私と光栄ゲームパラダイス(12)
編集部主催の交流会(今で言うオフ会)に参加する事で、編集部の方や自分以外の投稿者、そして読者の皆様と接する事ができ、自分が各位にどう認知されているかなど、投稿生活だけでは知れなかった刺激を得る事ができた。
このことを受け、投稿の戦略についても、自分の描きたい物から相手にインパクトを与える作品へと、より一層シフトする事となる。
自分の描きたい物が載った喜びも捨てがたいのだけど、認知される喜びの方が一歩リードした形だった。
当時プレイステーションで発売されたシューティングゲーム作成ソフト『デザエモン』で、三国志のゲームを作って投稿した。
その名も『周提ングゲーム』。
後の周瑜が、血を吐きながら打倒諸葛亮を目指すストーリーで、1面はvs劉表軍、2面は赤壁、3面はvs蜀軍、4面で暗黒面に落ちた蜀軍、ラストステージは魔界で諸葛亮との対マンバトルだ。
BGMは光栄の『三國志』シリーズから素人耳コピした3和音音源。無論楽譜など読めないから、小学生がリコーダーで好きなアニメの曲を吹く時のようなイメージで、一音一音並べては再生して、違ったら一音ズラしてまた再生。
素人ゆえの不協和音が、後半のストーリーとガッチリ噛み合って、我ながら傑作であった。
さあ、ここに来てまさかのゲーム投稿、一体どう誌面に載せるというのだろう、流石にやり過ぎな気がしたら、案の定画像1枚だけで華麗にスルーされた。いやいや、今思えばよく1枚も載ったなと思うけど。
というわけで、作品の投稿としては今ひとつの結果だったゲーム投稿、しかしインパクトはあったみたいで、後の交流会で「やってみたい」との声を結構を聞く事ができた。
その『周提ングゲーム』、メモリーカードに移して、反響をくれた数名に貸したけど、ひとつも戻って来ず、今手元には残っていない。久々にプレイしたいけど、何かの弾みで戻って来ないかなあ。
その後も投稿はしっかり行いつつ、味を占めた交流会にも積極的に足を運んだ。ライブの遠征にも似た節約術を駆使しつつ、名古屋、横浜など各地に飛んだ。
そんな折り、あれは名古屋の交流会だったか、序盤の自己紹介タイムにある読者の方から衝撃的なひとことが。
「ドン•ガ馬超さんのファンです」
ひゃっ!?
思わず心の中で声が裏返る。
え、今なんて?え、ふ、ファン?扇風機の英語訳?え?え?
当時創作のアマチュア業界事情に全く疎かった事もあり、そんなファンなんて物は、商業誌で人気の、なんならアニメ化されるような大御所につく物だと思っていたから、ましてや全員に注目される自己紹介タイムでの告白。
最初に思ったのは「こ、この人大丈夫?」(失礼な)
今振り返れば、どうかしてたのは勿論こちらで、とても気軽に「この人の作品結構好きかも」位でも「ファンです」と言える土壌が、当時のアマチュア創作界隈にはあったのだ、多分。
しばらくして冷静になってからその言葉を胸の中で反芻したら、そりゃ嬉しいのなんの。感謝感激雨あられ。
いやいや勘違いはすまいぞ、と自戒しつつ、顔はにやけっぱなしであった。
なんなら帰りの新幹線の中で、ずっと。
(つづく)
(おまけ1)
それにしても書いてて赤面してしまう案件だ。でも、書き手が苦しい程、読み手は興味が湧く話題なのではないか。本人同士がやりたくない試合こそ、お客さんが一番見たい試合だ、とはさる高名なプロレスラーのお言葉。ダーッ!
(おまけ2)
そう言えば、当時は携帯電話こそ皆が持ち始めた頃だけど、メール機能はなく、電話代も高額で、定額プランなどもなかったので、オフ会で知り合った方々との後日のコミニュケーションは、もっぱら電話か文通であった。
そのため、勿論公開の可否を各位に確認した上で、主催者や有志から名簿が配られたりしたのは、今思えばちょっと怖いし、とても大らかな時代だった気もする。問題もちらほら聴こえてはいたけど…。
個人的には、(当時)仲良くなった人には、結構な頻度で電話をかけてて、それは振り返れば、相手にしたらかなりウザかったのでは、と思ったり。
若さとコミニュケーション無学ゆえの失敗談。ただ、けして変な意味はなく、純粋に会話が楽しかったのです。その節は失礼しました。そしてありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?