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CD世代の落語この人この噺「目黒の秋刀魚」(五代目三遊亭圓楽)

 数ある秋の味覚のうちでも庶民派の代表格のサンマ……でしたが、ここ数年の不漁でかなりその地位を脅かされつつあります。
 もちろん他の高級魚と比べればまだまだリーズナブルなのはまちがいありませんが、でも「よし今日は奮発してサンマだ!」というのは、少々これまでの心構えと違いすぎて歯車の噛み合わない気がします。
 ですので、落語の「目黒の秋刀魚」を聴く場合には、プチ贅沢なサンマではなく、一山いくらのサンマ、秋になるやサンマサンマの攻勢でもう見るのもいやになったっていうサンマを念頭におくことをお心がけください。

 太平を謳歌していた頃の江戸、地方藩から参勤交代で住まいを移していた殿様がある日、暇をもてあましていたところを訓練にかこつけて目黒まで遠乗りへ出かける。
 家来のはからいもあって、それなりに満足のいく結果を出せたところが、なにしろ急な出立だったため、昼食をだれも持参していなかった。
 だだをこねる殿様をなだめつつ、近くの農家へ出向いて焼いていたサンマを求めて差し出すと、旬で脂がのっていたこともあり物珍しさも手伝ってぺろりとたいらげてしまう。
 それから殿様はすっかりサンマの魅力のとりこになってしまい、寝ても覚めてもサンマサンマサンマという有様だったが、下々の食べる魚ということで食卓に上ることはない。
 ところがある日、江戸住まいとなっている殿様同士の寄り合いの場があり、夕飯はなんでもお好きなものをといわれたのをいいことにサンマをと注文する。
 しかし、貴人にお出しするということもあり、万一があってはいけないと丁寧に脂抜きをして小骨を全部取り去り、つみれ状にしたものをお吸い物としてこしらえたのが、風味もなにもあったもんじゃなくて大変まずい。
「これもサンマか? いったいどこで手に入れてまいった」
「日本橋魚河岸より取り寄せました房州の産にございます」
「房州? それはいかん。サンマは目黒に限る」

 数ある落語のオチのなかでも、最も人口に膾炙にしているのがこの「目黒の秋刀魚」でしょう。
 それだけよく知られた噺のせいか、録音はあまり多くありません。
 その中でも出色だと思うのは五代目三遊亭圓楽の『独演会全集』の第二集に収められている一席ですね。(五代目圓楽についての解説は以前の「風呂敷」の紹介をご覧ください)

『三遊亭圓楽独演会全集 第二集』(TOCF-55132)

 収録された1977年は笑点を降板し落語一本に仕事の方向性を大きく変化させた年で、また師匠圓生による落語協会分裂騒動の起こる前でもあり、定期的に寄席に上り腰を据えて噺を練り上げている雰囲気が聴いていても伝わってきます。

「目黒の秋刀魚」は有名な噺ですが、基本は地噺で、メインとなる部分は実はそれほど長くありません。武家の、特にそのトップである殿様や、その付近の人々の浮世離れした小話をいくつも語って、締めとなるエピソードとして持ってくるという形式になっています。

 この武士を、特にちょっと抜けた武士をやる際の三遊亭圓楽の話しぶりが好きなんです。

 重々しさと厳めしさがそなわっているので、かしこまった物言いがピタリとはまり、姿勢を正して座している様子が声からも伝わってくるようです。
 それがずれた問答で一気に崩れる落差の大きさについつい笑ってしまうんですね。

 例えば、
「これ、先日の青菜はすこぶる美味であったが、本日のものはいささか落ちるの」
「恐れながら申し上げます。先日の青菜は三河島の在にて百姓が下肥を用いて作りたるもの、本日の青菜は当屋敷の庭にて魚の骨を肥料といたしました故味わいは一段落ちるかと存じます」
「左様か。下肥とやらを用いたものは味わいがよくなるか」
「御意にございます」
「では苦しゅうない。これへいささか掛けてまいれ」
 そこで間髪おかず「冗談じゃない!」と圓楽自身のつっこみが入る。

 少々汚い小話ですが、世間知らずの殿様に謹直な家臣の織りなす雰囲気と小気味のよい間の取り方で、下品だと思う前にさらっと終えてしまうので、聴いている方もからっと笑い飛ばせます。

 この掛け合いのテンポと軽快に圓楽の感想のはさんでいくリズムが、本編の殿様とサンマのエピソードでますます上がってきて、聴いている方もすっかり噺に引き込まれてしまいます。

 特に殿様のキャラクターがいいんです。
 年若くてわがままなんですが暴君というのではなく、世襲が自分の地位を保証していることを薄々気づいているからなんとか自分だけの能力で家臣を納得させたいという思いが行動に出るもののそれが空回りしているという感じで。
 ええ、感じです。圓楽は説明したりしませんが、しゃべり方でそういうイメージを起こさせて、それは私の勝手なものですが少なくともそのイメージで一貫して矛盾撞着なく聴き通すことができるように組み立てられています。このあたりも噺を自分のものにしている確かさを感じます。
 この殿様だからこそ、パリッパリに皮を焼け焦げさせて、ちょっとまだ火が燃え移ったままで出される脂の乗り切ったサンマの描写が映えて、聴いているだけで「サンマ食べたい」となりますし、そんなサンマを見て「ああっ、これは食べ物ではない、爆弾じゃ!」と驚嘆の声を挙げるのも微笑ましく思えてきます。

 登場人物の個性と噺の内容ががっちりと噛み合っているので、安心して語りに身を任せていられるんです。
 いじましく家臣にこっそりサンマをおねだりしてみたり、夢にまでサンマを見るのも愛嬌に感じられますし、自然とサンマに焦がれる思いも共有されて末節で、お椀に出されたサンマのつみれ汁の描写を聞けば、「ああ、これはまずそうだ」と笑いながらも落胆を共感できて、オチの「サンマは目黒に限る」もとってつけたところなく受け止めることができます。
 全編非常に形よく組み上がっていて、聴き終えた時に深い満足感がもらえます。

 過去の感覚が現在と大きくずれたり、または使われる言葉が合わなくなって、オチが変更されたり高座にかけられなくなった噺というのは無数に存在します。
 下々のものが食べていたサンマの味に憑かれて、それに恋い焦がれる殿様の滑稽さや、細々とした手を加えるよりも素材そのものを食べさせる方がよっぽどおいしいというアイロニーが伝わらなくなれば、この「目黒の秋刀魚」も演り手がいなくなってしまうのでしょう。
 ですので、こうした噺も自然と味わえるうちに、じっくりと堪能しておきたいものです。

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山本楽志
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