・黄の三色が用いられており、丹と緑が多用されている」ことから丹緑本と呼ばれ、彩色のやり方は「輪郭をとってきれいに塗りあげるのではなく「筆まかせ」に色を「点じた」ような「ゑどり本(筆彩の本)」であった」という。
 太田は、おそらく「筆彩」つまり、手彩色の感触を木版画という摺りと圧による技法で表現したかったのであろう。筆の走る感触を印刷による絵に残すことが太田の試みには含まれていた。
 宮の表現によく表れている伝統につながるモダンな感覚に私はつよくひかれたのである。
 この〈伝統につながるモダンな感覚〉というのが太田の表現の最も重要な特徴なのである。

*「国立国会図書館開館60周年記念貴重書展学ぶ・集う・楽しむ」のサイトに「奈良絵本・丹緑本」の紹介がある。


近代の絵入り本 

 『金色夜叉画譜』の下巻は刊行されなかったが、それは時間をおかずに、鏑木清方かぶらぎきよかた画・尾崎紅葉作『金色夜叉絵巻』(明治45年1月1日、春陽堂)が刊行されたためである。
 1910年前後には、このような絵入り本がたくさん刊行された。その見取り図については、安井眞奈美、エルナンデス・アルバロ編『身体の大衆文化 描く・着る・歌う』(2021年11月12日、KADOKAWA)の「第1章 近代の絵入り本──〈本の絵〉と〈版の表現〉の視点から」で示した。

 これを書いたあとで、太田三郎が〈版の表現〉すなわち、印刷による絵画表現の可能性を広げた重要な人物であることを再認識した。
 次回は太田の画業を概観してみたい。

*編集履歴
2022年1月30日 埋め込み修正。

2023年9月15日 記述一部修正。

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