「ウルトラマン=阿弥陀如来」説
「暑さ寒さも彼岸まで」
東京は彼岸の中日を境に、急転直下で秋になった。やることが極端で、品がない。
今年の夏は長すぎた。甲子園球場で延長十八回まで闘い抜いたかのようにもう、へとへとである。高校球児なら一晩寝たら翌朝は元気に飛び起きるだろうが、毎日のように妻に腰を踏んでもらっている情けないぢいさんと化した余は、一朝一夕には復活し得ない。それで八月は「へろへろ」をテーマにして顔つなぎに特化した矮小な駄文を掲載して誤魔化した次第である。
まあ、とにかく、秋になったのだから、食欲が増進するであろうから、食うだけ食ってうんと太ってヌリカベのような堅固な身体になりたいものである。
前置きが長くなった。
タイトルに掲げたことに就いて開陳しようと思う。実は長い序奏をつけたのは、本題部分がたぶん大した長さにならないからである。
もう四五年前のことだ。ある日、突然、ふと思いついた。
「ウルトラマンて、阿弥陀如来なんじゃないか?」
この二者について思慮に耽っていたわけではなく、言わば突如「降りてきた」のだ。
先ず、ウルトラマンの主題歌の一節を想起願いたい(若い方々は知らんだろな)。
「♫光の国から僕らのために…」
ウルトラマンの故郷はM78星雲、ということになっている。厳密にはM78星雲の中の或る恒星を公転している一惑星が古里なのであろう。この惑星は、地球に比べて恒星からの光が遥かに強い。ウルトラマンたちはこの光を栄養源としている。言わば「光を食べている」わけである。
だからウルトラマンは、地球上に長く滞在できない。地球の太陽光では腹の足しにならないのだ。
これを説明する石坂浩二のナレーションがかっこよかった。
「ウルトラマンを支える太陽エネルギーは地球上では急激に減少する…」
これがいつの間にか「3分間」と限定されるようになったが、そもそもは太陽光の強さや繰り出す武器によって活動時間はまちまちだったのだ。
さて、阿弥陀様である。
阿弥陀仏は言わずと知れた浄土宗、浄土真宗の本仏である。
阿弥陀仏は、一〜ニ世紀のインドに起源を持つらしい。「阿弥陀」はそれが中国に伝わった際に音写されたもので、その語源はサンスクリットのAmitāyusまたはAmitābhaである。
Amitābhaは「無限の光をもつもの」という意味で、それ故、阿弥陀仏は「無量光仏」とも呼ばれる。
ん?「光」?そうなのだ。ウルトラマンはその「光」の国から来たのだ。だから「光の化身」と言ってもいい。
阿弥陀仏とウルトラマンは「光」という共通点を持っているのだ。
更に、阿弥陀仏がおわしますところは「西方極楽浄土」で、「阿弥陀経」には荘厳なまばゆい世界として描写されている。まさにウルトラの星「光の国」ではないか。
とどめだ。ウルトラマンは、地球人に(ほとんど日本人に、だが)危機が迫ると、彼方から飛来し、怪獣や宇宙人をやっつけて、僕たちを救ってくれる。
片や阿弥陀仏の前には怪獣や宇宙人は現れないが、人間がその末期を迎える時に来迎(らいごう)し、悩み苦しみのない極楽の世界へ連れて行ってくれる。
浄土真宗では他力本願を重視する。余計なはからいを捨て、一切を阿弥陀仏に任せれば、阿弥陀は必ず「救いとって」くださる、と教える。
ウルトラマンも阿弥陀様も、人々に平和をもたらし、心を安らかにしてくれる「救いとる」存在なのだ。
これだけの類似点があれば、ウルトラマン=阿弥陀仏、という説は、強ち牽強付会が過ぎるとも言えまい。そうでもないか。
ここまで書いて、はて、ウルトラマンが放映されたのはいつだ?と思って調べたら、1966年(昭和41年)だそうだ。もう半世紀以上前ではないか。歳をとると時間軸が縮むのであろうか。ついこの間のことのように思ってしまった。則ちこの「発見」に唸ってくれる方はかなり限られていて、大方は楔形文字を眼前に並べられたような思考停止状態なのかもしれない。
いやー、どーも。ごめんなさい。
(了)