CD世代の落語この人この噺「反対俥」(林家彦いち)
多くの落語の演目が時代背景をあえて曖昧にしているものが多いなかで、「反対俥」は明確に時代が明治以降とわかる噺です。
どうしてかといいますと、明治以降の人々の脚になった人力車がメインとして登場するからなんですね。
とまあ、実にシンプルな内容です。そして、あらすじをご覧いただいてピンときた方もいらっしゃるかもしれませんが、あんまり名人といわれる師匠のやる噺じゃありません。正確にはやれる噺じゃないといいますか……
噺の大部分は人力車に乗った客が車屋に振り回されるという内容で、猫が道を横切ろうとしているといえば座布団の上で膝を使って飛び跳ねて、大きなドラム缶が転がっているといえばさらに力をこめて飛び跳ねて、ドラム缶が三つも道をふさいでいるといえばもっともっと高度を上げて飛び跳ねて……
そんな感じですので、壮年過ぎの名人ではなかなか体力が持たない、そしてそういう見せる噺ですので、録音向きでないことも甚だしい。
というわけで、あまりCDも出ていないのですが、その数少ないなかで林家彦いちのものが非常に印象に残っています。
収録されているのはソニーから出ている「毎日新聞落語会」シリーズの『林家彦いち 二 [反対俥]・[遥かなるたぬきうどん]』(MHCL 2656)となります。
実はこれはとても記録的な高座なんです。
この「反対俥」の収録された平成27年3月7日の毎日新聞落語会の翌日、林家彦いちは作家夢枕獏、イラストレーター寺田克也、蕎麦職人太田伊智雄との四人連れでヒマラヤ山脈の最高峰エヴェレストの中腹ゴラクシェプに旅立つことになります。
夢枕獏原作による映画『エヴェレスト 神々の山嶺』のロケ地訪問を目的としたこの旅で、林家彦いちは標高5200メートル地点で慰問の高座を披露します。その演目もまた「反対俥」でした。
おそらくはこれは標高の最も高い場所で行われた落語口演でしょう。
「なんだそういうことか」なんていわないでくださいね。そのヒマラヤ出発直前の高揚した気分が噺にも伝染して、もともと元気のいい「反対俥」が一層勢いのあるものになっているんですから。
まず本番の前の、つかみというべき体の弱そうな車屋とのやり取りが楽しい。
車屋だけでなく人力車までもぼろぼろでへたに腰掛けると崩れてしまう、客が後ろに乗ると梶棒が上がって下げられない。そんな注意をしたり助けを呼ぶ時だけ、普段はよぼよぼで蚊の鳴くような声の車屋が、金切り声で「お客様ーっ!」と叫ぶ。このギャップが、エヴェレスト前にしてのテンションでキレキレになってるんですね。
もちろん肝心の、威勢よく走りたがりの車屋は、いよいよ手のつけられないくらいの大暴れっぷりです。
リズミカルで絶え間ない「ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ」という掛け声をあげつつ疾走して、車輪を滑らしながら急停止、そしてまるで馬が口を震わせるような、はたまたバイクの排気のような音をたてて息を整える、この人か獣か機械かわからないような豪快さがいい。
さらに前方に障害物を発見してからの一瞬の沈黙とその次に聞こえる座布団への着地音でかなりの高度に飛び跳ねたことを目に見えるように伝えてくれて、いやおうなくこちらの気持ちも高ぶってきます。
またマクラでの、ヒマラヤ出発を他の噺家に報告した際の、みんなの興味関心の薄さの再現が楽しいんですね。
正直、このマクラを聴きたいために、このCDを再生しているっていうのもあります。同じ鹿児島出身の四代目三遊亭圓歌に新作落語家にとってはカリスマ的存在だった三遊亭圓丈などなど、声真似を含めながらいかにもその人がいいそうな反応を聞かせてくれる。
「今度ヒマラヤに行くんです」
というお題に対して、大喜利の答えみたいな感じのそれぞれの反応が、ほとんどワンフレーズだけなんですが、その口調やテンポに気持ちよく笑わせてもらえます。
そうしてエヴェレストまで約5000キロの旅を終えて、その時の経験をマクラでたっぷり聞かせてくれるのが、同時収録の「遥かなるたぬきうどん(三遊亭圓丈作)」です。
アルプスのマッターホルンのアイガー北壁をよじ登って頂上で待つ客のために出前を運んでいくうどん屋さんの噺で、登山で得た知識が本編にも活かされています。
主に中森明菜の形で。
「どういうこと?」と思われた方は是非とも聴いてみてください。
収録されている2編ともに、エヴェレスト登山が大きく用いられています。
「反対俥」のマクラで、この噺家の世界が隅田川と多摩川の間の情報だけしか持ち合わせておらず、それで成り立っていると冗談めかしてしゃべっていますが、「反対俥」の結末近く、埼玉の浦和まで行ってしまった車屋が、「すいません! すぐに横浜通って上野に向かいます」と謝る場面のように、その隅田川と多摩川の間にエヴェレストやマッターホルンが入り込める余地があるのが、また落語の楽しみとも感じます。
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