貴志川
一人暮らしの敦子に宅急便が届いた。冷凍の鮎だ。きれいな文字で差出人に中平祐二と書かれてある。明らかに父の字ではない。宅急便の受付女性にでも書いてもらったのだろう。鮎は見事な大きさで、三十匹ほど入っていた。
敦子は父に電話することをためらった。父は耳が遠く話が正確に通じないことが多い。また何か行き違いでもあってヘソを曲げられたらやっかいだ。敦子は、和歌山の実家を飛び出してもう十五年にもなるのかと、口を結んで頬杖をついた。
生まれ故郷は和歌山の高野山麓にある山村だ。山間を縫うように貴志川という小さな川が流れている。ダムのない清流で、上流部は渓谷の様相だ。ここに中学まで居た。高校は和歌山市内の商業高校に行き親戚の家に下宿した。父との衝突は十八の時に起こった。
七歳も年上の男と駆け落ちをした。
「もうお前は俺の娘やない。どこなと行ってひとりで暮らせ」
父は震えながら背中を向けた。敦子はひるまなかった。時間が経てば分かってくれるだろうとたかをくくっていた。男は和歌山市内にあるスポーツ店の息子で、働きもせずスポーツカーを乗り回していた。プロポーズをされたのは卒業式をひかえた未だ寒い日のことだった。父は男に対し烈火のごとく怒りをぶつけた。幼い頃に母を亡くした敦子に、父との仲を取り持つ者は誰もいなかった。
和歌山市のマンションでの同棲は半年と続かなかった。その男は女子高生をラブホテルに連れ込み、帰り道で警察の検問に引っかかった。敦子は村に帰ることもできず、親戚の叔母の家を頼りにしばらく世話になった。
「お父ちゃんに謝って家に帰りなさいって」
叔母は何度もそう言った。
「うち、もう子供やない。スーパーで働いた金で自分一人でも生活できていけるわ」
敦子は自分自身を励ますように我を通した。最愛の男に裏切られたという心の傷はそう簡単には癒えない。いくらだらしのない男だったとはいえ、なかなかあきらめきれなかった。心のどこかに、よりを戻せないかという気持ちが残っていたのは確かだ。
ある日のこと、大阪に就職した同級生から電話があった。
「あっちゃん話聞いたわよ。あんな男と別れて正解よ。私らの一年下のハルナともつきあっていたらしいわよ」
男は、最低でも三人と同時に交際をしていたらしい。
「ところで、私の勤めている化粧品会社が、簿記の出来る人を探しているけど来ない」
うつろな返事を繰り返していた敦子は、前向きに考えてみると返事をした。会社の方で宿舎も用意してくれるという。仲の良かった同級生と一緒に働けるというのも心強い。どこか遠くに行きたいという気持ちも重なって、大阪に行くことを決めた。叔母には迷惑をかけると思ったが、書き置きだけして飛び出した。相談すると父も巻き込んでまた一悶着が起こる。
数日後、叔母から勤め先の会社に電話があった。父が敦子に渡せと言って、叔母に百万円を預けたという。親子の縁を切る意味かもしれない、とその時は思った。今だにその金は手つかずのまま口座に眠っている。
その後、敦子が帰郷したのは十五年のうちに、四、五回と記憶する。父が足を骨折した時と、叔母が亡くなった時、後はよく覚えていない。さすがに、父とのわだかまりは歳月とともに少しずつ溶解したように思う。が、確実にあの一件以来父は極端に口数が少なくなったし、自分に対する接し方も、何かよそよそしい。もっとも父と娘の関係は、大人になるとこのような雰囲気になるのがどこの家庭においても普通なのかもしれないが。
敦子は今、お得意先で知り合った丸山直弘とつきあっている。直弘が偶然にも和歌山の海南市出身ということもあり、急速に仲を深めた。
「貴志川の鮎が届いたって」
電話の向こうで、直弘の声が弾む。
「父が送ってきたのよ」
「へー、お父さんって鮎を釣るのか。すごいな」
直弘は早速その晩、敦子のアパートを訪れた。
「貴志川かぁ。久しぶりやな」
直弘は言い終わるが早いか、焼きたての鮎にかぶりついた。
「うめえ、最高だよこれ」
貴志川の鮎は、白身で淡泊なうえにほんのりとした甘みがある。
「あたしは夏になるとおかずは鮎やったから。いつもカレーライスやシチューが食べたいって、よく父を困らせたわ」
敦子は頬を緩めて箸を動かした。
「夏になるとよく送ってきていたのかい?」
敦子はそっけなく首を振った。
直弘は、フーンと言いながら忙しく鮎をほおばっている。
「あたし、父とは未だ完全に仲直りできていないと思うのよ。高校出るときにケンカしちゃったままね」
敦子は短く舌をペロッと出した。
「帰ってこいっていうサインじゃないのか。仲直りしたくってさ。久しぶりに帰ってあげなよ」
「何もないのに帰るなんてありえないわ。うちの父ってものすごい頑固者なんよ。あたしの事なんて一生許してなんかくれないわ」
言いながらも敦子の気持ちは揺らいでいる。最後に帰ったのはいつだったろう。やがて、直弘とのことを父に話さないといけない時期は来る。その時、父はどのような反応を示すのだろうか。
「確か二週間後の七月二十日が海の日で三連休だったわね」
敦子はカレンダーに目をやった。
「そこちょうど俺もあいてるよ。一緒に行こうか」
「だめだめ。うちのお父さんは難しい人なのよ。いきなり行ったら追い返されるにきまっているわ」
「じゃあ電話で前もって伝えたらどうかな」
「耳が病気で遠いのよ。込み入った話なんかはすぐにいき違って混乱するわ。怒鳴られて終わりよ」
敦子の慌てぶりに、直弘は苦笑いをした。
「じゃあ、久しぶりに三連休に帰ってみるわ」
敦子は細めた目を直弘に合わせた。
海南駅からは路線バスに乗って帰郷することにした。つづら折りの山道を抜けて最寄りのバス停を降りると、貴志川には数人の釣り人が並んでいた。ひょっとしたらと思ったが、父らしき釣り人を見つけることはできなかった。敦子はゆっくりとした足取りで、実家へと続く小道を土産物を下げて歩いた。どこからか声がする。畑を探すと頬被りの女性が手を振った。近所の清子おばさんだ。
「帰ってきたんかのし」
清子おばさんは腰を伸ばして相好を崩した。
「ええ、父がいつもお世話になってます。お元気でしたか」
大人びた挨拶を返した。
「敦子ちゃん、えろうべっぴんさんになって。すっかり垢ぬけて女優さんかと思うたやして」
清子おばさんは真っ白な歯を覗かせた。若い頃は村人に会うのが嫌でたまらなかった。駆け落ちをした自分が、村人から何を言われどのような目で見られるのかが怖かった。十五年の歳月はそんな気持ちを薄め霧散させているようだ。むしろ、懐かしい人と会って話をしてみたいという気持ちにさえなっていた。
「そうそう、今うちには誰もおらんのやして。お父さんは朝早うから鮎釣りに行きよったんで、まあ昼には戻ってくると思うけど」
そう言うと、清子おばさんはまた畑にしゃがみ込んだ。
家に着くと父の軽トラがなかった。田舎の家には鍵を掛ける習慣がない。敦子は真っ先に仏壇の母に手を合わせた。懐かしい家のにおいがする。男の一人暮らしにしてはよく片付いている。洗濯物もちゃんとたたまれているし、台所も整頓されている。もっとも父は昔っから几帳面ではあった。それにしても、花瓶に花まで生けてあるのが少し女々しい気もした。
敦子は庭の一角にあるプレハブの小屋に向かった。中学生の時、父にねだって作ってもらった自分の部屋だ。扉に手を掛けると鍵がかかっていた。窓の隙間から覗くと、やはり家を飛び出した頃のままで何も変わっていない。壁に貼ったあこがれのタレントのポスターがじっとこちらを睨んでいる。ダーツの矢が何本か壁に刺さったままだった。
同級生らと騒いだ日々が脳裏に蘇る。前に帰ってきたときもそのままにしてあった。父から「自分で片付けろ」とだけ言われたのを思い出す。父にすれば娘の散らかった部屋をどう片付けていいのか分からないのだろう。まるで聖域のように時間が止まったままの空間に、敦子の胸は懐かしさと同時にどこか締め付けられるような思いがした。
ふと見るとプランターの横に見慣れぬものが転がっている。近寄ると大きな鹿の角らしかった。角は先端が一カ所、のこぎりか何かで切り取られている。何のためのものかは分からないが、父が何かに使ったのだろう。
ほのかに安堵感が漂った。父は楽しく暮らしているようだ。夏は鮎釣りに興じ、冬は鹿狩りに奔走しているのだろう。家を出て良かったとさえ思えた。お互い、一人のほうが何の気兼ねもなく自由な時間を過ごせる。いざとなったら半日で会いに帰って来られるのだ。なまじ自分がそばに居ると、やれ部屋を散らかすなとか、女らしくきれいな服を着ろだとか、しまいには早く結婚しろとせき立てられるのが目に見えている。
「あっちゃん、帰ってきたい」
軽トラが止まって聞き覚えのある声が響いた。同級生の拓也が鮎釣りの格好をして顔を覗かせる。
「あら、たくぼう。全然変わらんねえ」
「なんでや。ここ、あがったやろ」
拓也は帽子を取ると、額をピシャリと叩いて笑った。
「おやじさん、ダルマ岩の上手で釣りよったで」
拓也は忘れ物を取りに帰って来たらしい。敦子は拓也に頼んで、父が釣っている場所に案内してもらうことにした。ダルマ岩は車で二十分ほど上流に上ったところだ。地元の釣り人以外はあまり竿を出す場所ではない。
「あそこの鮎は格別にうまいんや」
拓也は忙しくハンドルを切った。
「この前、おやじさんが三十匹ほど大きいのを釣ったんやしょ」
拓也の言う鮎は、この前送られてきた鮎に違いない。ダルマ岩が見え始めた。川の真ん中に大きな岩が居座っている。その上手に微かに釣り人の姿が見えた。鮎竿を前傾姿勢で操っている。車はダルマ温泉の駐車場の端に停まった。
「釣れてまっかーっ」
拓也の大声が響く。気づいた父が竿を構えたまま振り向く。ダメだという手振りで一瞥すると、また背中を向けて竿を構えた。
「あっちゃんには気がついてないみたいやしょ。おやじさんだいぶん耳が遠くなったからかなり大声じゃないと聞こえんで」
拓也はさらに上流に行くという。
敦子は軽トラから降りると、拓也に礼を言って河原への小道を慎重に下った。父は釣りに没頭している。河原は、一抱えもある石で無造作に敷き詰められていた。その石に乗っては飛び越え、父にそっと近づいた。傍らまで来ても父は気がつかない。
「お父さーん」
敦子はありったけの声を出した。振り向いた父は目を剥いて動きを止めた。笑顔はない。頬がこけて体が一回り小さくなったような気がする。頑固親父という迫力が、いささか和らいで見えた。
「いつ帰っとったんな」
太いかすれ声が返ってきた。父が釣り竿を肩に担ぎこちらに寄ってくる。
「さっき帰ったの」
敦子は目を細めながら答えた。
「帰るときは連絡ぐらいよこさんか」
父の顔は、目玉の白いところ以外は真っ黒だ。
「拓也に乗せてきてもろうたんか」
父は上の道路にあごをしゃくった。うん、と言って敦子は石の上に座り込むと靴を脱ぎ始める。
「水、冷たいの?」
「九月に入って冷えたんや」
敦子は石の上からそっとつま先を浸した。
「わあ、冷たい」
足の芯までしびれるようだ。目を凝らすと、透き通った川の中に無数のメダカが泳いでいた。
「お父さん、アミ貸して」
言うが早いか、敦子は父の腰にあったタモ網を奪った。タモ網の柄の端に鹿の角が取り付けられている。その角を握ってメダカを追い回した。
「敦子。雨がくるぞ」
父は空を仰ぐと竿をたたみ始めた。確かに、怪しい雲が狭い空全体を覆い尽くそうとしている。帰る途中、激しい雷雨に遭った。軽トラのワイパーがきかないほど大粒の雨にたたきつけられた。
鮎は六匹釣れていた。
「敦子。七輪に火をおこせ」
父は釣ったばかりの鮎に串を刺している。敦子は倉庫に行って七輪と炭を取り出した。子供の頃からずっと使われている七輪で、置き場所も全然変わっていない。昼食は鮎の塩焼きと、敦子の作った味噌汁だけだった。父は満足げに一升瓶を手にした。
「昼間っから酒飲むの」
父は何も聞こえていない風に一升瓶を傾ける。これが退職者の気楽さというものなのか。昼間っから酒を飲んでふて寝しようが、何の制約もない自由人なのだ。父は湯飲みで酒をあおると目を閉じて短く喉を鳴らした。
「そうじゃ。冷蔵庫にうるかがあったいしょ」
うるかとは鮎のはらわたの塩からである。独特の苦みがあり父の大好物だ。敦子は卵と一緒に炒めたものなら食べたが、生のままのうるかにはいつも鼻をつまんで顔を背けていた。取り出してみると子供の頃のような抵抗感はなかった。イカの塩辛だって最近美味しいと思うようになった。敦子は温飯に生のままのうるかをもぶりこんだ。
「けっこういけるわ」
敦子の様子に父は初めて口元を少し緩めた。
「仕事は忙しいんか?」
「まあまあね。もうすっかり慣れて部下もいるわ」
久しぶりに会った父は意外に口数が多かった。
敦子が中学生の頃、父は突発性難聴という病気になった。右の耳はわずかしか聞こえていない。左の耳も聴力がかなり落ちている。話をすると、とんでもない見当違いの返答をすることがあり、相手から馬鹿と思われるのが嫌だと嘆いたことがあった。一時期、補聴器をしていたがノイズがうるさいとすぐに取りやめた。慣れたら静かな世界の方が良いんや、と潔く言い切る父を見て、本人の言うとおりかもしれないと思った。自分たちは、聞こえすぎて気持ちの沈んだり嫌になったりすることも多くある。聞こえないから気持ち良くいられる、というのはあり得ることかもしれない。そう思って、敦子は放っておいた。
その静かな世界を、突如乱したのが自分の駆け落ち騒動だった。以来、父はすこぶる会話の乏しい男になる。当然といえば当然のことなのだが。敦子は思いだすたびに胸の内がチリチリと痛む。今自分ができることは、なるだけ明るく元気に振る舞うことだろうと思った。
食事を終え、敦子が洗い物をしようとしたときである。
「ちょっと見せてみろ」
父はやおら立ち上がると敦子の手を取った。腕まくりした敦子の白い腕がまだらに赤い。よく見ると赤い斑点がある。
「お前、河原でハゼの木をつかんだやろ」
河原への小道が急で、木をつかみながら降りたことを思い出した。
「晩にかゆくなるぞ」
「何日ぐらい続くの?」
「一週間ぐらいやしょ」
九月に入ったので、職場では長袖で通せばいい。
「お前はお母に似んでもええところまで似てしもうたんやして」
母もこのような体質だったのだろうか。
「お化け杉のヤニでも取ってきちゃるか」
「なにそれ?」
「巻の谷にある樹齢八百年の大杉じゃ」
中学の時、先生からその話を聞いたことを思い出した。遠足で生徒たちに行かせたいが、道が険しく中学生でも無理だと言っていた。拓也から男子数人で行ったことを自慢されたこともある。その杉のヤニが効くというのか。迷信だとは思うが、なにより、そのお化け杉とやらが一目見たいと言う気持ちに駆られた。
「それって効くの?」
「お母はそれを塗るとすぐに治った」
「じゃあ、あたしもそこに連れてって」
「巻の谷を越えんといかんぞ」
父は敦子の体を頭から足先まで計るように見た。
「あたし、とっくにお父さんより背が高いんやで」
力こぶのポーズを見せると、父は口の端だけを僅かに緩めた。巻の谷は、昼前の雨で増水しているだろう。このまま雨が降らず、明日晴れれば行けるはずだ。
「明日行けるかな?」
「ああ、晴れたらやしょな」
父は俯いて白髪頭を手串でといた。
敦子は寝る前にスマホで杉のことを調べてみた。どうやら杉のヤニが皮膚病に効くというのはあながちでたらめではないようだ。
樹脂にはクリプトメリン酸などを含有していて、皮膚や粘膜を保護し消炎させる作用がある。幹からしみ出る樹脂を生薬名で杉脂と書いて「さんし」と呼ぶらしい。
村人に科学的な根拠は必要ない。経験的に得た効果が連綿と語り継がれてきたのだ。杉などの植物は「生き物」と呼んだ方がいいとも載っている。八百年も生きてきたのだ。人知を超えるような治癒力がなければ、生きながらえるはずがない。
翌朝、曇天ながらときおり薄日がさしていた。降水確率は四十パーセントだ。天気は午後から回復するらしい。敦子は弁当を作ってリュックに詰めた。念のためカッパも持った。
巻の谷は、ダルマ岩から半時間ほど上流に行ったところにある。でこぼこ道のカーブをいくつもまわると。水面に浮かぶようなコンクリート製の橋が見えてきた。沈下橋だ。はじめから増水時には沈むように設計されている。
軽トラは、手すりもない狭い沈下橋を歩くほどの速度で渡った。坂を上ると眼下に巻の谷が見える。本流と合流するところで谷幅を広げて大きな淵になっていた。風で舞い落ちた雑木の葉が、翡翠色の水面に揺れひしめいている。
父はリュックを背負うと「登るぞ」とだけ言って、谷沿いの小道に分け入った。敦子も続く。勾配がきつく小枝をつかんで登った。今度は軍手をしている。五分ほど登ると谷幅が急に狭くなった。一番深いところで敦子の腰ぐらいだ。三つほど大石を飛び越えれば対岸に渡れる。
「いけるかっ」
父は敦子を振り返った。敦子はしっかり頷くと「私が先に行くわ」と父を押しのける。最後の岸までが少し距離があったが敦子は難なく飛び越えた。父は、もって来た胴長靴を履くと最後は太ももまで浸かって渡りきった。
しばらく平坦な道が続く。頭上はうっそうとした雑木で、木漏れ陽が煌めいている。九月になったばかりなのに風が冷たい。登りで汗ばんだ敦子の体温は急速に冷めた。小道はまた急な登り坂になる。時に四つん這いになり、足下を滑らせながら登り切った。
突然空が開け、眼下に草原が広がった。
「あれやしょ」
父が指をさす方に敦子は立ち上がって視線を向ける。思わず「うわっ」と声が出た。巨大な老木がこちらをジッと睨んでいる。イメージしていた杉とはかけ離れた姿だ。高さは三階建ての家ほどはあるだろう。が、高さよりかは奇怪で無造作に広がった幹や枝に圧倒される。
二人はお化け杉に近づいた。幹は、大人が手を伸ばして囲んでも五、六人ではきかない。幹の肌は朽ちてささくれ、醜い腫瘍だらけの老婆を連想させる。見上げると、途中から幹が水平方向に割れ爆ぜて、大小の枝が得体の知れぬ生物のように四方八方に伸びて空を隠していた。
敦子は見上げたまま息をのんだ。
「スプーンと瓶を出せ」
感嘆する敦子をよそに、父はヤニの採取を黙々と始めた。八百年の時間は、敦子には途方過ぎて想像し得ない。ただ、自分の生きた三十三年間が、ものすごくちっぽけで些細に思えた。父は未だ怒っているのだろうか。ひょっとしたら、わだかまりを引きずっているのは自分の方だけなのかもしれない。鼻の頭に水滴が落ちた。父が天を仰ぐ。灰色の雲がちぎれては足早に流れている。
「一雨来るぞっ」
父は採取したヤニをリュックに納めると、急いでカッパを着た。引き返すと、巻の谷は予想以上に増水していた。上流部で雨がたくさん降ったのだろう。落ち下る谷の飛沫が、二人の顔に降りかかる。
「無理やな」
父はため息をついた。
「どうなるの?」
敦子が少し頬を引きつらせる。
「かなり遠回りになるが、林鉄の道を通って帰るしかあるまい」
林鉄とは、かつて木材を運んだ森林鉄道のことだ。敦子は地理的なものが分からないので、父に従うしかなかった。来た道を引き返し、お化け杉とは反対の方向の道を降りた。雨はすっかり上がっていた。カッパに蒸れて汗が出る。
「ちょっと休むぞ」
父は切り株を見つけて腰を下ろした。敦子も適当な切り株を見つけて座った。二人は、リュックから弁当を取り出して広げた。いつの間にか広大な杉林の中にいる。すらりと天に伸びる杉が空間全体を支配していた。荒い息が徐々に収まる。湿気を帯びた杉の香りが鼻の粘膜に粘り付く。ときおりピシッという乾いた音が辺りを走った。
「何の音?」
敦子がおにぎりをほおばりながら訊く。
「杉の成長する音やして」
父は表情を変えずに言った。
「ここから二時間ほどはかかるぞ」
父は立ち上がると腰をパンパンとはらった。植林された杉林は延々と続く。一時間ほど下ったところでやっと景色が開けた。二人は車一台が通れるほどの道に出た。
「林鉄の後やして」
よく見ると朽ちた枕木が一定間隔で並んでいる。レールはなかった。二人は、草の生えたバラスを踏んで歩いた。途中で小さな横道にそれる。近道なのだろう。父は両脇の草を手でかき分けた。時々その背中が隠れることもある。刹那、敦子に微かな記憶が閃いた。
「あたしはここに来たことがある」
それは敦子の一番古い記憶だった。誰かに背負われて男の人を追いかけている自分だ。それは父ではなかっただろうか。そして、背負われていたのは・・・・・・、そう女性! 母の背中に違いない。
「そんなことまで覚えとんのか」
父は立ち止まると目を丸くした。
「三つの時やしょ」
父は遠くを見るような目で語り始めた。
敦子の母はかしきをしていた。かしきとは山師の飯炊きのことである。杉の木を切る男たちは十人ほどがチームになって、山小屋で半年ほど暮らす。その飯炊きとして敦子の母は働いていた。
山小屋に泊まる期間は、敦子は村の自宅で祖父母に預けられていた。三歳になった頃、敦子は「あつも山小屋に行く」と言ってだだをこねた。祖父母はしきりに止めたが、敦子が毎夜泣きじゃくってしかたない。ついに祖父は、敦子を両親の居る山小屋にまで連れて行った。母はたいそう喜んだ。忙しくなっても敦子と一緒に居られることがなによりの幸せだと笑顔を周囲に振りまいた。
敦子は初めて聞く父の話に耳を傾ける。
「母は山仕事の事故で亡くなったんでしょう。それがここなの」
父は口を結んでこっくりと頷いた。
「お前はコクワの実が好きやった」
「コクワ?」
「ああ、山にある美味しいツルの実やしょ」
それが母の死とどう関係あるのか。敦子は父の話を神妙に待った。山風がザワザワと騒ぎ立てる。
「ある日、お前は一人でコクワの実を取りにでかけたんやして」
母は血相を変えて敦子を捜し回った。どこにも見つからず思案し、ひょっとしたらこの前食べさせたコクワの実を取りに行ったのではないかと気づき、その場所に向かう。やがて母の声が敦子に届く。敦子は必死で山の斜面を滑り降りた。突然ファーファーという大きな警笛が山に響き渡る。敦子は森林鉄道の軌道にいた。機関車が呆然と立ち尽くす敦子に迫る。疾走する母の手が間一髪で敦子の腕をつかんだ。線路の脇に転がった二人は抱き合ったまま動かない。ギギーッと言う鈍い音と共に機関車が止まる。カーブに傾いた車両の揺れが止まらない。二人が機関車を見上げた時、ブチンというワイヤーの外れる音がした。母はとっさに敦子に覆い被さった。巨大な杉の丸太が次々と落下する。
異変に気づいた山の男たちが降りてきた時には、敦子の母は息絶えていた。敦子は母に覆われてかすり傷だけで済んだ。辺りにはコクワの実が散乱し、敦子は突っ伏したまま泣きじゃくるばかりだった。
父の話が終わると敦子はその場に崩れた。両手をついて嗚咽し子供のようにわめいた。
「ワシのせいや。ワシがもっとワイヤーロープをしっかりと締めておけばよかったんや」
父は俯いたまま拳を握りしめた。
押し黙ったまま延々と軌道を歩く二人に、西陽が当たる。足下の方から川のせせらぎが聞こえた。本流に出たのだ。雑木の切れ目に沈下橋が見えた。気がつくと前を行く父が少しびっこを引いている。
「お父さん足大丈夫?」
「ああ、大丈夫やして」
沈下橋にさしかかったところで、父はいよいよ右足の調子が悪くなった。敦子が父の前に回り込むと背中を向ける。
「ほら、おぶってあげるわよ。帰り、運転もしてあげるし」
「かまわんかまわん。人に見られたらみっともないやしょ」
父は抵抗した。
「こんなとこ、誰もいないわよ。ほら」
敦子はしゃがみながら父の腰に手を回した。軽トラはもう見えている。父は観念したように敦子の背中に覆い被さった。
「軽い。お父さん毎日ご飯食べてんの」
「鮎釣りの時期は体重が落ちるんやして」
父は照れくさそうに言った。若い敦子にこのおんぶは全く負担にならない。
「お父さん・・・・・・」
「なんや」
敦子は言い出そうとした言葉をいったん飲み込んだ。
「私・・・・・・、結婚しようと思うのよ」
父の反応はなかった。
「今の聞こえた?」
「ああ」
父はくぐもった声を返した。
「大阪で働いてるけど、海南市出身の人よ。私と同い年なの」
父はしばらく間を置いた。二人をアキアカネの群れが舞い囲む。
「良かったな」
初めて聞く父の柔らかな声色だった。
山鳥の羽音に敦子は顔を上げた。遠くの稜線が西陽を浴びて浮き上がる。
「敦子・・・・・・」
「なん?」
「ワシも結婚していいか?」
敦子の足がピタリと止まった。
「お、お父さん・・・・・・いいに、いいに決まっているでしょう」
敦子は視線が定まらない。
「で、あ、相手は誰なの?」
「ほら、近所の清子婆や」
敦子の体は嬉しさで波打った。
「母さんには申し訳ないやして」
父のかすれた声が耳元で響く。
「何言ってんの、きっと母さんも喜んでくれるはずよ。私たち二人とも幸せになるんだから」
敦子は目をしばたたかせながら父をしっかりと背負い直すと、草の生い茂った小道を一歩一歩踏みしめながら軽トラックへと向かって行った。
了