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リソースとしての戦陣訓との接し方

 星新一といいますと、軽妙洒脱なショートショートや『声の網』などの鋭い時代批判精神による今なお古びない未来視をもった作品で、小松左京や筒井康隆とならぶ日本の黎明期SFに大きな貢献を残した巨人として現在もその名前を不動のものとしていますが、その眼差しと発想はエッセイにも活かされて多くの著作を刊行しています。
『きまぐれ学問所』(角川文庫、1989)もその一冊です。

星新一『きまぐれ学問所』(角川文庫、1989)

 章ごとにテーマを決め、それに沿った本を読んで感想を書くという、星新一流書評集、ブックガイドとなっています。
 扱われているうちでSFに直接関係してきそうなのが「未来予想」くらいなのもかえってユニークで、「ベンジャミン・フランクリン」「第二次大戦後(戦中も一部含む)の独裁者たち」「老荘思想」「李白」など一見縁遠そうな名前や事象について、どう調べてどういう感想を得たのかを知っていけるのが大変おもしろいです。

 そのなかの一章「発想法、あれこれ」に、次のような文章があります。

 山本七平氏の文も引用されている。戦争というと、いまのマスコミはすぐ「戦陣訓」にしばられてというが、兵士はだれも知らなかったのが現実だった。
 私だって教練で聞いたことがない。軍人勅諭は明治天皇の名によるものだが、戦陣訓は、昭和十六年に東條陸軍大臣の出したものだ。そんなものが、すぐに徹底するわけがない。百科事典にだって、出ていない。
 戦争について、戦陣訓を利用すると解説しやすいので、繰り返して使う。ジャップ的な性格は、いまも各所に残っている。

(p. 196)

『戦陣訓』は陸軍により制定され、東条英機が陸軍大臣時代の昭和16年1月に全軍に示達された軍人の行動規範集です。
 星新一が指摘するように、特に「生きて虜囚の辱を受けず」の一文はマスコミなどに現在でもくり返し援用され、旧日本軍による投降忌避の植えつけ、さらには玉砕や自決への心理的な強制を与えたとされているものです。
 それを「兵士はだれも知らなかった」「私だって教練で聞いたことがない」と切って捨てて、それを重要視するのは戦時中の状況理解の単純化であると批判しています。

『きまぐれ学問所』は上でも書いた通り、読んだ本の感想集で、この『戦陣訓』にまつわる発言もそのうちの一冊にまつわるものです。
 それが渡部昇一『発想法』(講談社現代新書、1981)です。

渡部昇一『発想法』(画像はPHPによる2007年新版)

 タイトルの通り、行動や思考をルーチンワーク化させないために、日々新しいアイデアを生み出す発想を豊かにするにはどうすればいいかを書いたノウハウ本です。

 リソースフルをキーワードとして、リソース(資源)を拡充と維持と補給という観点から如何に枯渇させないかを解説していきます。正直ありがちな自己啓発本かとも思っていたのですが、ところどころで著者の体験が語られ、その中にはかつて祖母から教えられたまじないや民話がまじっていたり、リソースの一環には神秘主義的な体験もあえて排除せずにヤーコプ・ベーメなどオカルティストを例として掲げていたりとなかなか読みでのある内容となっておりました。

 そのうち、星新一の目に触れたと思しいのは、「異質の眼をもつ」と題された第七章の山本七平の文章です。

「報道の偏向」とは実に恐ろしいことである。横井さんのとき、私はある週刊誌記者に、私自身『戦陣訓』を読んだことも、読まされたこともないし、軍隊でこれが奉読された記憶もない、従ってその内容も体裁も知らない、と言ったが、その人は私の言葉を信用しなかった。私は自己の体験した事実しか語っていない。そしてその人は戦後生れだから日本軍なるものを全く知らない。それでいて『戦陣訓』が一兵士に至るまでを拘束し、戦後三十年近く横井さんを拘束し続けたと信じて疑わないのであった。[後略](山本七平『私の中の日本軍』下 あとがき)

渡部昇一『発想法』(PHP、2008、p. 213、214)

 なるほど星新一同様に戦中に『戦陣訓』に触れたことは一度もなかったと書いています。

 ところが、たまたまなのですが、最近このnoteで台風についてを書かせてもらいました。

 その際に山田風太郎の戦中日記『戦中派不戦日記』を読んでこのお二人とは異なる体験が書かれていたのを覚えておりました。

山田風太郎『戦中派不戦日記』(講談社文庫、1985)

 昭和20年9月19日の記述にこうあります。

 東条でもそうである。「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ」と彼はいっているそうである。それならばそれでいい。卑怯といわれようが奸臣といわれようが国を誤ったといわれようが、文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。それならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。
「生きて虜囚の恥しめを受けることなかれ」と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ。今の百の理屈より、一つの死の方が永遠の言葉になることを知らないのか。

『戦中派不戦日記』(p. 395)

 玉音放送以降、東条英機の自殺未遂、一億総玉砕から一億総懺悔への移行など、まさに自分がよりどころとしていたものが根底からひっくり返される経験を、わずか一か月ほどで次から次へと見せつけられた当時23歳の青年が洩らした心情の吐露です。

 ここで風太郎ははっきりと『戦陣訓』を持ち出して批判しています。彼は確実に『戦陣訓』を知り、それを使用するくらいにはしっかり自らのものとしていたわけです。

 このように、陸軍大臣の名のもとに広く告示された『戦陣訓』というサンプルをもってしても、それぞれの体験は大きく異なります。
 星新一、山本七平、そして山田風太郎と、それぞれ個人の体験は否定していいものではありません。それは同時に、一人二人の体験の共通だけではそれを一般化することはできないことも示しています。

 特に、山本七平は1921年12月18日生まれで、山田風太郎は1922年1月4日生まれと、わずか2週間の差しかない、ほぼ同時生まれといっても過言でない二人の間でもこれほど明瞭な差が出るのですから、多くの体験を知りその傾向をうかがわないことには人々の考えをつかむことは難しいでしょう。

 型にはまるのを避けるには、自分用の井戸を、たくさん掘っておくべきだとなる。一本だけだと、使いすぎると水がへるし、変化のつけようもない。

星新一『きまぐれ学問所』(p. 196)

 それは、星新一が渡部昇一の『発想法』を読み、リソースの水源としての井戸の比喩を自分なりの言葉で紹介している通りだと思えます。

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山本楽志
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