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〈読みもの〉店主の昔の日記(1)

cafe gのマガジン「読みもの」には、店にまつわる話あれこれや、全く関係のない話や、店内で読めるcafe g発行の季刊誌「季節のお便り」過去号の記事を再編集したものなどを掲載しています。

こちらの記事は、5年くらい前、まだどこかの店の従業員として働いていた頃の日記を再編集したものです。

2019.2.4
朝、久しぶりの雨の音で目覚める。今日の雨で随分雪も融けたことだろう。あたたかくなってきたのだ、としみじみ思う。びゅうびゅう風も吹いている。宮沢賢治の風の又三郎の一節を思い出し口ずさんでみる。この頃は布団からなかなか出られず、目覚めてから数分、布団の中で思索に耽る時間がある。そこでは毎度何かしらの疑問が生じる。疑問と言っても、ほんの些細なこと。今朝の疑問は、気と心の違い、「舐めてんじゃねえよ」という時に使う「舐める」は何を「舐めている」のかわからない、末端冷え性の猫はしっぽの先も冷えるのか。

2019.2.10
なぜか猛烈にBACK TO THE FUTUREが観たくなり、夕方から夜中にかけてⅠからⅢまで通しで観る。自分の生活の中で、猛烈に特定の音楽を聴きたくなったり、猛烈に特定の小説が読みたくなったりすることは、そう珍しくない頻度で起こる。しかし猛烈に特定の映画が観たくなるというのは、今日が初めて。初めて自分の中に沸き起こった欲求。欲求というより衝動と言う方が正確かもしれない。音楽や小説の場合は、これを見たり聞いたり感じたりしたためにその特定の何かを自分は欲したのだ、という因果関係を自覚していることがほとんどだ。しかし今回の場合は、なぜ猛烈にBACK TO THE FUTUREが観たくなったのかわからなかった。観たくなる前に取った行動を繰り返し注意深くたどってみたけれど、やっぱりわからなかった。(何だ、これは。)と不審に思い戸惑うと同時に、まだまだ自分すら知らない自分に流れる何かが存在している、と感じられて面白かった。

2019.2.11
今日は文章を組み立てる気力がないので、思い浮かんだことの羅列。
1、縁もゆかりもない、という言葉を聞くと、口の中でゆかりふりかけの味がする気がする。
2、嘘みたいな粉雪が舞っていた。ただただ(嘘みたい……)と思いながらうすく雪が積もっていくのを見ていた。
3、ポワレだかソワレだか知らないが、うつくしく整った名称によって、感じられるおいしさが増す気がしてしまうの何なんだ。

2019.2.13
市場でローリエの葉を枝ごと買う夢をみた。その葉からは、永遠に嗅ぎ続けていたいくらい素敵な香りがした。あの香りをもう一度嗅ぐために夢の続きを見たいなあ、と考えてから、夢の中で得た感覚というのはすべて現実で経験したことのあるものなのだろうか、と思う。そうだとしたらあの香りはどこかで嗅いだ何かであるはずで、でもそれが何だったか、どこだったか、思い出せない。

2019.2.17
雪が解けたと思ったら積もって、積もったと思ったら解けての繰り返し。日中できた水たまりが夜には水かたまりになっている。天然アイススケート場だ。吹く風も肌を刺すつめたさ。でも数日前からシジュウカラがつーぴーつーぴー囀っていて、冬鳥も徐々に減ってきていて、少しだけ春の予感がする。

2019.2.20
雨が降ったりやんだり。雪どけの音がする。雪に埋まっていた落ち葉が露わになり、どことなく春の香りが漂って、心おどる。クリーニングを取りに行くと、ちょうど小学生の下校時刻。5人くらいの女の子の集団が傘をさして、僕らはみんな生きている、と大声で歌いながら歩いていた。しみじみいい歌だな、と思って、自分でも口ずさんでみた。

2019.2.11
常連さんが自分のことを覚えていてくれてうれしい。そしてやはり香りに包まれながら誰かに珈琲を淹れるのはたのしい。その珈琲を飲んだひとの口もとが綻ぶのを見ると、もっとうれしい。おいしかったよ、なんて声をかけて貰えたらもうしあわせ。豆を選り分けたあと、あるいはネルを洗ったあと、手に残る香りがたまらない。歌いたくなる。しかしあくまで雇われの身、ぐっと堪える。ここはそういう店ではない。いつかまっさらな自分の店を持ったら、ぜったいに歌ってしまうと思う。ふんふん歌い、にこにこ上機嫌で珈琲を淹れるひとが店主の店、誰か来てくれるかしら。来てくれるといいな。嫌なことがあってもここに来て一緒に歌おう。ままならない人生なんて笑い飛ばしてしまおう。でも泣きたければうんと泣いたらいいよ。そういう居場所でありたい、少なくとも私の構える店は。そうやってどんどん夢はふくらみ、しかししぼまないうちに形にしなくては、と言い聞かせて頰をつねってみたりする。
Apple Musicのプレイリスト「僕の細野さん、私の晴臣さん」を聴きながらねむる。

2019.2.23
朝から焙煎。終日髪の毛や服から香ばしくも煙たい匂いがする。自分としては何かひとつながりのうすいベールに包まれているようで安心するが、道ゆく人に文字通り煙たがられないかと少し気になる。しかし人というのは案外他人のことなぞ見ていない、聞いていない、嗅いでいない、触れていない、味わっていない。つまり私が見えないベールに包まれて浮き立っていることに気がつく人なんていない。こういうとき、普段はどことなく曖昧に溶けあっている自分と他人との境い目が明確になって、白く美しい砂浜に打ち寄せる青い波をぼんやり眺めているような気持ちになる。

2019.2.26
一日に殆ど初対面(と少しだけ知り合い)の何十人もの人と会う仕事だが、そのことについてはこれまで特に思うことはなかった。しかしこのごろ、それが不思議なことのように感じられた。人びと(=客)は「店員」という以外はほとんど素性のわからない人(=自分)にお金を払い、飲食物を作って貰い、それを口にする、ということが不思議なことのように感じられた。人間というのは不思議なことをして生きているものだな、と。ところで不思議という言葉を使いすぎて、不思議とはどのようなことだったかわからなくなってきた。不思議。お風呂をぴかぴかにしてから眠る。

2019.2.28
自室の模様替えをする。と言っても壁紙を変えるような大々的なものではなく、家具の場所や収納の配置を多少入れ替える程度。生活している中で導線がある程度固定されてくると、惰性でそれなりに日々を過ごせてしまう。多少不具合があってもいつも通りのふりをして、難なくこなせてしまう。それは生活が安定することで、おそらく良いことだ。しかし、急にそこから脱したくなる時がある。崩したくなる時がある。そういう時、模様替えをする。結構な頻度でやっている。今日は朝だったけれど、夜中の時もある。机をがたがた移動したり本棚の本を並べ替えたりしていると気が済んで、よし、なんか大丈夫、という気分になってくる。本当は全部ぶっ壊してしまいたい気持ちを、何かを移動し、整えることによってごまかしているのかもしれない。

一週間ほど前、装丁に惹かれて買った「蜜蜂と遠雷」を読み終える。吹奏楽をやっていた頃の記憶がぶわっと蘇る。楽譜や他人の演奏をみて(きいて)、それを自分がどう解釈し、またどのような演奏をするかというのは、何かに似ているなあと思う。いや、何かに似ているのではなく、それは表現することの全てかもしれない、と思う。そうしてやっぱり今の自分は、それをコーヒーをつくることに重ねてしまう。豆や他人の一杯をみて(味わって)、それをどう解釈し、自分はどのような一杯をつくろうとするのか。
読んでいる最中、春と修羅というコーヒーをつくるなら、と妄想した。花のような香りがふわっとして、萌黄色のイメージ。きりっとした酸味、しかし後から押し寄せる深い苦味にはっとするような。きっとそういうのがいい。この本は、表紙を触ると少しでこぼこしている。紙を撫でながら、ああ、明日は3月、春がくる、とうれしく思う。

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