映画『トラぺジウム』感想
※以下は『トラペジウム』公開初週くらいに書いた感想です。時間がなくて結局まとめきれなかったのですが、これだけ書いて放置するのもなんなので今更ですが放流します。上記の経緯により、終盤は文の体を成しておらず、単語の羅列です
『トラぺジウム』を見た。
もともとどこかのタイミングで見に行こうと思っていたのだけど(総作画監督がけろりら御大だし)、うっかりツイッターで目に入ってしまったバズ狙いの酷評ツイートとTogetterまとめの存在があまりにも頭にきてしまい(「サイコパス」などといった「強い」表現で感性を塗り込めて多数の趨勢を決めてしまうことで作品の評価が固定されてしまう昨今の風潮は本当に最悪だと思っている)、これ以上ネットに印象を汚染されないうちに早めに見ておこう、と心持を改め、公開初週に見に行くことと相成った。ちなみに原作小説は未読(鑑賞後に電子版を買ったのでこれから読もうと思う)。
やはりというべきか、一見して面食らう、しかし真摯な主人公の青春を描き出した、まぎれもない快作だという印象を持った。ちゃんと自分の目で見ておいてよかったな。パンフレットも買ってしまった。これもこれから読みます。
(以下本編ネタバレ)
映画は、主人公の東ゆうがどこかを目指して電車に乗っているところから始まる。東は手元のノートに目を落とし、イヤホンで耳を閉ざしている。イヤホンの外では男子高校生がやや下世話な話をしていて、東が外部や俗世的なものと一定の距離を置いていることが伝わってくる。電車がどこかの駅に着く。目の前の座席に座っていた女子高生たちーー制服は東のそれとは違うーーが降りていく、それに気づいた東もあわてて立ち上がり、電車を降りる。カメラが一気に上にパンし、オープニングが始まる。
オープニング映像がまた素晴らしいのだけど、それは見てもらうとして、大事なのは、オープニング映像を通じて、主人公の孤独と取り残されることへの不安、アイドルへのあこがれが見事に描写されていることだ。オーディション落選、通り過ぎていくバス、誰も乗っていない自転車たち、異物としての東、それでも前に進むことを支えてくれるアイドルの存在。ここまでで主人公の内面をかなり開示してくれているのだけど、それが何、サイコパス????
「異物」としての東ゆう
本作はかなり正統的な画面構成を貫いている、という印象を受けた。たとえば、主人公の東がほかの学校を訪れるとき、ほぼ必ず東は、ただ一人違う制服を着ている東は、右から左に移動する。手元の本から引用しよう。
ただし、東はヴィランとしては設定されていない。彼女は「異物」として描写されているのだろう。大勢的なものに飲まれない存在として。
あるいは一例として、東が華鳥蘭子(「南さん」)と出会う場面を考えてみたい。多数の中にまぎれていた蘭子は左から現れるが、その直後、蘭子が一人だけ大映しになる瞬間には、カメラが反転し、蘭子が右から左へ移動するさまが描かれる。
端的に言えば、本作において、右から左への運動は異質性を、左から右への運動は均質性を意味しているように思われるのだ。
終盤、ホームで茫然としている東の前を、進路について話し合う女子高生たちが去っていく。左から右へ。東は電車に乗ろうとする。しかしそこに電話がかかってきて、東は電車に乗ることができない。アイドルとしての道を断たれた東が乗り損ねる電車は、左から現れ、右へと去っていく。アイドルの道は断たれてしまっている、にもかかわらず、東はノーマルな生き方をすることができない、ということがここで痛切に示されている。
繰り返される(ミス)コミュニケーション描写
本作では、(東によって捏造された)「運命」を通じて出会った4人組「東西南北」が、アイドルへの階段を駆け上がっている、その過程のまさにはじまりから、4人の間にはどこか溝がある、ということが執拗に描かれる。
東と蘭子の出会いの場面、ほとんど視線を交わさなかった東と蘭子は、しかし、互いに向かい合って視線を合わせ、「友達」になる。けれどもその瞬間、フレームは柱によって断絶されていて、蘭子には日向の側に、東は影の側にいる。この場面に限らず、東は頻繁に影の側に置かれる。喫茶店の前で工藤相手に言葉を濁すシークエンスでは、工藤は街灯の差すほうに、東は暗がりのほうに進んでいく。秘密や葛藤を抱えるものは暗がりへ。東と同様に頻繁に暗がりに置かれるのがくるみで、彼女は最初からアイドル活動への違和感を抱えている。
そして、再会と対話を通じて、東に光がさす。
あるいは、4人の間の距離はもっと直接的にーーくるみと他3人の間の距離、視線の不一致であるとか、東と他3人が電車内で会話を交わさないところであるとか、ライブ直後、くるみと蘭子は眠りこけ、亀井=北は誰かと電話し、東はそもそも室内にいない、であるとかーー示される。
東ゆうの根底にある思想、あるいは東にとってアイドルとは何か
東ゆうはひたむきにアイドルを目指し続ける。その執念は、「狂気」とすら形容されるほどに苛烈である。
その割には、東ゆうの計画は、あまりにも突拍子もなく、あまりにもずさんだ。その背後には、東がオーディションを受け続け、落ち続けていたがゆえに、正攻法でのデビューをあきらめてしまっていた、という理由があることが作品中盤で明かされる。
東ゆうの特異な点は、そのような挫折にもかかわらず、決してスレることなく、その異様なひたむきさを、たとえ見当違いであっても、執拗に発揮し続けるところにある。そしてその根底には、アイドルによって「光」を与えられたという原体験がある。では、「光」とは、ひいては東がアイドルに見出している特異性とはなんなのだろう。
手掛かりになるのは、数年後、見事にアイドルになった東ゆうが、自身の来歴を問われた際、「たまたまオーディションを受けて~」と回答している箇所だろう。これは明らかに嘘だ。たまたまなはずがない。何度となく受け続け、試行錯誤を繰り返しての合格だったはずだ。にもかかわらず、「アイドル」になった東は、平気でそれを「たまたま」と形容する。客観的に見れば明らかに嘘であるそれは、しかし東の思想の上では正当化されうる言明としてある。なぜか。
あるいは、東が亀井の整形を「全然あり」としているのに対し、彼氏持ちであることに関しては「最低」「友達にならなきゃ良かった」と唾棄して見せたのはなぜか(「バレないようにやれよ」ではなく! 個人的には整形も彼氏持ちも「全然あり」の範疇なのだが…)。
「夢って叶うんだね」
無数の賭けを重ねた結果得られたたった一度の結果を必然だと言い張ること。
偽物の因果を本物だと言い張って、本気で信じて見せること。その生き証人であることをステージの上で示し続けること。
そうして受け継いだ因果を、自分の人生の上で再度「証明」してみせること。
人間は光る。普遍に、彼方に至ることができる。形而下で不可能なことが可能であるかのように、ごまかしを排除して真摯に偽証し続けること。けれどそれは、意識の上では偽証ではなく、生きている限りはまぎれもない真実として遂行される。
夢じゃない 現実にする
その場の調和を保つために口パクを受け入れる蘭子に対する怒り
「友達にならなきゃよかった」
おなじひたむきさを共有していることが、東にとって
あらかじめ裏切られていた
そのような光に照らされて輝いていることに、忸怩たる思いを抱きながらも一定の肯定的評価を与えていた東にとっては、それを土台から揺るがす
海に背を向けていた少女が海へと向かう物語