大洗文学全集 第1巻
令和4年5月5日。初夏の日差しがまぶしく照りつけるもと、私は茨城県大洗町に立っておりました。
アニメ『ガールズ&パンツァー』好きが高じて、その主要舞台のひとつにやって来たのでした。
とはいいましても、私はまだ二度目の訪問、アニメの放送以来10年、既に何十度とやって来られている先輩方と比べるとまだまだひよっこもいいところです。
そこで今回は何冊かの本をおともがわりに、そこで書かれた行程をたどって、自分ではなかなか見えない大洗の新たな面を教えてもらおうと計画してきました。
その最初の一冊が畑正憲『ムツゴロウの大漁旗』(文春文庫、1979/初版:文藝春秋、1975)です。
畑正憲とともに
畑正憲。と書くよりも、通称のムツゴロウさんの方が通りがいいかもしれません。
猛烈な動物好きで、テレビを通して濃厚なスキンシップの姿をお茶の間に届けさせていたのは多くの人の知るところでしょう。
けれども、その動物好きが知れ渡ることになる北海道での動物王国の建設以前、というよりもまさにこれから北海道へ渡ろうという直前、ムツゴロウさんは一人大洗を訪れていました。
目的は釣り、その獲物はハゼでした。
その模様が描かれるのは「涸沼川のハゼ」(「月刊ペン」昭和46年5月号)というエッセイで、後に今回カバンにつっこんでいった単行本に収録されることになります。
冒頭には次のように書かれています。
一読驚かされるのはその硬質の、憂鬱さえまとわせる冷めた文章です。
川釣りの船上で、甲板に用意されたこたつに足をもぐりこませて猫背になっている姿からは、あのテレビ画面でニコニコと相好を崩し、誰よりも元気よく動きまわり甲高い声をたてる生命力に満ち溢れたムツゴロウさんは想像できません。
まさにテレビのムツゴロウさんと、文章家畑正憲の乖離を思い知らされるところです。
ムツゴロウさん、いや畑正憲は、那珂川沿いの船宿から海に向かって流れを下ってきたと思われます。
ここでかんたんに地理関係を押さえておきましょう。涸沼川は関東唯一の汽水湖である涸沼から流れ(実際にはその涸沼に流れ込む上流の涸沼川もあるのですが、ここでは割愛します)太平洋にほとんど目と鼻の先となった河口で那珂川に合流して大海原に出ていきます。
地図を見ると、大洗は涸沼川で水戸市と、那珂川でひたちなか市と隣接していることがわかります。つまり東を太平洋に、西南からぐるりと北にいたるまでを涸沼川に、全周のうち300度くらいまでを水に囲まれているのが大洗という町なのです。
そのうち、対岸に渡れる橋は4本しかなく、おまけに3本は町の西側に集中しています。残る1本が、那珂川河口の間際に掛けられた北の玄関口の海門橋です。
ちなみに、この海門橋のすぐ近くに建てられているのが、「アクアワールド茨城県大洗水族館」です。
『ガールズ&パンツァー』ファンからしますと、劇場版の前半エキシビションの決着がついた場所かつ、サメさんチームのリーダーお銀のパネルが置かれている場所としておなじみですが、実はそれ以上に、世界のサメやマンボウの集まる日本一の水族館として魚類ファンには知られているメッカなのです。
その知名度の高かいことは、椎名誠の『わしらは怪しい雑魚釣り隊 ―マグロなんかが釣れちゃった編―』(新潮文庫、2012/初版:マガジン・マガジン、2011)収録の「教養遠足・鮫のおべんきょう」でも書かれています。
椎名誠とともに
椎名誠が隊長となって、個性の強い隊員たちと全国各地でキャンプを張ってばかさわぎをくり返した記録『わしらは怪しい探険隊』はその後もメンバーを変えて継続され、その最も新しいグループが(といっても結成されて15年以上経っているのですが)、タイやヒラメといった主役級ではなくいわゆる雑魚や外道といわれる魚を釣る――という名目でやっぱりばかさわぎを行う「雑魚釣り隊」です。
『マグロなんかが釣れちゃった編』はその3冊目の単行本にあたり、結成からも4年を迎えて隊員も釣り人としてベテランになりつつありました。
開幕から早速「ベテラン?」とハテナが点灯する言葉が並んできますが、それはともかくといたしまして、
魚のことを知ろうと思うと、選択肢のひとつにあがるのはガルパン以前からアクアワールドだったというのがわかります。
私もそれにあやかって、サメとマンボウ知識を蓄えようと思い立ったところが、
このコロナ禍のなかでは当然の話でした……
再び畑正憲とともに
そうして改めて畑正憲=ムツゴロウさんの世界にもどります。考えてみたら、まだ海門橋にたどりついたばかりです。
アクアワールドの裏手には散策用の小道が用意されており、那珂川を沿って海門橋をくぐることができるようになっています。
その小道を抜けるとかんぽの宿の脇に出ることになりまして、少々遅すぎる注意看板に見送られつつ、
「大洗海岸暮鳥海風コース」と名づけられたウォーキングルートをたどり、「水戸八景 巌船夕照」という展望台に。
ここで那珂川と涸沼川の合流が眺められます。
写真の奥が那珂川で手前が涸沼川です。
眼下でふたつの河川の混じ入る光景はたしかに壮観ではありますが、この展望台はもちろん、ここに来るまでの舗装路にさえ街灯のひとつもなかったので、夕方以降にやって来るのは少々遠慮したいところです……
もちろん船で行く畑正憲は、岸壁に鬱蒼と生い茂る木々のかける影など気にすることもなく、釣り船に乗ったまま那珂川から涸沼川へと早朝の空気を掻き割ってさかのぼっていきます。
釣り場はそのまま15分ほど釣り船を走らせたところだったとのことですが、ただ、巌船夕照以降は陸路ですと、大洗側から涸沼川を見て進むルートはしばらくありません。
大洗海岸暮鳥海風コースに途中まで沿って進んでいると、田畑や林に囲まれてつい取り巻く海や河川のことを忘れてしまいそうになります。
その間にも鐘撞きを体験させてもらえる願入寺など、見どころはたくさんあるのですが、いったんここで畑正憲が目的としているハゼについてをかんたんに。
ハゼ、魚釣りの場合に指すことの多いマハゼは、全長15センチメートルほどの割に大きな頭とさらにぎょろりとした目を持ち、尾びれの方にいたるにつれて先細りになるずんぐりむっくりとした体形が特徴的です。
日本全国の沿岸の砂泥のなかにひそみ、浅瀬や川の河口近くの汽水域にまで上がってくることもあります。
また種類の非常に多い魚で、現在名称のつけられているものだけでも2000種を超えるということで、そもそも畑正憲の愛称のムツゴロウも有明海と八代海に住むハゼの一種からとられています。
海釣りではメジャーな獲物のひとつで、特に東京では江戸の時代から釣りの筆頭格として非常に愛好されていたそうです。
そのあたりの雰囲気は釣り好きで知られた落語家三代目三遊亭金馬のエッセイ集『江戸前の釣り』(中公文庫、2013/初版:徳間書店、1962)でもハゼに1章を割いていることからもうかがえます。
三遊亭金馬とともに
そして大洗の涸沼は、ハゼ釣りの代名詞といえる場所でもありました。
金馬のエッセイに、短いですがその名前が現れてきます。
戦前からの落語家らしい、江戸中心の語りがいかにもですが、涸沼の名物のひとつにハゼの数えられていたことがわかります。
では、金馬のエッセイの執筆から10年を経て、東京湾からいよいよ姿を見なくなったハゼを求めて、畑正憲もしぶしぶ大洗にまでやって来たのでしょうか。
そうでないことは、畑正憲の文章を読んでいるとわかってきます。
三度畑正憲とともに
これから東京を離れ北海道へと移住するという決意とは裏腹の正体の知れない憂鬱を抱えたまま涸沼川をのぼる畑正憲は、釣り場についてもまだ竿を伸ばす気持ちもわいてきません。
そんななかで頭を占めるのは、涸沼川でかつて味わった魚のうまさと、そして同時に急速に味わいの落ちだしたその他の地方の魚のことでした。
ハゼばかりでなく、ボラ、ライギョとその味覚を書いてから、石油臭くなってきたスズキを嘆いた後に、釣り船を操る船頭さんに声を掛けます。
年老いた船頭さんとのこの会話をきっかけに、ようやく気持ちが切り替わったらしく、釣りに集中させてハゼを次々に釣り上げていきます。
畑正憲の釣ったポイントは正確にはわかりませんが、田畑の間を通り、ココスの角を曲がって、やがてまた北上できる道を歩いてしばらくぶりに涸沼川と対面すると、岸には釣り船が停泊しているのが見えてきました。時折、激しく川面を波立たせながら翔けていく船もあります。
そして猫です。
釣り船の多いせいか、あちこちで猫を見かけましたが、レンズを向けるとすぐに逃げてしまうので、結局撮れたのは堂々とした風格で寝そべっていたこの一匹だけですが、いかにもすばしっこく身をひらめかせて私の視界のギリギリを跳びまわっていました。
やがて鹿島臨海鉄道大洗駅近くの涸沼橋へ。
ちなみにここをさらにもう少しさかのぼっていきますと、大洗駅の裏手の桜道公園に出まして、そこは『ガールズ&パンツァー 劇場版』にてウサギさんチームが野宿をしていた場所のモデルになっているのですが、すっかりと失念してしまって訪れられませんでした。不覚……
それはそれとしまして、そうして涸沼川での釣果を持ち帰り、畑正憲は獲れたハゼを刺身と天ぷらにして賞味します。
畑正憲は自ら望んで、かつての味を求めて大洗まで、涸沼までやって来ていたのでした。
そして改めて味わったかつてと変わらないハゼに新たな元気をもらい、次の一歩を踏み出していきました。
今回、畑正憲の文章を頼りに――多少脱線しましたが――涸沼川をたどっていくことで、もちろん、もう半世紀も前の情景はたどりようがありませんでしたが、それでも多くの釣り人を見て釣り船を見て、同じように歩いて周遊する人々と挨拶を交わすうちに、時代は変わり賞玩するものは変わったとしても、私たちが大洗を目指す理由は変わらないのだろうなという思いを強くさせられました。