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画文の人、太田三郎(4) 洋画について

 わたしが、太田三郎の画業の中で一番評価したいのは、スケッチ画や木版画、そして物語・詩歌と絵を組み合わせた試みである。
 それらは、〈版の表現〉、すなわちさまざまな手法による印刷によって表現された〈本の絵〉であり、複製技術によるものだ。
 しかし、太田の画家としての活動の幅は広い。洋画や創作版画、それに日本画も制作している。わたしは美術史に詳しいわけではないが、避けて通れないので、太田の画業について、見渡しておきたい。まず洋画から見ていこう。

『日本美術年鑑』から

 いつものように、東京文化財研究所のサイトに掲載されている『日本美術年鑑』昭和45年版(70-71頁)の太田三郎の記述から、引用しよう。

洋画は、大正2年(1913)、第7回文部省美術展覧会に『カフェの女』を出品して賞を受け、夙にヨーロッパ留学を企てていたが、世界大戦(第一次)に妨げられて遅れたのを遺憾とした。大正9年(1920)に至り同11年(1922)まで滞欧の念願を遂げ、フォービズムとキュビズムとの影響を受けて帰朝、作風の変化を見せ、爾後、裸婦を主とした作品を官展に発表し、昭和8年(1933)、帝展審査員を命ぜられた。
  *「太田三郎」『日本美術年鑑』昭和45年版(70-71頁) より抄出

 洋画家としては、断続的に文展に入選し、帝展には持続的に出品して入選を重ね、昭和8年に帝展審査員になっている。順調な歩みと言えるだろう。

《カツフエの女》

 まず、『カフェの女』とあるが、出展時の正確な名称は《カツフエの女》といった。大正2年の第7回文展で三等賞を得た油彩画である。
 翌年の大正3年2月、雑誌『現代の洋画』23号の版画特集号に創作版画として発表された《カフエの女》も同じモチーフ、すなわち、客に酒食を提供するカフェの女給が椅子に寄りかかっている姿勢を描いている。
 わたしは、当初は版画の方しか知らず、それが文展の受賞作だと思い込んでいた。
 油彩画《カツフエの女》と木版画《カフエの女》はモチーフは同じでも、感触は大いに異なっている。創作版画については、スケッチ画集における多様な印刷手法を経験した後で行き着いたものと思われるが、後に取り上げることにしたい。

 さて油彩画《カツフエの女》の絵葉書があるのでそれを紹介しよう。
 文展は一般大衆にも人気を博したが、東京から遠い地方在住の人が展覧会に来るのは簡単ではない。そのため出品作品の彩色絵葉書が発行された。
 印刷は三色版だと思われる。三色版はイエロー、マゼンタ、シアンの版を作り、それを重ねてカラー印刷を行う技法である。実際にはこの3色に黒(墨)を加えて印刷されることが多かった。拡大するとドットの集合であることがわかり、再現性には限界があるが、それでもモノクロ図版よりはオリジナルの感触を伝えてくれる。

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 籐の椅子にかけた女給が卓に寄りかかっているという構図である。
 よく見ると右足が草履から離れて浮いている。
 テーブル上の白布は女給が身につけていた前掛けだろうか。
 仕事が終わって倦怠にとらわれた瞬間を描いているようだ。
 足を浮かせているポーズに少し作為があるかもしれない。
 固定されたポーズを示す静止画のような画面ではなく、倦怠の一瞬を捉えることに意を注いでいる点にこの絵の面白さがある。
 描き方は白馬会系統の写実性を基本にしているが、床や壁のタッチ(筆触)には装飾性が感じられる。
 夭折ようせつした渡辺与平の《ネルのきもの》(明治43年第4回文展三等賞)や《帯》(明治44年第5回文展)の筆触から影響があるのではないだろうか。
 長崎県美術館蔵の《帯》の画像を見て、壁や畳の表現と比較するとよくわかる。

 もっとも、こうした細かな筆の跡を多様な色彩でキャンバスに残すタッチ(筆触)は、黒田清輝が外光派的表現で屋外を描いた手法を室内の背景表現に応用したものと見れば、それほど独自のものとは言えないかもしれない。
 文展第11回展に出した《卓に凭りて》も《カツフエの女》と同じ傾向の作風で、大きな変化が見られるのは、1920年から1922年にかけての滞欧体験を経た後である。

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児島喜久雄の否定

 太田三郎の洋画集としては、『太田三郎作品集』の第一輯(昭和12年11月15日、美術工芸会)と第二輯(昭和14年7月31日、美術工芸会)がある。口絵を除いてモノクロ印刷であるが、滞欧後の作風の大要はつかむことができる。残念なことに、制作年次や出展歴についての記述がない。
 公開された国会図書館の「次世代デジタルライブラリー」で太田三郎を検索すると、いくつかの評価を見出すことができた。この検索機能は、収録された書物の該当箇所のテキストファイルを引き出すことができる点に特徴がある。
 本来ならば、総合雑誌や美術雑誌の展覧会評を細かくあたって評価を集積しないと、しっかりしたことは言えないが、疫禍えきかの下での不自由さを言い訳にして、検索の結果を使って太田の評価について示しておこうと思う。

 太田に否定的な評価を与えているのは、児島喜久雄の『美術批評と美術問題』(昭和11年12月5日、小山書店)に収められている、昭和8年の第14回帝展について書かれた「帝展洋画評」(初出は、昭和8年10月「東朝」とある)という文章である。

 児島は、美術史・美学の研究者で、『白樺』に近く、東京帝大の美学の教授となった。児島はレオナルド・ダ・ヴィンチの研究で知られ、自ら絵も描いた。
 児島の本は、美術批評に方法意識を持ち込もうとしている点で意義があり、挿絵画家についても目配りがあって、おもしろいものである。
 さて、児島は、太田については作品名も上げず、「現在の帝展は太田三郞君程度の畫家でさへ審査員たり得るやうな組織である。」と書いている。
 作品を割り出そうとしていると、拙ブログの読者が、第14回帝展の太田の出品作が絵葉書としてヤフオクに出ていて《モデルたち》という作品であることを教えてくれた。絵葉書を購入したが、これも三色版によるものである。

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 時間待ちをしている豊満な体躯のモデルたちが、ソファに横たわったり、椅子にかけたりしている群像である。
 色彩としては褐色の裸体が目立っている。敷物の重なりも狂いなく描かれているし、俯瞰視点も破綻していない。

石井柏亭はくていの評価

 石井柏亭の『日本絵画三代誌』(昭和17年7月15日、創元社)に収録されている「洋画の諸流」(初出未詳)から、太田の試みについての評価を引用しておこう。

 太田三郎は文展時代の「カフェーの女」とは全く打変つて、渡欧後は近代画風の影響を受けた人物諸作を次々に公けにした。銅色をした裸婦の肉体、日本画の方に一時行はれた片ぼかしのやうなアクサンに対しては批議もあらう。日本画の出である彼の東西美術に関する常識は豊かである。


 「銅色をした裸婦の肉体」への批判には、もしかすると児島喜久雄の否定的評価も含まれているのかもしれない。
 石井が太田に共感的なのは、画歴にいくつか共通点があるからだと思われる。
 まず、柏亭は大蔵省印刷局の彫版見習生から身をおこしている苦労人であり、日本画と洋画の双方の訓練を受けている。また、柏亭は『明星』に挿絵を寄稿し、『方寸』では版画を制作している。
 日本画、洋画双方の技法に習熟しており、装飾美術を否定せず、また版画の可能性についても探究している点は、石井と太田に共有されている。

 石井柏亭は1922年にパリにいて、秋の官展(サロン・ドートンヌ)に日本の現代美術の展示室を設けることに協力していて、その日記が『美術と自然 滞欧手記』(大正14年6月1日、中央美術社)に収録されている。
 太田の滞欧時期と重なるので、面会していないか読んでみたが、残念ながらその事実はなかったようだ。
 ただ、石井も欧州の新潮流に触れて実験的なスケッチを試行していたことが、挿絵として挟まれている絵からうかがえる。

スタイルの確立が第一義

 1920年代に洋行した画家たちにとって、洋画の技法を必死に吸収することよりも、他者とは違う自分独自の様式・スタイルをいかに確立するかが重要な課題であったのではないだろうか。
 わたし個人の嗜好からいうと、初期の《カツフエの女》に現れている現実をどう捉えるかという問いの初々しさを好ましく思う。
 様式・スタイルの確立ということは、絵画を現実から隔離して括弧の中に包んでしまうという転倒を含むのではないかと考えるからだ。

 『太田三郎作品集』第二輯から、一点、風景画《山湖雨霽》(制作年未詳)をあげておこう。

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 幅の広い筆の筆触を残しているところ、また、家屋などに輪郭線を描いているところが特色であろう。ほんの少しだが、ラウル・デュフィの感触もあるようだ。
 西欧の画家たちが到達した地点は、近代日本の画家にとっては大いなる迷いの場所として現れるのかもしれない。
 児島が太田を認めないのは、理念の葛藤が画面からうかがえないからだろうか。しかし様式・スタイルの獲得は、現代日本洋画の命題であり続けた。

 そう考えると、印刷技法としての〈版の表現〉の領域で試行された〈本の絵〉は、洋画とはまた別の消費される民衆画としての可能性を示しているとも思われてくるのである。


*次回は日本画について取り上げます。


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