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2023年10月の記事一覧
私と光栄ゲームパラダイス(14)
1996年に創刊された、歴史とゲームの投稿誌『月刊DaGama』。
積極的に読者と編集部の交流イベントを企画していた同誌が、ついにその総本山である編集部を見学できるという企画を打ち出した。
同時企画として、当時発売されたての格闘ゲーム『三國無双』の大会も行われるのだという。
もちろん応募して、抽選の結果見事当選。
なけなしの貯金をはたき、新幹線で神奈川県は日吉に向かう。自身初めての関東入り
私と光栄ゲームパラダイス(15)
1997年3月20日。神奈川県日吉の株式会社光栄(現コーエーテクモ)内、月刊DaGama編集部にて行われた「編集部見学ツアー」。
同時に行われた「三國無双大会」で見事に優勝した私は、しおざきのぼる先生のイラスト入りの賞状や、同ゲームの非売品公式グッズを手に、ニコニコで記念写真に収まった。この様子は、次号の『月刊DaGama7月号』に掲載されるのだという。
え?顔写真が載るの?
ただ、過去の編
私と光栄ゲームパラダイス(16)
時は1997年、ひょんな事から月刊DaGamaに顔写真が載ってしまい、それがバズってしまう。
概ねお褒めの言葉が多かったが、本人は馴れない事態にどうして良いかわからず右往左往。とはいえ、順次ネタ的に消化され、じわじわと鎮静化、次第に平穏な投稿生活の日々が戻って来た。
ただ、今後私の作品が採用されて誌面に掲載される度に、一部の方々は私の顔をそこに重ねるのではないかと思うと、適当な数合わせ作品は迂
私と光栄ゲームパラダイス(17)
1997年も半分が終わった頃。
相変わらず実力は冴えないが、弱者の戦略と、謎のバズりを経て、毎号数通は必ず採用されるようになり、気付けば『光栄ゲームパラダイス』のVOL.8から26号連続で没なし街道を爆進、ランキングも常に1桁をキープして、「常連」を名乗るのにも我ながら抵抗は少なくなっていた。
それでも、前述の通り実力には折り紙が付かず、そして同等のランクの御歴々を眺めれば、真に実力で上がって
私と光栄ゲームパラダイス(18)
『光栄ゲームパラダイス』創刊から4年経った1997年。『歴史パラダイス』、そして『月刊DaGama』へと誌面も変遷して行く中、ついに念願の通算100ポイントに到達、限られた投稿者だけに与えられる称号「月刊DaGama友の会会員」に名を連ねる事になった。
素人に毛が生えるどころか、ぺんぺん草すらも生える事を拒否する不毛な世界に、ようやく一輪の花が咲いた気がした。
そんな矢先、寝耳に水な報せが誌面
私と光栄ゲームパラダイス(19)
年は変わって、1998年。
毎日コツコツ、地道な投稿生活は続いていた。
この頃、節目となる友の会会員になった事で、ひとつの欲が出て来た。
皆さんに覚えてもらったペンネームをあえて捨てて、作品のクオリティで勝負を挑みたい。
勇気ある挑戦か、自惚れによる勘違いか。
以前、誌面に顔写真が掲載された事を発端とする、誌上でのフィーバー(という名のネタ扱い)は依然と続いていたので、その事を受けて雲隠
私と光栄ゲームパラダイス(20)最終回
1993年に創刊された、歴史とゲームの投稿本『光栄ゲームパラダイス』。その意思を継いだ『歴史パラダイス』、ステップアップして月刊誌になった『月刊DaGama』、そして『歴史ファンワールド』。
6年続いたシリーズも、1999年3月に発売の『歴史ファンワールド』6巻を最期に、その役目を終え、永き眠りにつくのだった。
ありがとう、ありがとう、僕らはあなたの事をきっと忘れない。
…って、いや、ちょっ
私と光栄ゲームパラダイス(番外編)
全20回に渡りお送りした『私と光栄ゲームパラダイス』。
もっと誌面について根掘り葉掘りしたかったのですが、それをやってしまうと投稿本という性質上、他の投稿者の皆様の作品について触れざるを得ませんし、著作権的な意味でも、私の立ち位置的な意味でも、我が身の役不足感は否めず、結局単なる四十路の自分語りになってしまいました。
期待された方がいらっしゃいましたら申し訳ありませんでした。
そんな独り語り