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『明星』の木版:和田英作《ジブラルタル》
はじめに
東京新詩社の雑誌、第一次『明星』は、誌面上で文学と美術の交流をはかり、なかでも版画の掲載を目標の一つにしていた。
主宰である与謝野寛は、「明星」終刊号(1908年11月5日)の「感謝の辞」で、「新詩の開拓と泰西文芸の移植と、兼ねて版画の推奨とを以て終始し得た」と書いている。『明星』は最後の2年、1907年、1908年は売れ行きも落ちて、版画の掲載は激減したが、1905、6年頃は、意欲的に多色木版を掲載していた。
1906年の『明星』表紙画
『明星』午歳第4号(1906年4月1日)掲載の和田英作の《ジブラルタル》を取り上げてみよう。
表紙画は、藤島武二作。製版は、拡大してみると網目が出るので写真網版である。藤島は、1905年11月18日に横浜から文部留学生として欧州に留学するために船旅に出た。フランス到着後に表紙画が送られてくるはずであったが、届かないので、残された未定画稿から選び、午歳第1号からこの表紙画が使われた。
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ジブラルタルのザ・ロック
さて、和田の《ジブラルタル》の木版彫刻は、目次によると伊上凡骨が担当している。
和田英作は、天真道場で黒田清輝、久米桂一郎の指導を受け、白馬会の創立時の会員。近代洋画の重要な画家の一人であるが、絵葉書作家としても活躍した。
1899年に渡独してアドルフ・フィッシャー収集の日本美術品の目録を作成する。1900年からは文部留学生として、パリでラファエル・コランの指導を受けた。
《ジブラルタル》は渡欧の際に通過したジブラルタル海峡のザ・ロックを描いている。ザ・ロックは、イベリア半島の南の端に位置する石灰岩の一枚岩で観光の名所。検索で現在の写真を見ると、版画とは逆方向から見たものが多い。
錐の先のようにアフリカ側に突き出ているので、東西、どちらから見るかで岩の形が異なるのである。今は、海沿いのところに建造物を見出すことができるが、和田の留学当時は何もなかったのだろう。
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*トリミングあり
ちょうどnoteにザ・ロックの記事と写真を見つけたので、リンクをはっておく。同じ角度からの写真が何枚かある。
細かく見てみよう
この木版は水彩画の模写複製のように思われる。凡骨には原画の水彩画が版下絵として示されたのだろうか。あるいは、原画を複製した版下絵が示されたのだろうか。
版数は正確には分からないが、8〜9版程度だろうか。
山のところは3版だろうか。一番濃い部分はぼかしの手法が使われている。海の左右両端にもぼかしが使われている。
空の一番薄い色のところは板の目がはっきりわかる。
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ザ・ロックの中央部分の濃い部分のかすれを拡大してみよう。筆の感触がうまく表現されている。どういう彫りと摺りなのだろう。
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紙は洋紙を使っている。
縦に透かしの線が何本か入っている。裏からの画像を見るとよくわかる。この線に意図があるわけでなく、たまたま線が入っていただけなのだろうか。
版画の縦のラインと、この透かしの線は若干ずれている。
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当時の雑誌の別摺りの版画には前のページに薄紙がついている。色移りを避けるためである。
バレンの跡
裏を見ると、右方向に向けて少し湾曲した無数の線を見出すことができる。
バレンを使った時の痕跡だと考えられる。
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京都の竹笹堂の北斎《富嶽三十六景 凱風快晴》の復刻の過程を写真でたどる、竹中健司・米原有二『木版画 伝統技法とその意匠』(2021年12月11日、誠文堂新光社)から、バレンについての解説の一部を引用しておこう。
バレンの素材には、竹皮と和紙、漆といった日本国内ならどこでも入手できる材料が使われている。細く裂いた竹皮を撚り合わせた「バレン芯」を、和紙を何十枚も貼り重ねて漆などで固めた「当皮」にのせ、それを竹皮で包んでいる。こうした素材や製法は、浮世絵師によってバレンが考案された江戸中期頃からほとんど変わっていない。
『明星』の部数については諸説あるが、1906年は2000〜3000部ではないだろうか。その程度ならバレンを使った手摺りで対応できたのだろうか。
当時は木版の機械刷りも普及しはじめていた。
新しい号にはどんな版画が掲載されているか、当時の読者は楽しみにしていただろう。伝統的な錦絵とは異なって、『明星』掲載の手摺りの木版画はモダンな感覚がある。
版画を切り取って額絵にした人もいるようだ。