見出し画像

私と光栄ゲームパラダイス(11)

1996年に創刊された『月刊DaGama』は、ゲーム会社光栄(現コーエーテクモ)が刊行する、歴史とゲームをテーマにした投稿雑誌だった。

前身となる光栄ゲームパラダイス(1993年創刊)から足掛け3年と半年、門外漢ながらも謎のモチベーションと勢いで作品の投稿を繰り返し、膨大な量の作品のしかばねを乗り越えて、ようやく「常連」を名乗れる一歩手前までたどり着いた。

もうひと押し。さらなる高みを目撃すべく用意した投稿のネタは『封神演義』の「宝貝(パオペイ)辞典」。

後に週刊少年ジャンプで漫画化、スマッシュヒットを飛ばす事になる中国歴史小説だが、この頃は知る人ぞ知るマイナージャンル。普通なら中々手を出さないテーマだけど、この頃光栄から完訳本が出版されていた事から、同社がプッシュしたい題材であろう事は見て取れた。

また、同時期に月刊コミックトムにて、封神演義を題材にした漫画『殷周伝説』が、御大横山光輝先生によって連載中だった。

頼りない嗅覚を総動員して「兆し」をキャッチした私は、作品の中で仙人や魔物が扱うマジックアイテム、総称「宝貝(パオペイ)」に目をつけ、半年前からリスト化していたのだ。

先だって、三国志の一騎討ちをまとめたリストを投稿して採用された事もあり、満を持して「封神演義・宝貝辞典」を投稿したのだった。

その数ヶ月後。『月刊DaGama』の次号予告に「特集封神演義」の文字が踊った。

喜ぶのはまだ早い、とは思いつつも、だけど期待するなというのは無理な話だ。

発売日、膨らみすぎて破裂しそうな胸を両手で抱えながら、書店に駆けつけた。

予約してた1冊と、ラックにて通常販売されていた1冊、合わせて2冊を購入。この頃は、読む用と保管用を合わせて購入していた。次号も入荷しますようにとの願掛けも兼ねて。

踵を返し、ダッシュで自宅に帰り、ページをパラパラ。

ドーン!

載ってた。載ってたよ!

(この頃、まだジャンプ版『封神演義』は連載前)
(ページ下部の表が私の作品。勿論イラストはプロの手による物です)
(我ながら力作。よく見ると誤字がチラホラ見えますが)

先だっての三国志一騎討ち辞典に続き、今回も数ページに渡っての採用に、思わず顔がほころんだ。

こうなったら、益々やめられない止まらない。さらに加速した投稿モチベーション、それにさらに話をかける出来事があった。


『月刊DaGama』編集部は、読者との集い(今で言うオフ会)を「交流会」と名付けて、全国各地で定期的に開催していた。インターネットの普及前に於いては貴重なコミュニケーションの場だった。

その交流会が、近いところでは今度奈良に来るとの告知が誌面に載ったので、ものは試しに参加してみる事にした。

電車を乗り継ぐなどしておよそ2時間、奈良駅から徒歩数分、アーケード街の中の貸会議室が会場だった。

扉を開けて中に入り、受付で簡単な手続き。人に向かってペンネームを名乗るのはこれが初めての事。慣れない感覚に耳を真っ赤にしながら「え、ええと、参加の申し込みをしたドン・ガ馬超と申します…」

「え!」

受付の、恐らくは編集部の方からの、思いもよらぬ反応に体が強張った。

「いやあ、ガ馬超さんの投稿がないと、毎月の特集記事が成り立たなくて…」

勿論多分に冗談的なニュアンスが含まれてるのを承知で、それでも嬉しいのなんの。独りよがりの自己満足投稿生活に、まさかこんなご褒美が待ち受けていたとは。

その後もご褒美は続く。

参加者の自己紹介タイムでペンネームを名乗ると、ざわつく周囲。

「あの人があのドン・ガ馬超…」
「もっとオッサンだと思ってた」

小学生の頃に遠足で来た以来の奈良で、自分の事を知っているから方がこんなにも居るなんて!全国誌スゲー!月刊誌スゲー!

その後、たしかカードを使ったじゃんけん大会(カ⚫︎ジ)みたいなやつや、好きな三国志武将について各自語るコーナーなど、楽しい時間はあっという間に過ぎて。

はっきり覚えていないけど、昼休憩に何人かでゲーセンに行って『天地を喰らう2』をプレイしたり、終わった後打ち上げでカラオケに行ったような。

舞い上がってフワフワした私は、その後近鉄電車を乗り間違えてしまい、
京都方面に帰るべきところを、気がつくと大阪難波のホームに立っていたのだった。

(つづく)

※携帯電話は普及していたものの、カメラ機能なんざ考えられなかった時代。なので奈良交流会の画像はありません。


(童門冬二先生インタビューは1996年12月号に掲載)
(1996年12月号付録は人形劇三国志の諸葛亮ポスター)
(この頃の光栄出版部は熱量がものすごかった)
(この頃の光栄のチャレンジ精神は異常。上は英会話学習ゲーム、下は日本史の)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?