赤虫#4
天が高くなったので、少女たちは走らなければいけなくなった。
少女は見ている。
時計の短針が15を指し、ぴったりに少女らが昇降口から吐き出されるのを見ている。
少女らの馬跳びが規則的すぎるのを、オニヤンマが飛んできて誰かの尻へしがみついたのを、ピカピカ光るジャージの青を、雲が一つもない書割りの空を、見ている。
この街はやはり狂っている、と少女は思う。
囚人の如き狂いなく一列に並んだ少女らの傍で、松葉杖で以て線を引く。少女が書いた線は、腸のようにうねりながら、スタート地点になった。
少女らは走る。BPMは200。
少女は追いかける。
打ち込まれた足音から、外れた調子で追いかける。
もう数分で追いかけているのか追いかけられているのかわからなくなるだろう、と少女は思う。
角を曲がり校舎の裏に入ると、少女は胸ポケットからイヤフォンを取り出す。男の歌はいつも少女の味方であった。円盤上の男に合わせて、少女はまた歩き出す。
畑には案山子代わりにマネキンの首が掲げられ、用水路には女児の靴が流されていく。選挙カーが真実を撒き散らし、少女を追い越していった。
いい風が吹く。
赤い羽根がきりきり舞う。
学校教育に上手く忍び込んだ数枚の小銭と、ピノキオの帽子についてくるアレである。
赤い羽根はしばらくやけくそに舞っていたが、ふと風を掴んだ。そこからは得意げである。案山子の頬を切り、蚊柱を破壊し、遠近法を踏み台に、太陽目指してそのまま見えなくなった。
少女は嬉しくなる。
赤い羽根の本来の姿を見たのは、少女が人類初である。
しかし、少女はまだ気が付かない。少女がたった今、刮目した自由の羽根が……
おうい
どこからか少女を呼ぶ声がする。
おうい
二曲目が終わり円盤上の男がふと足を止めた瞬間、少女にもその声を聞くことが出来た。
おうい
少女は探した。
黄金色の田園、一時間に一度閉じられる踏切、我らが監獄、クラウンの停まる民家、烏、雀、遠くのとりせん、どこを見回しても人影がない。
少女はイヤフォンを外した。
道路の反対側に、二階建てのあばら屋がある。一丁前に外階段がついていて、その茶色く錆びきった最上段に何やら人影である。
おうい
少女の虹彩は乱暴にズームされ、その男を捉えた。
男はロン毛である。青いジーパンである。膝を曲げ、腕を交差し、気怠そうに、むしろ気取ったように着席しているのである。
少女は動けない。
それはその男があの男にそっくりだったからではない。全身に、特に身体の真ん中に熱い蒸気がほとばしるのを感じとったからである。
それから、イメージがふと頭に浮かんだ。赤や黄みがかった、青い脈の這う肉の壁がゆっくりと蠢くのが。さらに熱を帯びて、湿ってむわんとした奥の暗がりへと続いていく様が。
少女はまだ知らない。
少女はまだ知らないが、同時にこの世の全てをわかってしまった。
少女はそのとき、太陽を掌握したのである。
男は立ち尽くす少女に問うた。
君、君は何を聴いているのだ。
少女はあの男の名を呼び捨てた。
君、君はレコードを聴いたことはあるか。
少女は首を振る。
君、家においでよ。レコードを聴かせてやろう。
少女は躊躇う。
男は階段から降りてくる。硬そうなジーンズから、青い煙草が出てくる。砂利を鳴らすと、雑種犬が吠える。男は手を挙げてそれを制した。
君たちが走るのを眺めていたんだが、まるで円盤の奴隷みたいだネ。囚人だネ。
コンパクト・ディスクもいいけれど、レコードはもっといい。終わりがくるからさ。アルバムを一周したら、はいおわり。
少女はやはり躊躇う。躊躇うが、同時にひきつけられてしまう。男から目を離すことが出来ず、凝視の果てに睨みつけ、下半身だけは今にも逃げ出さんばかりである。差し出された餌を前に、欲と防御本能がせめぎ合う野良犬のようである。
嫌ならいいさ、と男は寂しそうにした。
ピンと張った細い糸がプッツン切れたようだった。途端に少女はぐらりと揺れ、玄関へ向かう背中を見ながら、思わず呼び止めてしまった。
「あとで、必ず来ます」
男は振り返り、煙をふうっと吐いた。白いのが風に乗って、少女の黒髪を撫でた。
これが少女の精一杯である。教師、制服、数学Ⅰ、渡り廊下、アカハライモリ、灰色の朝、目覚まし時計、母親、食卓塩、勉強机、天井のシミらが砂煙をあげて大挙し、少女は攫われた。ある意味での救済だったのかもしれない。
煙草の香だけが、呪いのように少女にへばりついた。